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西遊異譚  作者: こいどり らく
第一章
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第十四話 出立。

「ありがとうございました」

 旅をするにおいての心得や、道中避けられないであろう諸々の対処法を恵岸から教えてもらった三蔵は、旅立つ前からげっそりと消耗しながらも有益すぎる情報に丁寧にお礼を言った。聞かないよりも遥かに賢い選択だった、と心から思えるのが最大の慰めだ。

 部屋から出る頃には、温度の低い朝の日射しは昼の温かさに近づいていた。

 天竺国へ向かうと決めたからにはのんびりとはしていられない。

 刻一刻と流れる時間は、玄奘三蔵が自分の世界から消えていなくなった時と同じくしている。三蔵がこの世界にいるならば、あちらの世界で彼女の存在は行方が知れない。当然の摂理であり、純然たる事実は覆らない。

 三蔵にとっては目覚めてまだ一日と少しほどの感覚だが、確実に七日の時は流れている。ここからずっと彼女の存在は消費され続ける。

 行方不明になった彼女を、家族はどこまで探し続けてくれるだろうか。待ち続けてくれるだろうか。諦めてしまわないだろうか。彼女と親しくしていた友人たちは、重ねるはずだった思い出を重ねることも出来ず、どこまで覚えていてくれるだろうか。

 戻っても、戻りたかった場所は、果たしてそこにあるのだろうか?

 この旅路は、この世界は、彼女にとって初めから不条理で、理不尽だ。

「三蔵様」

 外には、紫釉と泰然が旅支度を調え、馬を一頭引き連れて待っていた。

 敬われても、傅かれても、彼女の過ごしたかった人生に一欠片すら貢献しない。ただ戻りたい場所がずっとあることを信じて、そこに帰ることが出来ることを信じて、帰りたい自分を諦めずに、この世界で会った人たちを頼りに進んでいくしかない道だ。

「お待たせしました」

「僕たちもちょうど準備を終えたところです」

 泰然が馬を引きながらにこにこと歩み寄る。

「紫釉と僕が交代で手綱を引いて誘導しますので、三蔵様はどうぞこちらにお乗りください」

 栗毛色の馬を上から下まで眺め、三蔵は一歩後ろに退いた。初めて馬というものを生で見たのだ。

「あの、私、馬には乗ったことがなくて」

 近づくと、湿った温度を感じた。馬がぶるるっと身震いをし、吐く息は、慣れ親しんでいない三蔵にとって決して快いものではなかった。生き物の匂いというのは、小学校の飼育小屋の記憶しかない三蔵は、思わず怖じ気づいた。

 三蔵に反応するように首を竦める馬を撫でて宥めながら、泰然はほがらかに笑う。

「大丈夫、大丈夫~。乗り降りは手伝いますし、自分で手綱をさばくのではないなら落ち着いて乗っていれば何てことはないですよ。この馬は人慣れしていますし、大人しい馬です」

「紫釉さんと泰然さんは、どうするんですか?」

 馬は一頭しかないように見える。わざわざ三蔵が乗る馬を引いていくというなら、引く相手は徒歩ということになる。

「どうするとは?」

 紫釉も泰然も不思議そうに首を傾げる。  

「歩き慣れない山道はお疲れになるでしょうし、三蔵様が旅路に慣れない生活をしていたと伺っております。私どもは慣れておりますゆえに気にするところではありません」

「そうそう。早く太宗皇帝のところに行って、三蔵様の身を守る旅装束を授かりに行きましょう」

 泰然の言葉に紫釉が深く同意を示す。

「長安までの道のり程度なら私どもでも役に立ちましょうが、それ以上は御仏のお力添えがないのは心許ないですから」

「ここから長安は方角的にも進む方向と同じですし、それだけは幸いでしたねぇ」

 ほのぼのとそんなことを話す彼らに三蔵は何も口を挟むことが出来ない。というより、何を言えばいいのか、言っていいのか分からない。

 旅行といえば、車で高速道路を走る。新幹線に乗る。バスで移動する。全部、連れて行ってもらった。旅程も道も、考えるのは学校や親で、彼女が一から計画したわけではない。乗り物に乗りっぱなしで景色を見て、家族や友人と喋って、眠って、スマホをいじっていれば目的地に着く。

 馬と徒歩で移動をするという途方もなさに、先の想像が追い付かなかった。

 眼前に広がる景色を見れば、広がるのは荒涼とした山々で人工物といえるものはなにひとつとしてない。峰や崖は険しく、眺めるだけならば景勝の地として相応しいが、そこを行くとなれば、未知の道程すぎた。

 山登りすら親しんだことがない三蔵にとって、途方がない、とまざまざと圧倒させる景色に足が竦む。

「紫釉と泰然は、わしの一番弟子でのう」

 見送りに出てきていた法明が、三蔵の隣でゆったりと口を開く。

「幼少の頃より、ここで育ち、修行を積んで参りました。あなたを守り、あなたに導きを与えよと、よくよく言い聞かせて置きましたゆえ、遠慮せずに扱き使ってやってくだされ」

 出会ったときよりずっと優しさの滲む眼差しが、三蔵を守るように見つめる。 

「千里を見通す観世音菩薩様の目は今や閉じておられる。あなたは一人、ここにありますが、進む道は、決して一人で乗り切れる道ではありませなんだ。紫釉も泰然も、あなたのためにあります。道中、どうぞ、信じ、お頼りください」

「はい……、ありがとう、ございます」

 三蔵は、それ以上、何も言えず、言葉が支えた。

 会ったばかりの相手を無条件に信じることも、頼ることも、本来なら難しい。けれど、彼らが初めから労りを尽くしてくれたからだろうか、それとも、これが玄奘三蔵として招かれたゆえの彼女の性質だろうか、玄奘三蔵は、先ほどよりも胸の支えが取れたように微笑んだ。

「まだ西から遠いこの地は妖怪も人魔も少ないと聞いてはおりますが、いないわけではありません。油断召されぬよう、努々お気を付けなされ」

 法明は、白く染まった眉に隠された目で、見えない道を見ようとするように遠くを眺め、行く道が安泰であるよう祈りを込めて両手を合わせた。

「あなたを助ける役目を賜ることが出来たのも、何かの縁でありましょう」

 祈りを捧げ、法明が深く礼をする。

「紫釉、泰然、共には行けないこの老いぼれの代わりに、三蔵様をよくよくお守りするのだぞ」

「承知致しております」

「お任せください、法明様!」

 二言三言、別れの言葉を交わしたあと、紫釉は手綱を握り、泰然が馬へと鞍を乗せる。

「三蔵様、ここに足を掛けてみてください」

 そういって泰然に手を差し伸べられ、三蔵がその手を取ろうとした時だった。

「泰然」

 馬を見張っていた紫釉が、泰然を呼ぶ。

「馬はお前の方が扱いがうまい。乗せる役目は私が代わる。手綱を引いていてくれないか」

「いいけど、どうしたの? 何か問題あった?」

「いや、三蔵様に少しでも何かあっては困る。気を付けて損はない」

 持っていた手綱を泰然に預け、紫釉は三蔵の前へと進み出る。

「本当に真面目だねぇ、紫釉は」

「ああ」

 紫釉が三蔵へと手を差し出す。

「御手を」 

「あ、はい!」  

「ここを掴んでください。片足はここに。体重は前に掛けて」

 いちにさんと掛け声と共に、鞍に跨がせる。

 途中、バランスを崩し掛けるも、危なげもなく紫釉に支えられ、事なきを得た。

「す、すみません。ありがとうございます」

「……いえ、お気を付けください」

 紫釉はちらりと三蔵を見やってから、体勢が安定したのを見届けるとすぐに離れ、荷物を背負って馬の傍らへと戻る。 

「それでは、参りましょうか」

 行く道は長く、まずは大唐国皇帝太宗の元へ。三蔵は馬の上から法明を見て、頭を下げた。

「お世話になりました」

 それから、何と言えばいいのか迷い、紫釉や泰然はともかく、三蔵自身は一度ここを出れば戻ってくることはないだろうと思いながらも、出掛けるときに言い慣れた言葉を口にした。

「いってきます」

 法明は白い眉の奥で目を瞬かせたあと、柔らかに微笑むと両手を合わせ深々と礼をした。

「気を付けていってらっしゃいませ」

 今まで、会おうとすれば会うことが叶う経験しか知らない三蔵にとって、今生の別れという表象は遙か遠い。

 法明は、幼いとしかいえない頼りなげな背中を眺め、あの少年が玄奘三蔵という役目を終え、無事に望む地に帰ることが出来ることを、ただ願い祈り、送り出した。



 彼らを見送っている法明の後ろに、観世音菩薩が気配もなく姿を現した。

 振り返った法明は驚き、身を低くする。

 ぼうっとしている観世音菩薩とその後ろに控える恵岸が、三蔵たちが旅立った方角をただ見つめていた。

「法明よ、大儀であった」

 法明には、観世音菩薩が酷くゆったりと言葉を紡いでいるように聞こえる。

 実情は、もう観世音菩薩という存在がこの地を離れ遠くなりつつあり、法明にその御声が届かなくなっているというだけだ。

「あの弟子たちも、よくぞ玄奘三蔵と共に旅路に出る決意をしてくれた」

 無事にこの金山寺に帰ってこられるとは限らないというのに。

「あの少年は、もう何もかもなげうってここにあるというのに、私どもが惜しむものがありましょうか」

 観世音菩薩は、答える法明に微笑んだ。

「山門を見よ、法明。そこの松の枝が東を向いたら、お前の弟子がここへ戻るということ。東を向かないうちは帰ることはない」

 見守り、そして祈りを捧げよ。法明は、観世音菩薩の御言葉を押し頂いた。

 御仏の気配がほとんど天へと還っているのを感じていると、ぽつと観世音菩薩がのんびりと口を開いた。

「そういえば、気付いていないようだから言っておくが」

「はい」

「あの三蔵は娘ぞ」

「……!」

 法明が、これでもかと目を見開いた。

「なに、性別など些末なことよ。気にするな」

 そう言い置いて、観世音菩薩たちは完全に天へと昇った。

 後ろに控えていた恵岸が、しまった、教えないといけないことだったかという顔をしていたが、伏していた法明が知る由もなく。

「…………」

 法明は一人残されたあと、思わず天を仰いだ。法明が気づいていないならば、あの弟子二人が気づいているわけもない。

 仰がれた天は、人の性別の在り方の不便さなど知るところではないだろうが。

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