第十三話 仕方がない。
世界を越えても、朝は来る。
スマホのアラームが鳴る前に目を覚ました。
わけではなく、アラームが鳴るはずのスマホ自体がないのだということを、三蔵は思い出す。
(よく寝た)
驚くほどによく眠れた。そうあるべきだと体がシャットダウンされるかのように眠った。快眠だったと思わざるを得ないほど、頭がすっきりとしている。
恩恵。
昨夜、観世音菩薩はそう称していた。
こちらの世界に落ち、意識を失っていた七日の間、観世音菩薩は、まだ三蔵としてこの地に馴染まぬ彼女に祈りと願いを込めた。すでに生まれた体や心を作り替えることは神にも出来ぬ。ゆえに、少しでも健やかであれるようわずかな恩恵を与えた。
「寝る子は育つとは言うけどさぁ……」
彼らの説明を簡単にまとめるとこうだ。
どんなに不安な夜であろうとも、疲れすぎてほぐれぬ体が眠りを妨げようとも、これ以上なく質のいい眠りで、どんなときも目が覚めることができる。眠らないことを自分で選ぶことは当然できはするし、自らの能力以上の疲労を除くことは出来ないが『眠れない』ことに煩わされることがなくなる。
「…………」
それの何が恩恵なのだろう、と観世音菩薩たちが去った後、法明や紫釉、泰然に問えば、羨望と慈愛に満ちた眼差しを向けられた。
『眠れぬ夜は辛く、眠れなかった翌日はさらに辛いものです』
しみじみとそう言われた。
そうなのか、と三蔵は思うしかなかった。確かに夜更かしをしてしまった翌日の朝は辛いけれど、恩恵としてまで与えるものなのだろうか。
昨日のことを思い出しながら、三蔵は大きく伸びをした。
「えーと、身支度を、整えないといけないんだよね」
決して寝心地のいいとは言えなかった布団の上で、三蔵は思案する。
呼ばなければいけないのか、恵岸を。
枕元に置いていた旅装束を広げて見る。寝る前に見てみようと思ったが、暗すぎて何も見えなかったのだ。
日の光の下で広げて見て、そんなに難しい構造の衣服ではないと知るが、一度教えて貰わねば勝手が分からない服ではあった。他にもいろいろと聞きたいことはある。
しばし悩んだあと、三蔵は顔をあげた。
「いや、女の人いないのかな」
まずはそこからだ。
着替えを手伝って貰うのに女の人はいないか聞こうと襖を開けたそこに、盛大に欠伸をしながら通りがかる観世音菩薩と目が合った。
「ああ、玄奘三蔵、起きたのか」
寝癖すらこしらえて、観世音菩薩が眠たげに声を掛けてくる。
「……?」
「顔が変だぞ、どうした」
昨日の、人あらざる神々しさは何だったのか。
何を人のように闊歩して、眠たげにしているのか。
彼らが下界で自由にならなくなるというのは、人のように不自由になり始めるということだと三蔵に分かろうはずもなく、さまざまな思いが胸に去来する。
「おはようござい、ます」
本来は眠りを特別必要ともしない存在が、挨拶をされながらまた大きく欠伸をした。
「まだ着替えていないのか。恵岸を……」
「お、女の人に教えて貰いたいんですけど」
「寺に女人はいない」
ばっさりと切り捨てられる。
「恵岸では不服か」
不服とか不服ではないとかいう問題ではない。
観世音菩薩は、三蔵が何をそんなに困っているのかわからないようで、ふむと頷くと「恵岸が嫌ならば私が手解きしてやろう」と言い放った。
「え」
「女人がいいのだろう」
「えっ」
「私に性別はない」
「えっ!?」
斯くして、三蔵の理解しきれない複雑な気持ちを置き去りにしたまま、問題は解決した。
「観世音菩薩様が?」
「お前では不服だと言うのでな」
三蔵が身支度を調えて朝餉の席に出てきたので不思議そうにしていれば、観世音菩薩が答えた。そう言われ、恵岸はわずか間を置いて瞬きをし、それから、ああ、と納得の声をあげた。
「世話役に仙女を連れてくるべきでした」
観世音菩薩に性別の意識が希薄なのは承知していた分、恵岸がその部分を補えばいいと考えていたが、恵岸は恵岸で、三蔵をほんの赤子のようにしか考えていなかった。子どもの世話をするのに自らの性別には無頓着であり、また、人の子は人の子であり、それ以上でも以下でもなかったため、性別を違う人の子への配慮まで思い至らなかった。
必要とする旅道具や、その使い道、道中困ったときにどうすればよいかの対処も身支度の時に教えておこうと思ったのだが、これでは難しいかもしれないと恵岸は思う。
かといって、恵岸たちにはもう仙女一人すら呼ぶ余力がない。
玄奘三蔵という存在を理解し、過不足なく説明を授けられる人の女を近くの町村から見繕うには日数が掛かりすぎる。せめて恵岸のような大男からでなければまだ気休めになろうかと金山寺にいる者で考えるも、女人と関わることが普通よりも少ない人の男が得られる知識では対応できないことの方が多いだろう。
恵岸は、思わず人のように大きくため息を吐いた。
玄奘三蔵には、これからのために折れてもらおう。
彼らが出来ることは少なく、望みは果てもなく、飲んでもらうことは多い。本当に申し訳なく思う、と恵岸は青空を見上げた。
朝餉の後、三蔵を呼び、恵岸はことの次第を丁寧に説明し、目覚める前のことも含めて頭を下げた。
「わ、かりました……」
最初の説明を飲み込んだあとの三蔵は、嫌そうな顔はするものの、それ以外に選べるものがないと理解すると聞き分けがよかった。その聞き分けは諦めとも違い、相手の真摯さによって折れてくれるという風だった。
信頼の上に成立する許しと委ねであり、投げやりなものとは趣を異にする。
優しく、そして賢い娘だなと恵岸は思った。