第十二話 観世音菩薩
「と、言っても、何を話すのがよいのかのう」
凡人たる法明に、三蔵が望むような世界の違いを考慮して話をしてやれるかはまた別の話だ。そもそもの違いがなんたるかを理解しているわけではないのだから。
神仏から賜った導きならば伝えられるが……と、法明が白い髭を撫で、よくよく考え込もうとした時だった。
夜の影となっていた障子がまるで日の光に当てられたように煌々と真白に浮き上がった。音もなく開いた障子の向こうの夜は、夜のまま明けてはいない。しかし、燭台の灯火のみが光源だった部屋は、朝焼けのごとく白んでいた。
「話しはついたようだな」
いつの間にか、清らかな空気を纏いし彼の存在が、うっすらと光を帯びてそこに御座していた。帯びる光が後光だと気付いたとき、三蔵は顔を上げたまま呆然とし、三蔵以外の人間は平に平に伏した。
緑の目の御方に微笑まれ、三蔵はただひとり思わず呻く。
そこに御座します御仏がために雲は開き、月は満ち、闇夜は晴れ、後光が差す。
異常現象過ぎて、いっそ笑いが込み上げそうになる。それでも、頭を伏せる彼らの間近にいて、御仏への敬意が、畏怖が、くすりとも笑えないほどの重さでのしかかる。
敬虔。
それが敬虔である者たちだということを、敬虔さを知らない三蔵には理解できなかった。緑の目の彼の者に、三蔵だけがこれ以上なく引いている。
「恵岸」
観世音菩薩が恵岸の名を呼ぶ。
そうして、やっと三蔵は、観世音菩薩の後ろに控えていた恵岸の存在を認識した。
観世音菩薩より倍はある筋骨隆々とした男だというのに、気配も存在もいつも名前を呼ばれてから一寸遅れて流れ込んでくる。その存在の差異が神格の違いであることを、説明されれば知識として理解はするかもしれないが、感覚として納得することはきっと難しいだろう。
この空間で、圧倒的な在り方の違いを感ぜられない三蔵が異質なのだ。
威圧感のある体躯が無言のもまま三蔵の前へと出る。
「こちらを」
有無も言わさず、差し出され、思わず両手を出す。
「あなたの旅装束です」
見慣れない衣服だったが、紫釉や泰然が着ているものと似ているようにも思う。
「……旅装束」
「金山寺で用意できうる限りの、最上のものを用意させました。身に付けるには勝手がわからぬことがありましょう。出立の時分、手伝いに参りますゆえ」
観世音菩薩と同じ目の色が篤実を映して三蔵を見返す。三蔵は、言葉に詰まった。
恵岸は、無言を肯定と受け取って深く一礼すると、後ろへと下がった。
「本来は、お前を大唐国皇帝太宗の元へ降ろすつもりだった」
観世音菩薩が口を開く。
「私の力が及ばなかった」
その一言に、平伏したままであった法明が、紫釉が、泰然が、息を飲んだ。呆然と顔を上げ掛けた動作を、人の矜恃を持って震えながら伏する様が、観世音菩薩が放った一言が、彼らにとって尋常ではないことであると伝えてくる。
眉一つ動かさないでいるのは恵岸だけで、三蔵は戸惑うように周囲を見回した。
「生来、我らの働きは防がれたるものではない」
施さぬことを選ぶことはあっても、出来ないから為し得ないという事象は起こらない。御仏は自然と等しく、すなわち、彼の力が及ばぬは、未曾有の天変地異である。
「世には人と妖怪が存在し、人は尊厳を失うと妖へと落ち、人魔となる。生粋の妖怪すら人魔を持て余し、ときに蹂躙され、ときに圧せられる。見境なく殺し、奪い、我欲を貪り、分け合うことなど知らぬ。西方おわす釈迦如来様が世界の歪みに囚われ五百年、もはやこの世は蠱毒のごとく」
観世音菩薩は詩を詠うように、世界を紡ぐ。
「何が悪たるかという根源はなく、渦中にあるものには見通せぬ理を、玄奘三蔵だけが捉えることが叶う」
叶う存在が、招かれている。
「世界はただあるべくしてあり、ゆえに交渉の手はなく、開かれるものもない」
たとえ、未曾有の天変地異が起ころうが、破滅の最中にあろうが、世界は世界を求めない。いつだって異なる世界に何かを求めるのは、為す術なく世界にある者たちだ。
「我らは歪みから一条、お前という存在を引き抜きはした」
歪みに歪んでいたからこそ引き抜くことができ、そのような隙間からすり抜けうる存在に、是非もない。
「理が違うというだけで只人のお前に、それ相応の旅装束を天がしつらえ、太宗に預け置いていた」
それなのに、座標はずれ、落ちたるは運河。近くに法明のいる寺があったからいいものの、そうでなければどうなっていたか分からない。
「急ぎ金山寺において旅の支度を調えさせはしたが、所詮、人の世のもの。道中、お前の身を守るには足りぬだろうが、私も恵岸も、下界へ干渉することが自由にならなくなっている。太宗のもとへお前を運ぶことは叶わず、この地に留まることももう容易ではない。導きを授けることも、西へ行くほど難しくなるだろう」
拠り所となる寺院や依り代があれば導きも授けられようが、そうでなければないのと同じ。
「身勝手にこの地に招き、我らが出来ることは少なく、望むことは果てもない」
彼の者が、地に膝をつき、頭を垂れる。
「申し訳なく思う」
観世音菩薩は彼女の上に立ち、導く何かにはなれない。かといって、同じ立場にもなれない。
「それでも、お前を待ち望んでいた」
対等な何かにもなれず、お互いを仰ぎ見るには存在と理が違いすぎる。
「法明の話を聞き、我らが世界を受け入れてくれたことに感謝を申し上げる」
そこに選択肢がないも同然だったとしても。
「あなたのためじゃない。私のためです」
そういう三蔵に、観世音菩薩は神仏に相応しい慈愛を浮かべて彼女を見つめた。
「自分を諦めぬことは、時として何よりも尊い感情になりうる」
果てのない願いを押し付けようとも、異なる世界の理であろうとも、彼の存在は人を愛している。全ての生きとし生けるものを慈しみ、愛している。
その事実は揺るぎなく、だから、玄奘三蔵がここに在る。