第十一話 受けとめる。
彼女がいくら保とうとしても、自分を崩されていく。
確かに目の前にいるのに、彼女は素通りされていく。
「さん……」
「泰然、すまんが、茶を入れ直してきてくれんかのう。今夜はちと冷える」
俯く三蔵に向かい、呼び掛けようとした泰然を、法明は制した。
「あ、はい! かしこまりました」
失礼します、と泰然は三蔵を気にしつつも頭を下げ、部屋を後にする。
「火鉢をお持ちしましょうか」
「いいや、いい。お前はそこにいなさい」
紫釉の申し出に礼を言い、法明は三蔵と向き合った。
自分の有り様に惑う相手の、呼び掛ける名が分からぬというのは何と心許ないものであるか、と法明は思う。
「あなたが」
法明は、顔を上げ、白い眉に覆われた目を三蔵から逸らさなかった。
「あなたがそう仰るのなら、三蔵でないあなたはここにおりましょう」
受け止められた言葉に、三蔵は、堅く俯けていた顔を恐る恐ると上げた。それは、まるで生まれたばかりのひな鳥が初めて外界に出るような弱々しさがあった。
「少なくとも、わしの目の前にいるあなたは、ただのあなたであるように思いますなぁ」
気取りない嗄れた声はどこまでも、目の前の相手へ慈しみを注ぐ。
理解されはせずとも、そこに存在しているもの。
この世界で唯一の救済者というには脆く、幼く、何も知らない。その存在を否定するということは、玄奘三蔵をも否定するということだ。時間も、為されたことも、なかったことにはならない。そこに在るという事実は覆らず、なかったことにしようと存在を無視しても、その存在はあるままだ。
「……っ」
注がれた慈しみに押されるように、三蔵の涙がひとつぶ頬を伝った。
もともと持っていたものを奪われるということは、誰しもがひどく耐え難きことだ。それが大切なものであったのならなおさらに。
法明は世界に抗えない。
けれど、気付いたことを無視しないでいることはできる。
名前を奪われ、別の在り方を与えられたからといって、なくなったものが、すり抜けて落とされたものが、不必要だったという証明にはならず、存在の程度を量る基準にもなりはしない。どちらがより大切であるかの比率を、他人は簡単に荒らし、推し量り、押し付ける。
自身がいるものであると思うなら、神仏の定めを持ってしても、それは在って然るべきものであり、在り続けてよいものなのだ。
廊下から泰然の足音が聞こえた。
「失礼しまぁす。お茶を入れ直してきましたよぉ」
のんびりとした明るい声が襖を開ける。
涙をこぼす三蔵と目が合うと、泰然は一度目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「はい、お茶どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
受け取ったお茶は、熱いくらいに温かかった。
茶を配り終えた泰然が、何も言わずにまた三蔵のそばに戻る。
先ほど紫釉が持ってきてくれた手拭いを目元に当てると、冷たくて気持ちが良かった。涙が落ち着くと、三蔵は、泰然の方をおずおずと見た。
「あの、さっきはすみませんでした」
謝られて泰然は慌てたように両手を振る。
「いやいや、僕が失礼なことを言ったのが原因なんだし、謝るのは僕の方だよ」
「違うんです」
泰然は確かに優しかったのに、その事実は変わらないのに、自分のごく狭い考え方で侮った見方をし、唐突な無礼を働いたのは三蔵の方だ。例え、彼女自身が三蔵であってもなくても、目の前にいる彼は同じ対応をきっとしてくれた。
「泰然さんが失礼だったなんて私は思ってなくて、ああいう風に気に掛けてくれたのは嬉しかったのに、私の方こそ失礼をしました」
彼の衒いなさに倣い、三蔵は取り繕うための回りくどい言葉を選ばなかった。
次は紫釉へと顔を向け、口を開こうとし、
「お気になさらず」
三蔵に視線さえ向けず、紫釉は答えた。一見、取り付く島がないように見えたが、今羽織っている上掛けをわざわざ用意してくれたのも、涙を拭くために手拭いを持ってきてくれたのも彼だ。
そのことを流してしまわないようにしなければ、と三蔵は思う。
三蔵は、今度はしっかりと法明の方を見た。
「法明さん、取り乱してごめんなさい」
謝罪を受けて、法明はゆったりと首を横に振るに留めた。
「改めて、私にこの場所のことについて教えてください」
あのとき、観世音菩薩は言った。
この世界に抗いたければ、取れる行動はたったひとつだと。ここにいるだけでは、抗えない。取り戻したいのなら、抗わなければならない。
方法がそれしかないというのなら、行かなければならない。
目指さなければならない。
西方天竺国へ。
自分自身の、世界にとっては救いようがなくちっぽけな理を取り戻すために。