第十話 否定する。
連れてこられた泰然は、お茶を持って部屋に入ってきた。
「二人とも、座りなさい」
法明にそう言われ、泰然はどこに座ろうかと周りを見回し、目を腫らしている三蔵の姿を認めてわずかに驚いた。そうして、うーんと少し考えてから、三蔵の近くに「失礼するねぇ」と座った。ほどよい距離を置いて何を話すでもなく、持ってきたお茶をおいしそうにのんびりと啜って寛いでいる。
紫釉はといえば、泰然の後に続いて部屋へと入り、襖を閉めたところで一拍止まった。何かを決意するようなその動作のあと、無言で三蔵の前まで進み出てくる。
「……どうぞ」
ぎこちない動作で、濡れた手拭いを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
手拭いを受け取る三蔵に短く返すと、紫釉は、三蔵から一番遠い場所に座り直した。お茶には一切手を付けず、正座した両膝に軽く握った拳を乗せ、姿勢正しく座っている。
「紫釉はさぁ、もう少し肩の力を抜いた方がいいんじゃない?」
泰然がお茶を啜りながらそんなことを言う。
「お前が弛みすぎているんだ。そんなことで法明様のような立派な和尚になれると思っているのか」
「ふーんだ、法明様は僕の方が仏門に帰依するのに向いてるって仰ってくださったもの」
その言葉に覚えがあったのか、紫釉が、ぐ、と口をへの字に曲げた。
「ほっほっほっ、そんなことも言ったかのう」
「言いましたよぉ」
少しばかり得意げに胸を反らす泰然を、紫釉は冷めた目で一瞥してから、そっぽを向くように姿勢を正し直して前を向いた。友達同士のように軽快に言い合う様が何だかおかしくて、三蔵は思わず、小さく笑った。
強張っていた肩の力が抜け、自然とお茶に手が伸びる。
一口含む。ぬるくなってしまっていたが、泣いた後に喉を潤すにはちょうどよかった。
部屋は相変わらず暗く、燭台の炎だけが人の顔を照らす程度だが、先ほどよりも何だか明るく見えるような気がした。
「もう存じているとは思いますが、改めて紹介いたしましょうかのう」
まったりと法明が湯飲みを床に置く。
「わしは金山寺の和尚である法明と申します。こっちの融通の利かない坊主が紫釉、あっちののんびりした坊主が泰然と言う。どちらも金山寺で世話しておる。揚子江で溺れていたあなたを、ともに助けた弟子たちじゃ」
驚いて、三蔵は二人を見る。
「やぁ、僕はほんとついて行っただけで、なぁんもできなかったんだけどねぇ」
そんな三蔵に対して、泰然は後ろ頭をぽりぽりと掻いて苦笑した。
「法明様はあの急な河の流れの中から三蔵様を助け出したし、紫釉は気を失っている三蔵様を負ぶって山を登ったけど」
言われて、三蔵は、思わず紫釉の方を見る。
「あの、すみませ……」
「当然のことをしたまでですので」
にべもなく、半ば遮られた。
「まぁ、でもぉ、観世音菩薩様が金山寺に現れたとき、知らなかったとはいえ地面に躊躇なーく三蔵様を放り出してたけどねぇ」
「泰然!」
にやっと笑ってからかう泰然を、紫釉は睨め付けた。が、三蔵の視線を感じて、はっとすると頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「えっ!?」
ただやりとりが面白いなぁと思って見ていただけの三蔵は、思わず口ごもった。
「い、いえ、助けて運んで貰っただけで十分だと思う、ので……?」
だからといい、知らないところで自分が雑に扱われていたなんてことを知りたかったわけではないが、相手に悪意がないことを分かっているこの状況で、どう答えていいものか。
「ごめん、僕、紫釉をからかうために余計なことを言ったね」
泰然が三蔵の方を振り向いて、罰の悪そうな顔をした。
「気を失って抵抗も出来ない状態のときのことをこんな風に言われて、いい気はしないよね」
泰然の言葉は真っ直ぐだった。
「あなたを軽んじたかったわけじゃないんだ。ごめんなさい」
そして、ひどく衒いがない。
「あの、えっと」
三蔵は居心地悪く居住まいを正した。
この場所で目覚めてからずっと、何だか酷く気遣われているような心持ちがした。
法明は、三蔵が不意に泣いて混乱しようと、急かすでも困るでもなく、まして泣くなと責めるでもなく、穏やかに受け止め、落ち着くのを待ってくれる。紫釉は、言動が、ひとつひとつ丁寧すぎるほど丁寧だ。泰然は、非礼と言うのも戸惑うような非礼を、本人よりも真摯に受け止め、向き合おうとする。
あまりにも扱いが違う、と思う。
「三蔵様?」
言葉に詰まる三蔵に、泰然が首を傾げた。
その時、三蔵の胸の内に、ぽつと降って湧いたざわめきをどう表現したらいいのだろう。
もしも。
もしも軽んじたくない相手がただの『 』であったなら、彼らはここまで気に掛けてくれただろうか。
『この世界に与えられたお前は違う』
泰然の呼び掛ける言葉が、三蔵の中で、観世音菩薩の言葉と重なった。
「私は、」
一呼吸分、息が喉につっかえた。
「私は、三蔵じゃないです」
膝の上で、拳を堅く握り締める。
否定をして、それでどうなるというものではない。
それでも、玄奘三蔵ではないのだと、込み上げたざわめきを吐き出さなければ、押し潰されそうだった。
なくなってしまう気がした。
いなくなってしまう気がした。
現に、彼らは知らない。玄奘三蔵という存在の彼女しか。
その名前の彼女しか知り得ない。
三蔵のために謝り、三蔵であるが故に尊重する。
その事実は、玄奘三蔵という在り方のために、彼女という在り方をなくすことでここにあらねばならない彼女を傷つけた。