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西遊異譚  作者: こいどり らく
序章
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第一話




 夕日が沈む方向に、終わりと始まりの境がある。




◆◆◆◆◆◆




 教室に差し込む陽射しがゆっくりと落ちていく。

 橙色で満たされた教室に、一人の生徒がぼうっと箒に寄りかかったまま身を浸していた。短い黒髪に小豆色のジャージ姿の生徒は、一見すると少年じみている。

 体育の授業が延び、ホームルームの開始時間も延び、必然的に終わりも延びた。

 放課後、月一度の美化委員によって行われる校内清掃の役目が、ホームルームが遅れたからといって免除されるということはなく、彼女は一人、居残るはめになった。くじ引きで決められたはずのもう一人の美化委員は、引き止める間もなく、まして断りもなく、帰ってしまったというのに。

 ついていない。

 不真面目な相手と委員を組まされたことも、今日が美化委員であったことも、自分が悪いわけじゃないのだから、ついていないとしか言い様がない。

 二人いることを前提で分担された役割は、一人でやるには割に合わない。それなのに見回りである教師の古原は、やることが遅いと怒り、なぜ一人でやっているのかとサボられた側の彼女を責めるだけで手伝ってくれるわけでもなく、一人で仕事をするしかない生徒のことを慮ってもくれなかった。彼女だって一人で仕事をしたいわけではなかった。ホームルームが延びたのだって彼女が悪いわけではない。

「ていうか、体育の授業が伸びたせいなんですけど?」

 残された教室で、思わず、ぽつりとこぼす。古原は体育教師だ。

 かったるい。ため息がもれる。

 点呼代わりの見回りは終わった。生徒を叱ることしか脳のない古原も、もう確認にはこないだろう。このまま帰っても特に問題はないかもしれない。

 ないかもしれない、のだが。

 風でふわりとなびいたカーテンに、上手い具合に行く道を阻まれた。

 橙色の太陽が透けているカーテンは薄汚れいている。それでも、窓も机も椅子も床も黒板も壁も時計も自分自身も何もかもが夕暮れに侵食され、境界が奪われていた。

「あれ? なにやってんの?」

「え?」

 さも意外そうに掛けられた声に驚いて振り返った。風は止み、カーテンはいつの間にか窓のそばへ戻っていた。

 クラスメイトのひな子が、軽く手をあげて茜色の教室に踏み入ってくる。

「そろそろ部活終わる時間だよ。どしたの、こんな時間まで」

「あー、私、美化委員でさ。月一の清掃活動」

「は? こんな時間まで? マジで?」

 ひな子が目を見開いた。

「美化委員ってそんなに大変な仕事だったんだ?」

「んいやー、言っても月一だから。今日はちょっとホームルームが延びたのと、もう一人の美化委員がサボりでさぁ……」

「は? なにそれ?」

 途端にひな子は眉を顰めた。

「誰?」

「あー、小松」

「小松? ……あいつか!」

 自分のことではないのに、ひな子は怒りを露わにする。

「あいつさぁ、見た目は真面目で先生に目ぇ付けらんないけど、マジで自分のことしか考えてねぇよな。なんか知んないけどあたしらみたいなの馬鹿にすんし」

 外見が派手というだけで目を付けられることの多いひな子は、怒りのまま吐き捨てた。

「はは、まぁ、そだね」

 外見だけが真面目な生徒なんてそこら辺にいくらでも転がっている。褒められることをしたことがあるわけでもないのに、ただ教師に叱られることがないだけで自分は優れていると勝手に思っている輩は意外と多い。

「今さらかもしれないけど、あたし、手伝うよ」

「え? でも、ひな子、部活は?」

「あとで先輩にメール入れとく」

 腕まくりをして、掃除用具入れへと手を掛けるひな子を見て、思わず困ったように笑みがこぼれた。

「いいよ、ひな子。また先輩に怒られちゃうよ」

 ひな子は優しい。だから、自分を正当化することがうまくない。いつもそうだ。

「でもさ……」

「大丈夫。時間は掛かってるけど、もう終わりだからさ。目立つゴミも回収したし」

 持っていた箒をさっとひと掃きする真似をして笑えば、ひな子は渋々といった風に引き下がった。

「……終わったらメールちょーだい。一緒帰ろ」

「うん、校門前で待ってる」

 またね、とひな子と別れれば、ダラダラとやっていた掃除を終わらせに掛かる。

 なんだ。今日は、ついていたなと思った。

 手を洗いにベランダへ出ると、相変わらずオレンジ色の陽射しがゆっくりと時間をかけて落ちていた。蛇口を捻って流れ出す水が、差し込む光を吸収して輝いている。夕暮れを閉じ込めた水で手を洗い終えると、一番後ろの席に置いてある自分の鞄へと向かう。

 既定のスクールバッグを肩に掛けたところで、中でスマホが震動した。

 ちらりと廊下を見て教師がいないことを確認する。

『誘ったの、あたしなのにごめん。部活ミーティング長引きそう。ほんとごめん』

『大丈夫だよ。ありがとね。ミーティングがんばれ』

 残念と思いながら打ち返すも、だからといって、やっぱり今日はついてなかったなという思いは湧いてこなかった。誰にも気に掛けて貰えなかったことを、ひな子が気に掛けてくれたから、ついてなかった諸々がどうでもよくなった。

 カラリと扉をあけて、橙色に染まった教室から橙色に染まった廊下へと歩き出す。見知らぬ生徒が夕焼けに染まる昇降口から出て、橙色の陽射しの中をてろてろと歩いていくのを、靴を履きながらぼんやり眺めた。

 こんな時間でも何だかんだと残っている生徒はいるもんだなと、普段居残ることが少ない彼女は新鮮に思った。

 つま先でトントンと地面を叩き、靴を履き終えると、帰る生徒の後ろを追うようにオレンジ色の昇降口をくぐった。

「ん?」

 違和感は突然だった。が、ごく自然でもあった。

 キィン――と唐突に起きた小さく唸るような耳鳴りは、エレベーターなどに乗ったときに軽く起こるものとよく似ていた。少しの居心地の悪さは否めないが、騒ぐほどでもない些細な非日常程度のものだ。

 歩きながら何度か唾を飲み込んで正常に戻すように努力する。

「あー、あー」

 片方の耳だけ塞ぎ、もう一度唾を飲み込む。

 なかなか抜けない耳鳴りの違和感に混じって、背後から自転車の音がした。校舎内で乗ってはいけないことになっているが、あとものの数メートルで校門だ。先生に見つかれば怒られるだろうが、フライング乗車などよくあること。チャリ通いいなぁと思いながら、耳の違和感から脱却するため、息を詰めてぐっと両手で両耳を押さえた。

 空気が閉じる。

 音が聞こえなくなる。

 視界に映る色の濃度が増した気がした。

 右足を出す。

 無音で自転車が横を通り過ぎた。

 フライング乗車の生徒は、校内で有名な生徒会の飯島会長だった。先に歩いていた見知らぬ生徒を追い抜かして校門をくぐり抜けた会長は、すでにもう遠くにいる。

 左足を出す。

 掛けていた鞄がわけもなくずるりと肩からずれ落ちた。

 思わず、耳を塞いでいた手を離す。よろけた拍子に鞄が地面に落ちた。

『     』

 鞄を拾おうとして、誰かに名前を呼ばれた、ような気がした。

「え?」 

 鞄の取っ手に指が掛かる直前。

 顔をあげ、一歩、空中に浮いた足が校門を跨いだ。

 瞬間。


 彼女は、溺れた。


「!?」

 とっさに驚いて開けた口は、考える間もなく攻め入ってきた水に塞がれた。

 ごぼり。

 沈む、などという生易しく静かな表現では足りない。覆い被さってくる水は一瞬にして体内にあって然るべき空気をすべて泡にして消滅させた。口から鼻から絞り出されていく見えるのに吸えないその酸素は、吸おうとすると水という実にシンプルな凶器によって阻害される。

 手足がもがくも、何も掴めない。浮遊と遮断が断続的に五感を襲う。

 唐突過ぎる出来事に、なぜ自分は溺れているのか、そんな疑問すら抱けずに意識が圧迫されていく。

 ぼやける水中に、外界から反射して滲む橙色の輝き。

 それが何なのか。脳が理解を示す前に、射す光の正体を本能が嗅ぎ取り、足が水を蹴った。茫洋とした橙色の輝きは、沈む光だった。夕焼けが水面に射して、水の中すら染めて輝く。

 落ちる光だと思えないくらいの力強さで、その輝きは進むべき道を示していた。

――いきが、できない。

 剥ぎ取られそうになる意識に喘ぐ。喘げば喘ぐほど、もがけばもがくほど、奪われていく。奪われた分だけ取り返そうと手で水を切り、足で水を蹴り、脳が拒否と欲求を繰り返す。あと少し、あと少しで。

「っは、あ!」

 手の平から、橙色の水が零れ落ちていく。

 やっと顔を出せたと思うも飛沫がひっきりなしに襲いかかり、思うままに息を吸えない。吸ったとしても飲み込んだ水を吐きだそうと咳き込む衝動の方が大きく、何度も息が詰まった。

 息を吸いたい。水を吐きたい。

 反する欲求が肺を苛み、意識を遠のかせる。

 水面に顔を出せたはずなのに、息が出来ない。

 酷い耳鳴りが脳を揺さぶる。まるで誰かに、頭の中を掻きまわされているかのような気持ち悪さだ。どうしようもない意識の剥奪に、どこかが身の毛のよだつような嫌悪に身震いした。このまま気を失ったらどうなるか。警鐘が、耳鳴りとともに鳴り響いている。

 視界に広がる水飛沫と、ゆっくりと落ちていく橙色の光。

 暗がりが忍び寄り、明るさは身を潜めていく最中で、それでもなお、夕陽は存在を主張していた。覆う空の厚さに負けたら終わりだと、自身の存在を持って示しているような強くしなやかな輝きは、けれど、秩序立った外界の力に押され、抗いを強制的に淘汰されていく。

 夕焼けと夜の境界線が消えていく。

「助け……っ!」

 一際強い耳鳴りを最後に、声は激流に押し流された。

 失われる意識と同じくして、夕日は境界線の向こうに沈んだ。

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