第三の聖典 背景 1~5章
一章
人間の世界、世。それは俗人の住まう世界。そこから神によって、引き上げられる事が預言者にはあった。
その特別に預かる者は、預言者に限らなかった。
ヨハネ、ぺテロ、アウレリウス・アウグスティヌス、ジョン・ホワイト、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン。
彼らは導きを受け、神に招待された類稀な例である。
新しい事を生み出し、旧き事を生かす。それが彼らのやり方なのである。
他にも、ジャンヌ・ダルクやマリア等、天使の声を聞いたとされる人々がいる。
イエス・キリストの証言者となる人はもっと多くいる。億単位であろう。
神の言葉を聞く者は少ないが、私は静寂の中にそれを求める。
神は常に話されているのだが、それは熱中する事でしか、聞き分けられない。
静寂の中にしか、神の言葉はないのだから、静寂を作り出すのである。
二章
筆に任せて書く。というのは、実際、気持ちがいい事である。
しかしながら、稚文とは、神の霊感等は関係なく、つたない文の事である。
この太平の平和な国は神によって、神が神たる事によって、成り立っている。
もしも、この国が暴虐と戦争の国だとすれば、その世界の神は可笑しいのである。
つまり、この世界の神はまともなのである。この平和な国は、温厚な文化を作り上げ、この「第三の聖典」を私に書かせるに至ったのである。
三章
律法、または、法律というものが、一般的に受け入れられるものとなり、罪の定めというものが潔白な人間によって、あるいは、神によって、作り上げられる様に成っている。
その神による聖定とは、罪悪の規模によって、細分化されている。
その規模とは、いかに、罪として生きる上で日常茶飯事の様に頻発するかどうかに焦点が当てられる。
無論、日常的な方が罪は大きい。
なぜなら、日常を送る様に罪をため込んでいくのだから。
聖定とは、聖なるものであるから、それ自体として、聖である。
法律とは違って、神という前提がそこにはあるのである。
四章
普通の信仰と違って、『聖定』というものがキリスト教徒には関わってくる。『聖定』の「三位一体」「主の祈り」「使徒信条」である。これは、聖なる者に与えられるキリスト者に成る為の資格と言える。
告白とは、男が女に、あるいは、女が男にするものではない。
キリストにおける信仰を表すもの、神にある事を述べる事である。主に入信の時、罪を並べ挙げる時に、信仰告白、罪の告白という言葉として使われる。
あくまでも、キリスト教徒として、というのは異端ではない。という事を知らしめて、正統なる信仰によって、キリスト者である事を告白している。
五章
神は絶対者であられ、逆らう事があり得なかったからこそ、アダムとイヴに対しての反逆という事を言っているのである。
既に逆らってしまっているのだが、しかし、対面上、何十万という天使の前で、あくまでも、神に反逆するのではない。と言っているのである。
「コーラン」では、「どこまでも堕ちてゆけ。」という言葉で知られる神だが、これは省略した抜本技法によって、「コーラン」が書かれている事が言える。
つまり、「第三の聖典」の方が全体をとらえられており、正しいと言えば正しいのである。つまり、想像するに、「どこまでも地獄に続く地獄にあえぐが良い。」という文があったのだと言える。つまり、要約して、「どこまでも堕ちてゆけ。」とコーランの一節に成ったのだと言える。堕ちると言えば、地獄までだが、段階を追って尊厳が失われてゆけ。という命令なのである。
ヨブの頃にはもう余裕がなくて、何とかして、信仰者を従わせようと、やっきに成っていたのである。今は見る形もない。