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「明日は久しぶりに街に行かないか」
ラウルに誘われたので、エラは一も二もなく了承した。
「天気もいいから公園で散歩でもしよう」
にこにこと屈託なく笑うラウルは、年齢より少し幼く見えるくらい、可愛い。
「お供致しますわ」
エラがすまして答えると、ラウルはふふっと笑って、彼女にキスを落としたのだった。
どうせ街に来たのだから、と買い物もすることにした。エラは高価な宝石にも華美なドレスにも興味がなく、シンプルで上質なものであればいいという考えであり、普段はラウルも口出しも何もしないのだが、せっかくだから少し店を冷やかそうと2人は街一番の宝石店に入った。
店員はブラウン家長男夫妻のことを知っており、夫が妻との再構築に成功し今ではおしどり夫婦だということも把握していたので、鼻息も荒く色々なアクセサリーを紹介してくれた。
「このお色なんかは、ご主人さまの瞳の色に近くて…」
と店員が差し出してくれた綺麗な蒼色の宝石があしらわれたネックレスにエラは目を惹かれた。
「指輪もありますが…」
「指輪は必要ないの」
にっこり笑ってエラは断った。彼女はラウルが自分の稼いだお金で買ってくれた結婚指輪を心から大切にしており、これ以外の指輪を嵌めるつもりは毛頭ないのだ。
確かにこの宝石は、ラウルの瞳の色と言ってもいいかも知れない。とてもとても綺麗だけれど、でも私には――。
「――いただこう」
隣からはっきりとした夫の声が響いて、エラは我に返った。
「いいわ、私には必要ない――」
「いいから、贈らせてくれ」
ラウルは有無を言わせない調子で、エラに向かって頷く。
「このネックレスをつけている君を俺が見たいから」
果たして、エラの白い肌にそのネックレスはよく映えた。ラウルは彼女の首元に光る自分の瞳と同じ色の石に満足した。贖罪のつもりなのか、義母はブラウン家の仕事を手伝う給金をとても弾んでくれているから、お金には余裕がある。ラウル自身は物欲はほとんどないので、エラにこうやって贈り物を出来ることに幸福を感じる。代金を支払い、店員にこのままつけていく旨を伝え、エラと共に店の外に出ると、彼女がはっと息を飲んで、彼の腕をくっと掴んだ。
「どうした?」
ラウルがエラの視線の先を見ると、そこには今まで見たことのない若い男が立っていたのだった。その男はエラを見るとにやりと笑みを浮かべた。洒脱な感じだが、軽薄そうな印象を与える。彼はじろじろとエラがつけているネックレスを値踏みするように眺めていた。
「エラ!」
「トーマス…お元気そうね」
彼を掴む腕にますます力がこめられ、ラウルはエラを見下ろした。
「そろそろ離婚すると思ってたのになぁ!残念だぜ。いつでも俺のところに来いよ?」
「――ありえないわ、トーマス」
冷ややかなエラの声に、男はけっと笑って、じろっとラウルを睨むと、そのまま去っていった。男が去っていくとようやくエラから力が抜けた。
「あれは誰?」
「嫌な思いをさせてしまって、ごめんなさい。あの人は、トーマス・スミソニーと言って、父が一目置いている従業員なの、父の片腕と言ってもいいかも知れない」
「へえ…」
トーマスの目には明らかにエラに対する欲望がちらついていて、ラウルを見る視線には敵意がこめられていた。
「父は、ジェームズかトーマスのどちらかに私を嫁がせたかったみたい」
なるほど、会社の片腕となる男をつなぎとめるために娘を使うのも視野に入れていたというわけか。最終的に、事業を金銭的援助で後押ししてくれるブラウン家に決めたのだが、もしかしたらトーマスと結婚させられていたかもしれないのだ。
「トーマスは若い頃から女遊びがひどくて…ああ、でもジェームズも似たようなものだったわね」
そう言いながらエラは苦笑した。
「父は私が幸せになるかどうかはまったく考えていなかったから…でもブラウン家を選んでくれてよかったわ。だって貴方に会えたもの」
「エラ…」
ラウルの心のなかに渦巻いた嫉妬の炎のようなものは、エラのその言葉で一瞬で鎮まった。
「あいつが君の夫になっていたかもって思ったら嫉妬したよ」
「…ラウル」
エラがそっと彼の腕に手をかけた。
「私には貴方しかいないわ」
数日後、エラとラウルの家に客人が訪れた。
「アンドレイ!」
「エラ、久しぶりだな」
アンドレイは今では数少ないラウルとエラの理解者だ。彼はジェームズとは違い明晰で、昔からエラにも親切だった。最初はぎくしゃくしていたラウルとアンドレイだったが、今では普通の友人くらいには打ち解けている。ブラウン家の家督を嗣ぐことを了承してくれたのも、アンドレイがラウルとエラのことを思えばこそであった。
「珍しいこともあるものね、どうしたの?」
挨拶のハグをしてからエラが尋ねると、アンドレイが顔を曇らせたので、どうやらいい話ではなさそうだ。
「実は今日シールズ家から使いが来て…マリーちゃんを結婚させるからエラに手伝いに来いって…」
「マリー?」
確かに妹のマリーは今年18歳になり、適齢期ではあるが、母と共に母の実家である田舎にいるはずだ。そのマリーをこちらに呼び寄せて結婚させると…?
「相手は会社の部下であるトーマスなんとか、と言ってたけど…」
はっとエラが鋭く息を呑む音が応接間に響いた。
夜、ラウルが仕事を終えてから寝室に戻ると、エラが物思いに沈んで長椅子に座っていた。
「ラウル…私はどうしたらいいのかしら…」
あの後アンドレイはラウルの執務室を訪れて、エラの実家の話をしていったので彼も事情は承知している。エラが思い悩んでいるのは間違いなく妹の縁談のことだろう。
「トーマスは間違いなく、マリーを虐げると思うわ…彼は嗜虐趣味があるともっぱらの噂だったもの」
ラウルは彼女の隣に座って、うなだれているエラの手を取った。
「君がしたいようにしたらいい」
「…ありがとうラウル…本当は素知らぬ振りをしてしまいたい…母はきっと今、父を止めるべく、半狂乱でしょうね」
父とは勿論だが、母と妹とも距離があることをエラはラウルに教えてくれた。母は妹だけを伴って実家に戻り、エラを父のもとに残し輿入れさせたのだと。そのことを恨んだりはしていないとエラは言っているが、おそらく母親に見捨てられた感じは強かったのではないかとラウルは彼女の心情を慮った。
「俺も一緒にシールズ家に行く」
ラウルはそう宣言する。エラは困ったようにラウルを見つめた。
「心強いけれど――いいの?申し訳ないわ。そもそもマリーに会うのももう何年ぶりかしら。それに私自身まだ心が決まっていなくて――」
勿論、いくら疎遠であっても妹のことで心を痛める優しい彼女が心配なのであるが。
もうひとつは。
(エラにトーマス某を近寄らせたくない)
「気にするな、俺が一緒に行きたいんだ」
彼がきっぱりと言いきると、彼女はやっと安心したように笑った。