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「こんなことはしたくないが…失礼する」
ジェームズはエラの手を優しく離すと、その場でジャケットを脱ぎ捨て、シャツを掴み、周囲の人に肌を見せることを謝罪した。それから周りの皆に見えるように、背中を向けるとそこにはーーー
ルーリアのけたたましい笑い声が突如途切れ、静まり返った会場に誰かが息を吸い込む音が響いた。
入れ墨は腰のすぐ上に親指くらいのサイズで確かにいれられていた。当時、毎日のように夜遊びをしていたジェームズは同じく上流階級に属しながらも遊んでいる悪友たちに煽られるままに、皆で同じデザインを選び、彫りをいれたのだ。
「これは…悪友たちと一緒に彫ったものだ。仲間内でそれぞれの蠍に名前をつけた…私の蠍はジャックと呼ばれていたことを言っているのだろう?2人で名前をつけたわけではない、私を試すのはやめてくれたまえ。そもそもこの入れ墨は…恥ずかしいことに私が愚かだったことの証明に過ぎない」
忌々しげに吐き捨てるようにジェームズは言った。彼はシャツを元の位置に戻すと、ルーリアを睨みつけた。
「クラーク夫人、これで満足かなーーーさあ、今すぐ我が妻を愚弄したことを謝罪してもらおう」
衝撃が収まると、周りの人々はすっかりジェームズの味方になり、真っ青になったルーリアに、愛人風情が、後妻業の女のくせに、という陰口を叩き始めた。もともと卑しい後妻業で財産を得たルーリア自体があまり好かれていなかったのもあるが、残念なことに男の浮気には寛容な社会的風潮があり、ジェームズが自身の行いを反省し、改心して謝罪をし、それをエラが受け入れたのであれば、邪魔なのは横槍をいれたルーリアではないか、と言わんばかりの非難めいた視線がほとんどであった。呆然としたルーリアが形ばかりの謝罪をエラにした後、ふらふらと会場を後にするのを、街の人々は後ろ指をさしながら見ていた。
ジェームズがジャケットを拾い上げて着込むと、昔からよく知っている家族ぐるみの付き合いのある有力者の男性が彼の肩をたたき、「まったく過去の悪行まで晒さないといけないなんて災難だったねえ、でもこれからは奥さんのために火遊びはほどほどにしないといけないよ」と忠告している。ジェームズがなんと答えているかまでは聞こえてこないがその横顔は恥じ入っているように見える。
一瞬にして形勢は変わり、今やもうエラは、愛人に夫を寝取られた可哀想な妻、ではなく、改心した夫が必死で追いかけている魅力的な妻、に変わり、しかも愛人を前にも堂々と夫を庇った毅然とした女である、と皆が彼女を褒め称えているのを聞いて、エラは面映い気持ちになった。
「エラ…さっきは俺のことを庇ってくれてありがとう」
(あ…)
ジェームズはそのまま一瞬黙った後に、切ない表情をその瞳に浮かべたので、エラは驚いた。思わず彼女が真意を問おうと口を開いたが、久しぶりに会う他の有力者の男性たちにジェームズがわっと囲まれたので、そっと彼女はその場を離れることにした。
(私は…私は、ジェームズがあの人を拒絶してくれて嬉しかったんだわ…)
彼が自分の腕を掴んだ時、彼女は震えた。彼女の心を震わせたのはーーー昏い歓びだった。ルーリアに、これからはエラしかいらないのだ、と言い切った夫の言葉が…とてつもなく嬉しかったのだ。だからルーリアに立ち向かったのだ、この人は私の夫です、と。彼を守るために、彼と生きていくために。
(私は頭がやっぱりおかしくなったのかもしれない…いつの間にか、こんなにジェームズに惹かれていたなんて…)
エラ自身、気持ちがとても高揚していて、正常な判断が出来ているとは言い難い。熱くなった身体を冷やすためにも何か飲み物でも、とテーブルに近づくと、後ろから見知らぬ男性の声で、ミセス・ブラウン、と話しかけられた。
振り向くと、初老の男性は右手がなく、すぐに傷痍軍人だと見て取れた。
「失礼、突然話しかけて申し訳ありません。私はマッケンジーと申しまして…貴女の夫の上官だったものです」
マッケンジーは、穏やかなグレーの瞳に、憂いを浮かべて、言葉を続けた。
「正確には、貴女の夫を演じている男の上官だったというべきかも知れません」