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それから向かった病院でも孤児院と同じ様に夫は堂々とした態度で落ち着いており、これからもブラウン家は資金の援助を続けることを約束し、院長を喜ばせていた。
「今の時分、病院内部の視察は奥様には少し刺激が強いかも知れませんので、ご主人様だけで…」
と院長がこちらに気を遣って言うので、エラは彼の意向を汲んで承知した。エラを院長室に待たせたまま、院長とジェームズは主に怪我をしている傷痍軍人が収容されている階へ向かった。
比較的清潔に保たれている設備もまともな病院というだけあって、ジェームズの目にはそこまでひどい状態には見えなかったが、やはりまだ若い女性であるエラには、手足が欠けていたり、ケロイド状の火傷を負っていたり、銃で撃たれた痕が残る患者たちを院長は見せたくなかったのだろう。
だだっぴろい部屋にところ狭しとベッドが並べられている中を院長がジェームズに説明しながら歩いていく。しかし、一人の男がベッドから立ち上がって、信じられないとでもいうようにジェームズに声をかけた。
「まさか…ブラウン少尉か?」
ジェームズは、右手のないその初老の男の顔に見覚えがあった。
「マッケンジー中佐」
家へと向かう帰路の馬車で、ジェームズはいつになく言葉数が少なかった。とりたてて不機嫌だというようには見受けられなかったが、心ここにあらず、といった感じで、最近のジェームズにしては珍しかった。エラに対してはにこやかに振る舞うものの、明らかに何かに気を取られているのは間違いなく、家に戻ると、彼はエラに視察に出て遅れた分の仕事をするから、自分を気にせず先に寝ていていいと言った。
寝支度をしてベッドに入ったエラは、今日彼に買ってもらった香水の瓶を手にしたまま考え込んでいたが、瓶をベッドサイドテーブルに置くと、以前ジェームズが使っていた部屋を覗いてみることにした。
その部屋は彼らの寝室とは真逆の奥に位置していて、エラは今まで一度も足を踏み入れたことがなかったのである。
ジェームズが戦争に出征した後に、洋服は義母が片付けていたのは知っていたが、まだジェームズの細々とした日用品は手つかずに残してある、と彼女が言っていた気がしたので、前に使っていた香水の瓶を見てみようと思ったのである。一度メイドが持ってきたのを見たことがあっただけなので、その記憶が正しいのかを確かめたくなったのだ。しかし、部屋のドアを開けてみて驚いたことに、そこにあったはずのジェームズの私物は何一つ残っていなかった。
(捨ててしまったのかしら…?それとも執務室に移したの?)
エラの知らない間に、結局義母が片付けたのかもしれない。なんとなく釈然としないものを感じながらも、彼女は寝室へと戻っていった。
「この前視察に行った病院の…パーティですか?」
「ええ、資金を集める慈善活動として、パーティがあるのよ。だから家族で出席することになったわ」
「…承知しました」
義母が朝食の席でそう切り出したので、エラは頷いた。しかし夫はなかなか返事をしない。エラがジェームズの顔を窺うと、彼の瞳は憂いを帯びてぼんやりと何か考え事をしていた。
「ジェームズ、ちゃんとエラをエスコートしなきゃ駄目よ?」
義母がそう言うと、彼は瞬く間に快活な青年に戻り、分かっているよ母さん、と頷いたのだった。
その日は初冬にしてはそこまで肌寒くなかったので、エラは外套を羽織って庭園に出た。ブラウン家の庭師は年中庭園を綺麗に整えてくれていて、草花が好きなエラを和ませてくれる。ジェームズにないがしろにされてささくれだった心をどれだけ癒やしてくれたのか。
「エラ」
執務室で仕事をしていると思っていた夫が後ろから声をかけてきたので、彼女は驚いて振り返った。
「ジェームズ、どうされたの?」
「これを、君に。今日の花だ」
彼はあれから毎日一輪ずつ花を贈ってくれるのだ。
ジェームズが白い花をそっと差し出したその真剣な顔を見て、エラは既視感を覚えて目を瞬いた。彼がまだ幼い頃、どこかの庭園でこうやって花を差し出されたことがなかったか…?あれはまだ、ジェームズが婚約者でもなんでもなかった頃で、あの少年がジェームズだったかも覚えていないが…ううん、きっとそうだ。
(ジェームズはもう忘れているかも知れないけど…私達にも素敵な思い出が1つはあったんだわ)
「エラ?」
「なんでもないわ。ありがとう、ジェームズ」
彼女は白い花を受け取ると、顔をほころばせた。
「スノードロップね、なんて可愛らしい」
エラの笑顔を見て、ジェームズはとても嬉しそうに微笑んだ。