9.ジェルはママンです!?(挿絵あり)
――まさか、たった一度の過ちで子育てをすることになるなんて。
その事件が起きる2時間前、ワタクシが店主を勤めるアンティークの店「蜃気楼」にはガチムチオネェな魔人のジンが来店しておりました。
「……なんでジンが居るんですかねぇ~。うちは普通、来られない店のはずなんですが」
「あんらぁ~、ジェル子ちゃん。魔人を舐めてもらっちゃ困るわねぇ~」
「これはセキュリティ強化しないといけませんね」
ワタクシの呆れた視線などまったく意に介さず、ジンはマイペースに話し続けます。
「それよりもねぇ、ちょっとこれ見てくれない? アタシのダーリンが見つけた腕輪なんだけどぉ、呪いがかかってるって話なのよ。」
ジンは美しい模様の入った金色の腕輪を差し出しました。なんでもジンの恋人は凄腕のトレジャーハンターだそうで、その腕輪も冒険の途中で手に入れた物なんだとか。
「前にアレクちゃんから聞いたわよぉ~。ここってそういうちょっとアレな物をいっぱい置いてるお店なんでしょ?」
「別にいっぱいってわけでは……」
そこは店の名誉にかけて訂正したいところです。ちゃんとまともな物もたくさんあるんですよ、ホントに。
「ところで腕輪にかかった呪いはどんなものなんですか?」
「それがどんな呪いかは、わからないのよねぇ。どうしたもんかアタシも困ってるのよ」
「わからない? そういうことなら、呪いの解析をしてみましょうか」
ワタクシはカウンターの引き出しからルーペを取り出しました。
「解析ってどういうこと?」
「ワタクシ個人の見解ですが、呪いというのはプログラムみたいなものでしてね。解析すれば内容を書き換えたり消去したりできるんですよ」
困った顔で腕輪を見ていたジンは、その言葉に目を輝かせ身を乗り出しました。
「それってつまり、呪いが解けちゃうの?」
「えぇ。もしかしたら普通の腕輪にできるかもしれません」
「え、ヤダ、なにそれすごぉ~い! もしこれが普通の腕輪ならアタシ欲しいわ~。デザインは気に入ってるのよ~!」
腕輪はアールヌーボーの細やかな装飾が施されている美しいお品で、たしかに呪いさえかかっていなければとても良い物だとワタクシも思います。
「綺麗な腕輪なのに身につけられないのは勿体無いですしね。わかりました、やってみましょう」
「うれしい! ありがとう~! でもジェル子ちゃんにそんな特技があるなんて知らなかったわ~」
「ワタクシのメインは錬金術ですが、魔術や呪術についてもいろいろ研究していますから」
「すごいわねぇ。ねぇねぇ、アタシでもその解析ってできるかしら?」
「いやいや、知識が無いのにそんなことをしたら危険ですよ。解析途中で呪いが発動することもありますし」
「あら~、そうなのねぇ」
ジンは少し残念そうに頬に手をあて考え込みました。
「……それで、これはどれくらいで呪いが解けるかしら?」
ワタクシは腕輪をルーペで観察しました。このルーペは、使うと呪いの文字列のような物が見える魔法のルーペなのです。
腕輪にかかっている呪いは予想以上に強力なようで、隙間なくびっちり禍々しい文字が浮かび上がっています。
「これはかなり強力な呪いですね。最低でも2週間は欲しいかも……」
「まぁ、そうなの? 急がないから無理しないでね。じゃ、それ預けておくんでお願いするわ~」
「えぇ、わかりました」
「そういえばアレクちゃんどうしたの~? また旅行中?」
兄のアレクサンドルは昨日スペイン旅行から帰ってきたばかりで、今は7時間の時差を埋めるべく、部屋で寝ているところでした。
「ちょうど昨日帰ってきて、今はたぶん部屋で寝てますね。起こしてきましょうか?」
「ううん、別に用事無いし大丈夫よ~。どうかよろしく伝えておいてちょうだいねぇ」
「えぇ」
「それじゃ、ジェル子ちゃん。またねぇ~!」
こうしてワタクシに呪いの腕輪を預けてジンは帰って行きました。
「じゃ、早速とりかかりますかね」
ワタクシは店を閉めて自室の机に腕輪を持ち込み、呪いの解析を始めました。
腕輪をルーペで覗き、浮かび上がる文字列をチェックしては、手元の羊皮紙に特別に調合したインクと水晶のペンでひたすら文字を書いていきます。
3割程度書き写したところで部屋にコンコン、とノックの音が響きました。
「おい、ジェル。昨日借りた本の続きってある?」
ドア越しに聞こえたのは兄の声です。寝てたと思ってたらもう起きてたみたいですね。
「アレク、今は手が離せないので勝手に入って持って行ってください」
おう、という返事と共にドアの開く音がして彼が部屋に入ってきました。
「わりぃ、取り込み中だったか。どうしても続きが気になっちまってさぁ……ん、何やってんだ?」
「ジンからの頼まれものです。呪いを解いて欲しいんだそうで……」
ワタクシはアレクに背を向けて机に座ったまま答えました。
「ふーん、確かに呪いとかジェルの得意分野だもんなぁ」
そう言いながら彼は本棚を物色しているのか、本をパラパラとめくる音が聞こえます。
「なぁ、ジェル。続きどこだ? いっぱいあってわかんねぇぞ」
「しょうがないですね……」
ワタクシは文字を書いていた手を止め、机に腕輪を置いて席を立ちました。
そして目的の本を見つけて、アレクに手渡そうとした瞬間。
急に机の上の腕輪が光り始め、その光が収束してワタクシの方へ飛んできました。
「ジェル!」
とっさにアレクがワタクシに覆い被さり、光は彼の背に当たりました。
「え、アレク⁉」
「ジェル、大丈夫か……」
その声を最後に目の前からアレクの姿が消え、彼の服がバサリと落ちました。
「……あ、アレク! アレク!」
静かになった部屋の中、ワタクシが必死で彼の名を呼ぶと、その声に応えるかのようにわずかに布の擦れる音がします。
「ん……?」
目の前の服をよく見ると、少しこんもりと膨らんでいて、それが少し動いたかと思うとそこから小さな男の子が顔を出しました。
少し癖のある黒い髪。くりっとした美しいマリンブルーの瞳。この子はもしかして……
「あなた……アレクですか⁉」
「んー? ママン……?」
男の子はワタクシを見てママンと呼んで首をかしげました。わぁ、可愛い……いや、そうじゃなくて。
「えーと。あなた、お名前は?」
「あれく……しゃんどる……」
男の子は、たどたどしく答えます。
「何歳?」
「うーん……なんさい? わかんない……」
見たところ3,4歳といったところでしょうか。どうやらこの子どもはアレク本人のようですが、姿だけでなく中身も幼くなってしまったようです。
「アレク、ワタクシが誰かわかりますか?」
「ママン!」
アレクはうれしそうに元気良く答えました。
――ママン? ママンはフランス語で母親のことです。つまりアレクにはワタクシが母親に見えると。
「いえいえ、ママンじゃないですよ。ワタクシはあなたの弟のジェルマンです」
訂正しても理解できないらしく、彼は不思議そうに首をかしげます。
「ジェル……? ジェルは赤ちゃんだぞ……?」
「赤ちゃん?」
――あぁ、なるほど。アレクとワタクシは2歳違いですから、彼の記憶の中の弟はまだ赤ん坊なのですね。
「ママンは……俺のママンじゃないのか? パパとジェルはどこ?」
アレクは急に不安そうな顔になり、確認するようにじっと見つめてきました。
そう言えば母も金髪でワタクシと顔が似てましたから、幼い彼がそう思うのも仕方ないかもしれませんね。このまま否定し続けても彼を混乱させるだけでしょう。
ワタクシはその場にしゃがみこんで小さなアレクに目線を合わせ、努めて優しく微笑みかけながら言いました。
「えぇ。ワタクシはあなたのママンですよ。パパとジェルはお出かけしています」
「お出かけ……」
「だからしばらくの間、ママンと2人でお留守番しましょうね」
「うん、わかった! おるすばんだな。ママン、抱っこ!」
アレクはうれしそうに目を輝かせ、手を伸ばしてきました。
子どもを抱っこなんてしたことないのでどうしたらいいのかわからず戸惑っていると、アレクは抱っこして、とさらに手を伸ばし何度もせがんできます。
恐る恐る背中と脚を抱え、抱き上げてみるとアレクはキャッキャと声をあげて喜びます。
うっ、子どもって予想以上に重い……
抱っこして気づきましたが、この子、丸裸じゃありませんか。
でも子供服なんて我が家にはありません。このまま裸の子どもを連れて歩くわけにもいかず、かと言ってこの子を家に置いて買いに行くのも心配です。
「困りましたね……」
とりあえずバスタオルで包んでみましたが、当然これでは服には見えません。でもどうしようも無いし、この姿で一緒に買いに行くべきか……
しばらく悩んでいると、急に店の方から声がしました。
「ジェル子ちゃ~ん! アタシよぉ~!」
この声はジン。ちょうど良いところに来てくれた……!
ワタクシはアレクを抱っこしたまま、急いで店のドアの鍵を開けてジンを迎え入れました。
「ごめんなさいねぇ、呪いを解く報酬の話もしないまま押し付けて帰っちゃったのが気になって……あら、その子だぁれ?」
「えっと、この子はその……」
「やだ! ちょっと裸んぼじゃないの! ジェル子ちゃん、それは犯罪だわぁ……」
「誤解です! これはちょっと事情がありまして。とにかく奥へどうぞ」
ワタクシは店の奥の扉を開け、ジンを我が家のリビングへ案内しました。
「あら~、お店の奥ってジェル子ちゃんのお家と繋がってるのね。リビングも広いし素敵ねぇ~」
「ママン。このおじちゃん、だぁれ?」
ワタクシに抱っこされながらアレクがジンを指差します。
「あら~、おじちゃんじゃないわよぉ~、オ・ネ・エ・サ・ン!」
「……? おひげもあるし、おじちゃんだろ?」
んもう!とプリプリ怒るジンをなだめつつリビングのソファーに座り、本題に入りました。
「実はこの子はアレクでして……」
事の経緯を語るとジンは目を丸くしました。
「んまぁ~、ごめんなさい! あの腕輪のせいで大変なことになっちゃったのねぇ!」
「まさか呪いが時間を置いて発動するとは予想外でした」
「まるでトラップねぇ~」
「えぇ。それでアレクがワタクシを庇ってこんな事に……早く元の姿に戻してあげたいです」
「でもジェル子ちゃん、呪いを解くのに最低でも2週間はかかるって言ってたじゃない」
「そこなんですよねぇ。それまでの間、アレクにはこのままで居てもらうしか……」
ワタクシは親になった経験もありませんし、そもそもこんな小さな子と暮らす事自体が初めてです。そんな自分に育児なんてできるんでしょうか。
ふとアレクの方を見ると、ワタクシの不安なんておかまいなしといった感じで、バスタオルの端っこを噛むのに夢中になっています。
思わずため息をつくと、その様子を見てジンが叱咤しました。
「ジェル子ちゃん! しっかりしなさい!」
「ジン……」
「アタシも協力するから大丈夫! アレクちゃんの為にも頑張りましょ!」
ジンは両手でガッツポーズをして、ニッコリ笑いました。
えぇ、確かにアレクをこのままにするわけにはいきません。今はワタクシが頑張らないと。
「そうですよね。ありがとうございます」
「いいのよ~、元々アタシのせいなんだから気にしないで!」
ワタクシが少し微笑んでアレクの頭を撫でると、彼はくしゅんと小さくくしゃみをしました。
「あぁ! すみませんアレク! 寒かったですか⁉」
「あらあら。とりあえずアレクちゃんのお洋服とか必要な物をそろえましょうか。そぉれ♪」
ジンが指先を軽く光らせてパチンと鳴らすと、バスタオルに包まれていたアレクは豪華なアラビア風の衣装を着ていました。
「キャー! 可愛いー! 王子様だわぁ~!」
「あの……これじゃコスプレなんでもうちょっと普通のは無いですか?」
「えー、良いと思ったのにぃ~。じゃ、何にする? 動物の着ぐるみとか可愛くなぁい?」
「なるべく無難に実用性のある服でお願いいたします」
「あら~、残念ねぇ~」
そう言いながらさらにジンが指を鳴らすと、Tシャツにズボンや、下着類、子ども向けの絵本や、玩具、子ども用の椅子や食器など、さまざまな品がリビングに現れました。
よかった、これなら問題なく生活できそうです。
「ジン、ありがとうございます。助かりました」
「あぁ、そうそうこれも……」
ジンはDVDを魔法で取り出しワタクシに手渡しました。
「なんですか、これ?」
「これはねぇ~子どもがグズった時に再生すると笑顔になっちゃう魔法のDVDよ!」
「魔法のDVD?」
「えぇ、アタシ観た事無いから詳しくは知らないんだけど~、頭が菓子パンで出来た男が菌を殴って撃退する番組らしいわ」
「頭が菓子パン?」
「こっちは人面の機関車が事故を起こす番組ですって~。これも子どもに大人気らしいの」
「どちらも聞いた感じB級ホラーみたいですが、本当に子ども向けなんですか?」
「えぇ、そのはずだけど。まぁ、効き目はバツグンらしいから試してみてちょうだい!」
こうやってワタクシとジンがやり取りをしている間も、アレクは落ち着きなくリビングをうろうろして、そこらへんにある物を手当たり次第、触ったり放り投げたりしています。
「あっ、ちょっと! アレク! 何するんですか!」
「あら~、とりあえず床に物を置くと危険だわね。片付けましょ!」
私とジンは大急ぎで荷物を片付けました。
「やっぱり小さな子どもって目が離せませんね……」
「そうなのよねぇ~」
「とりあえず、できる限り頑張ってみます」
「そうねぇ……あ、ごめんなさい。アタシそろそろ行かないと。ジェル子ちゃん、また明日も様子見に来るから頑張ってね!」
こうして、ワタクシと幼いアレクの生活がスタートしました。
そして、その翌日。
約束通り、ジンは様子を見に来てくれました。
「ジェル子ちゃん~、アレクちゃんの様子はどう……って、ちょっと! ジェル子ちゃん、その格好どうしたのよ⁉」
ジンが驚くのも仕方ないかもしれません。
――今のワタクシは髪を縛って上下スウェットのトレーナーとズボンですから。
「うぅ……まことに遺憾ですが、正装で子育ては無理です!」
アレクがワタクシの身体をアスレチック感覚でよじ登るので、ブローチやピンなどは危なくて外しました。それでもネクタイを毟り取られるわ、ボタンを口に入れるわ、髪を引っ張るわでとてもじゃないけどあんな服、着ていられません。
「まぁ、そうかもしれないわねぇ~」
「それでアレクのクローゼットから、何とか着れそうなのを拝借した次第です」
「これはジェル子ちゃんにも着替えが要るわね……」
さらに数日後。
「ジェル子ちゃん~、様子見にきたわよ……あら、ジェル子ちゃんちょっと痩せた――というよりやつれた?」
「……かもしれません」
――予想以上に子育ては大変でした。
まず食事。アレクに食べてもらおうと、ハンバーグやスパゲッティなど子どもの好きそうな物を頑張って用意してるんですよ。
そもそも準備だって、アレクが邪魔するから1品作るのすら大変なんです。
それなのに彼は、ちゃんと食べてくれません。ちょっと目を離したら口の中にご飯が入っているのに寝てしまいます。起こして食べさせるのもひと苦労です。
そして食事中はあんなにウトウトしてるのに、夜になったらまったく寝てくれない。
オヤツが食べたい、おんぶして、パン男が見たい、などとワガママ放題です。
お風呂も大変。我が家は西洋式の比較的浅いバスタブですが、アレクだけでは入れませんから抱っこして入らないといけません。シャワーが顔にかかるのを嫌がってグズるので、髪や身体を洗うのもなかなか大変です。
その間、ワタクシ自身が身体を洗ったりする余裕はありませんので、アレクを寝かしつけた後で入りなおし。
念の為に魔術を使ってベッドの周囲に防御結界は張りますが、それでもアレクがいつ目を覚ますか気が気で無いので、急いでシャワーで済ませないといけないのです。
「ジェル子ちゃんかなりキツそうだけど大丈夫? よかったら数日だけでもうちで預かろうか?」
「いえ、大丈夫です」
こんな大変なことを他の誰かにお願いするなんて……とてもじゃないけどできません。
――それに。
「ママン、だっこ~」
「ハイハイ」
大変だけど、可愛いんです。ママンと呼ばれているうちにその気になってしまったんでしょうか。いつの間にか幼いアレクに対して、言葉では上手く説明できない感情が芽生えていました。
ギュッとしがみついてくる彼を抱き上げ頭を撫でてやると、幸せそうにキャッキャッと笑い頬をすりよせてきます。
「んまぁ……尊いわぁ……」
「おとなしくしている分には天使なんですけどねぇ」
ワタクシは苦笑いしましたが、きっとその笑顔は幸せそうであったに違いありません。
それからさらに数日経つと、ワタクシも少し育児に慣れてきました。
「アーレーク! さぁ、お休みの時間ですよ~!」
「やぁーだー! まだ遊ぶー!」
就寝時間になったので、ジタバタするアレクを抱え上げてワタクシの部屋へ連れて行き、ベッドに寝かしつけます。
「さぁ、絵本でも読みましょうか? それとも何かお話しましょうか?」
すると彼は急に無理難題を言ってきました。
「ねー、ママン。子守唄歌って~!」
「子守唄……?」
「テレビで見た。ママンはママンだから子守唄を歌うんだぞ!」
子守唄なんて歌ったことも無いですし、そもそもどんな歌なのか知らないので困ってしまいました。
「ママン、子守唄は~?」
彼の顔がどんどん不機嫌になっていきます。なんて理不尽なと思いますが、子どもとはそういうものなので仕方ありません。
ふと、以前に文献で読んだ『魔物を眠らせる魔法の呪文』のことが頭をよぎりました。
「ふむ……結果が同じなら過程は少々違っても問題ないですよね」
「ママン……?」
ワタクシは本棚から魔術書を取り出し、一応子守唄になるように適当にメロディをつけて詠唱を始めました。
「闇~深きものよぉ~ 夜の帳を~今ここにぃ~♪」
「ママン……そのお歌、なんか怖いぞ」
「ヒュプノスの名においてぇ~……闇夜にぃ~♪ その身を委ね~ん♪」
「ママン、子守唄いらない。パン男が見たい」
ママンがせっかく歌ったのにこの仕打ち。しかもちっとも効いてないし。ワタクシはため息をつきました。
終始そんな感じで振り回されっぱなしですが、幼いアレクとの生活は楽しく、ワタクシの腕の中で安心しきった顔ですやすやと眠るあどけない顔を見ていると、いつも温かい気持ちになるのでした。
こうして日々忙しく過ごしていると時が経つのは早いもので、アレクが呪いで子どもになってから2週間が経ってしまいました。
早く元に戻してあげないと……そう思うのですが、呪いの解析はなかなか進みません。
アレクからなかなか目を離せないのもあり、つい後回しになっていたのです。
そして次の日には、店に遊びに来た氏神のシロにも事情を知られることとなりました。
「最近ジェルお店閉めちゃってるし、どうしたのかと思ったら。まさかアレク兄ちゃんがそんなことになってたなんてね」
「これでも最初に比べるとアレクも少し聞き分けが良くなってくれたので多少はマシですが、やはり大変ですね」
ワタクシはアレクを膝の上に乗せて、シロに育児の様子を語りました。
「……でね、アレクったらお風呂で急に『ママンなのにどうしてちんちん付いてるんだ?』とか言うんですよ。そんなの仕様だから答えようもないじゃないですか!」
「うん、仕様だね」
「それなのにアレクったら……いやもう、可愛いからいいんですけども」
「うん」
シロは相槌をうちながら、アレクを観察するようにジッと見つめています。
他人に見つめられて緊張したのか、アレクはワタクシにギュっとしがみついて顔を隠してしまいました。
「おや、人見知りしてるんですかね。ふふ、珍しい」
「……ねぇ、ジェル。よかったら今すぐアレク兄ちゃんの呪い、僕が解こうか?」
「え……」
「僕は神だ。僕ならきっと今すぐ解けると思う」
――今すぐ。
「いえ、ワタクシが自分で何とかしますので大丈夫です。ワタクシの責任ですから」
気が付けば拒否の言葉が口からでていました。
「そう……でも、なるべく早く解いた方がお互いの為だよ?」
シロは心配そうに言います。
――えぇ、わかっています。わかっていますとも。きっとアレクだって元の姿に戻りたいはずです。
「でも……」
ワタクシはシロの視線に耐えられず、目を伏せました。
「ジェルがそうしたいなら僕は止めないけども。何か困ったことがあったら頼ってね」
そう言ってシロは帰っていきました。
彼を見送った後、ワタクシはリビングのソファーでぼんやりしていました。
「ママン、元気無い……?」
すぐ隣でアレクは絵本を見ていましたが、母親の様子がおかしいことが気になるのか心配そうに見上げ、小さな手を伸ばしてきました。
催促されるまま抱き上げ膝の上に乗せると、ワタクシの顔を兄と同じ澄んだ瞳で見つめます。
そう……この子は自分の子どもではなく兄のアレクサンドル。
だから早く元の姿に戻してあげないといけないんです。それなのに自分は。
「――元の姿になってしまったらきっと、ワタクシをママンと呼んでいたことも、こうやって過ごしたことも何もかも忘れてしまうんでしょうね……」
「ママン?」
「アレク……ごめんなさい」
「ママン、どうして泣いてるんだ?」
――でも。
どうかあと少し。あと少しだけ……この幸せな日々を続けてもいいでしょうか。
ワタクシは幼い身体をそっと抱きしめ、許しを請うのでした。
そして再び、アレクとの生活が始まりました。
ジンが2日に1回は様子を見にきてくれますし、最近はワタクシも少しは育児に慣れてきたように思います。
「アレク、今日は晩御飯に何が食べたいですか?」
「ハンバーグ!」
「ちゃんと人参も食べてくださいね」
「おう!」
そうそう、ジンが置いていった魔法のDVDは効き目バツグンでした。
その結果アレクの中でパン男ブームが到来したらしく、退屈だとすぐにパン男ごっこをしたがります。
「俺はパン男! オマエは悪いやつだからパンを食べろ!」
「えぇ……そんな話じゃなかったでしょ⁉」
「ママン! もっとバイキンらしくして!」
演技指導がざっくりとしているのになかなか厳しく、簡単にOKがでないので困ります。
「ママン、トータスが見たい」
「トータス? 亀?」
「亀違う! トータク!」
「董卓? 黄巾の乱ですか?」
「きくぁんしゃー!」
あぁ、機関車の名前でしたか。
「はいはい、じゃあDVD観ましょうね~」
アレクはおとなしく機関車のDVDを観ています。
最近は彼も聞き分けが良くなったので時間に多少余裕ができ、呪いの解析はすっかり完了していました。
いよいよ、幼いアレクともお別れの時が近づいています。
「淋しいですが、仕方ないですよね……」
ワタクシはアレクにおなかいっぱいご飯を食べさせ、お風呂で丁寧に身体を洗ってやり、彼が眠ってしまうまで隣で話をしました。
ワタクシの腕の中ですやすやと眠っている幸せそうな顔を見ると、つい決心が揺らぎそうになります。
起こさないようにそっと指先で彼の柔らかな黒髪を撫で、寝顔を眺め、そのままろくに眠れないまま朝がきて。
――ついに呪いを解くと決めた日になってしまいました。
アレクをリビングに描いた魔法陣の上に立たせて準備を始めると、彼は不思議そうにこっちを見ていました。
「そこで、じっとしててくださいね」
「ママン?」
「よし、腕輪も設置したし……」
――これでいよいよ、お別れです。
ワタクシは魔法陣の中に立っているアレクに近づき、かがみこんで小さな身体を抱きしめました。
「えへへ、ママンの抱っこだ」
彼は無邪気に喜んでいます。こうやって抱きしめられた記憶も、一緒に過ごした日々も、きっと元に戻ったらすべて記憶の奥底に沈んで忘れられてしまうのでしょうね……
「ねぇ、アレク」
「ん?」
「ママンのこと、好きですか?」
「あぁ! 俺、ママンが大好きだぞ!」
彼は満面の笑みで答えます。
――よかった。
「ママンもアレクのことが大好きですよ」
それじゃ、さよなら。ワタクシの可愛いアレク。
そっと身体を離し、呪いを解くための呪文を詠唱しました。
解析は無事成功していたようで、魔法陣から放たれた光は彼の身体を包み込み、その姿を本来あるべき形へと戻していきます。
光が収まった時には、アレクはよく見知った兄の姿に戻っていました。
「アレク……」
「あ、え……えっと、ジェル」
「すみませんでした、ワタクシのせいで……」
「え? いや、別に何も……」
「とりあえず服、着ましょうか」
「え、あ、あぁ」
服を着たまま元の姿に戻すわけにいかなかったので、アレクをバスタオルを巻いた状態で魔法陣に立たせていたのです。
服を着た彼は、うーんと唸りながら背伸びをしています。
「あー、腹減ったな~。飯にしようぜ」
「あっ、はい。すぐ作ります」
そしてアレクは何の迷いもなく絵本を手にとり、ソファに寝転がりました。
――何の迷いもなく?
今のリビングは、積み木やパン男のぬいぐるみが置かれ、テーブルの上には幼児向けの絵本がたくさん置かれています。
それに今のワタクシは全身ジャージ姿です。髪もまとめていますし、今の状況はつっこみどころ満載のはずなのです。それを気にも留めないなんて。
「アレク。あなたもしかして……」
「へっ……?」
ワタクシの表情から何かを悟ったのか、彼は慌てて手に持っていた絵本を放り出して座り直しました。
「いつから元のアレクに戻ってたんですか⁉」
「えーっと……昨日かなぁ……」
アレクはちょっと視線をそらしながら答えます。これは明らかに嘘をついている顔です。
「――本当は?」
「えー、あー、うん。ごめん……ちょっとずつ記憶が戻っていって1週間くらい前には完全に今の俺になってた。なんていうか、見た目は子ども、頭脳は大人ってやつ?」
「なんで言わないんですか!」
「いやー、なんか言い出せなくてさぁ。それにちっちゃい俺だとジェルちゃんいっぱい優しくしてくれるからさぁ。つい……ね?」
えへへとアレクは笑いました。
1週間ということはお風呂に一緒に入ったのも、添い寝をしたのも、パン男ごっこで遊んだのも、全部覚えてるってことですか!
ワタクシはあまりの恥ずかしさに、叫びながら彼の頭をポカポカと叩きました。
「アレク! 今すぐ全部忘れて! 全部っ!!!!」
「ちょっ、バカ、やめろ!」
「忘れてくれるまでやめません!」
「痛い痛い! やめてママン!」
「ワタクシをママンと呼ぶなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
リビングにワタクシの絶叫が響き渡り「ジェルをママンと呼ぶの禁止令」が即座に発令されたのでした。
読んでくださりありがとうございました。今回はいつもより長めでしたがいかがでしたでしょうか。
子育てに関して私はまったく無知だったので、実際に育児経験のある友人にお話を聞かせてもらい執筆しました。実際聞いてみると想像以上に大変で、子どもを育てている方は本当すごいなと思います。
※読みやすさを考慮して、話の順番を入れ替えしました。
この話は旧7話で、変更前の9話は「そんな奇跡ありですか!?」です。