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74.温泉に行こう!

 ――いや、騙すつもりは無かったんだ。

 目の前では弟のジェルマンが「こんなの詐欺じゃないですか」と言いながら口をとがらせている。


 話の発端は1時間前のことだ。


「えっ、今から温泉に行くんですか?」


「無料招待券をもらったんだよ。だから一緒にどうかなぁって」


「ワタクシ、読みかけの本があるんで今は外出する気分じゃないんですよねぇ」


 ジェルは、ふぁぁ……と興味無さそうにあくびをする。

 ここまでは予想の範囲内だ。


「いやぁ~残念だなぁ。地下からくみ上げた美肌間違いなしのスペシャルなお湯が、源泉かけ流しらしいんだけど」


「源泉かけ流し、それはすごいですね」


 おっ、食いついてきた。よしよし。


「そうだろう? しかも老舗の情緒あふれる温泉だ。充実のアメニティにベテランのコンシェルジュによる行き届いたサービス。ラグジュアリーな安らぎ……それが特別に今だけなんと無料!」


 ジェルの目がキラリと光ったように見える。よし、最後の一押し。


「あと5分で〆切だから申し込むなら今がラストチャンスだぞ!」


 チケットの有効期限は来年まであるけど、こういう時は相手に思考させる時間を与えないのが大事だ。


「しかも今なら大型の車での送迎付きだ! これは行くしかないだろ⁉」


「そうですねぇ。それならまぁ行ってもいいですけど……」


「よし、行こう! 今すぐ行こう!」


 どうだ、お兄ちゃんの営業力は。

 こうして俺たちは駅前からバスに乗って温泉へと出かけた。


「ちょっと、アレク! 大型の車ってリムジンとかそういうのだと思ったのに、ただのバスじゃないですか!」


「細かいことは気にしちゃダメだ」


「もう乗っちゃったからいいですけど……」


 俺たちを乗せたバスが目的地に到着したのはそれから30分後のことだった。


「ここは……」


「温泉だ!」


「ただの銭湯じゃないですか!!!!」


「天然温泉で源泉かけ流しだし、嘘じゃないぞ。さぁ、行こう!」


 俺が大きな温泉マークが描かれた暖簾をくぐって呼びかけたら、ジェルは何か言いたげな顔をしながらも、おとなしく付いてきた。


「……それで、どこにベテランのコンシェルジュが居るんですかね?」


「そこに座ってるお爺ちゃんはこの道50年の超ベテランだ」


 俺は番台に座っている爺ちゃんに挨拶した。


「おうおう、アレクちゃん。こないだはありがとうなぁ」


「爺ちゃん、弟のジェルマンだ」


「女湯はあっちだよ?」


「いえ、ワタクシは男です」


「おぉ、べっぴんさんやから女の子かと思ったわい。ゆっくりしていってなぁ」


 ジェルは軽く爺ちゃんに会釈すると、周囲を見回した。


「あの……充実のアメニティはどちらに?」


「あぁ、そうだったな。爺ちゃん、貸しタオルちょーだい」


 俺は番台に100円玉を4枚置いて、俺とジェルの分のバスタオルとタオルを手に入れた。


「こんなの詐欺じゃないですか」


 ロッカーで上着を脱ぎながら、ジェルがブツブツ文句を言っている。


「まぁそう言うなって。こういうのもたまには良いもんだぞ。結構、ここは穴場なんだ」


「穴場ねぇ……ただの古い銭湯に見えますけど」


「それでも新しい風呂を用意したりチャレンジ精神は抜群だからな。俺がアイデアを出したんだぞ!」


 無料チケットはその新しい風呂のアイデアのお礼にもらったものだ。


「へぇ、アレクがアイデアを。どんなお風呂か気になりますね」


 そう言いながらガラリと扉を開けて浴室に入るなり、ジェルは不思議そうな顔をした。


「あれ? どうしてお風呂場なのにラーメンの匂いがするんですかね?」


「よくぞ聞いてくれた! これがお兄ちゃん考案のラーメンの湯だ!」


 ジェルは目の前の茶色く濁った湯を見て、目を丸くしている。


「鶏ガラダシっぽい色と匂いを再現してあるけど、色と匂いだけだから安心してくれ!」


「うーん……」


 発泡スチロールで出来たナルトがプカプカ浮いている湯の中をジェルは覗き込んだ。


「ワタクシはご遠慮したいですね。隣の紫色のお湯の方に入ります」


 ジェルはお湯に足をつけようとした。


「そっちはラベンダーの湯だ」


「うぇぇぇぇ……ラーメンとラベンダーで境界部分の匂いがケンカしてすごいことになってますよ」


 ――そう、それはちょっと計算外だったんだよなぁ。どっちも匂いが強いから。


「ワタクシ、普通のお風呂に入りたいです」


 ジェルはラベンダーの湯に入るのを止めて大きな浴槽に行ったので、俺も付いていった。


「外人さん、お風呂の入り方はわかるかい?」


 大きな浴槽の中で先に浸かっていたおっちゃん達が、俺たちに声をかけてくる。


「ありがとうございます。ワタクシ達は日本に来て長いですから大丈夫ですよ」


「そういやそっちの兄ちゃんは見たことある顔だな」


 頭の禿げたおっちゃんが、俺を見て愛想よく笑いかけてきたので俺たちもその風呂に浸かって世間話を始めた。


「おっちゃん達はいつも来てるのか?」


「おお、そうだよ。皆ここの風呂を毎日の楽しみにしてるんだ」


「仕事が終わった後の銭湯は最高だからな」


「俺は風呂無しのアパートに住んでるから、ここの風呂が自分ちの風呂みたいなもんさ」


 なるほど、ここは地域の人達にとって大切な場所なんだなぁ。


「ところで外人さん達、あっちの露天風呂はもう入ったかい? そこが源泉だから、もしまだなら入るといい」


「ありがとう、行ってみるよ」


 俺はジェルを連れて、露天風呂へ続くガラスのドアを開けた。

 サッと外の空気が入ってきて、火照った体には涼しくて心地いい。


 露天風呂は大きな岩で作られた風呂だ。

 岩の隙間から湯がドバドバと贅沢に流れている。

 ジェルは楽しそうにその流れ落ちる湯に手を当てた。


「ちょっと熱めですが良いお湯ですね」


「本当だ、あちぃな……」


 温度が高めだからあまり長く浸かれないなぁと思いながら、静かに湯の中に腰を下ろすと、思わず声が漏れる。


「うぇぃぁぁぁぁ~……」


「アレクはオッサンですねぇ」


「実年齢ならオッサンどころじゃないけどな」


 俺の返しにジェルはふんわり笑う。うん、連れてきてよかったなぁ。


 そう思った瞬間。

 水面が細かく波打って地面が揺れるような感覚がした。


「地震ですね。結構大きいですよ!」


 地震は30秒程度で収まった。番台のお爺ちゃんや、さっき一緒に浸かってたおっちゃん達は無事だろうか。


「俺、ちょっと見てくる」


「ワタクシも行きます」


 もともと老朽化していたところに地震がきて一気にやられたのだろう。

 辺りは桶が散乱していて、天窓が割れ、床や浴槽にも亀裂が走っている。

 脱衣所の方に行くとおっちゃんたちがタオル一丁のまま、倒れた体重計や扇風機を元に戻していた。


「すげぇ揺れたなぁ。おっちゃん達、大丈夫だったか?」


「おう、兄ちゃん。こっちは大丈夫だ。でも風呂が壊れちまったなぁ」


 番台の爺ちゃんもやってきて、派手に壊れた浴室を見て肩を落としている。


「こりゃぁ……しばらくは休業せんといかんのう」


 ――休業。たしかに費用面もそうだし、修理する時間も考えるとすぐに営業再開するのはどう見ても無理だろう。

 しょんぼりしている爺ちゃんに、皆もなんと声をかけたら良いか、という顔をしている。

 その時、沈黙を破ったのはジェルだった。


「皆さん。今から起きることを他言無用としてくださいますか?」


 ジェルはそう言って壊れた天窓に向かって両手を掲げた。

 そして呪文を唱えると彼の両手が輝いて、粉々に割れたはずの天窓が、まるで時間が巻き戻るかのように元の姿になっていく。

 ……いや、元の姿というにはちょっといびつな形で。


「ジェル、造形下手だよな」


「ちょっと! これでも真面目にやってるんですけど⁉」


 ジェルは同じように手を掲げて次々と壊れた箇所を修復していく。


「女湯の皆さんはもう避難済みですかね?」


「あ、あぁ……大丈夫だよ」


「ではお邪魔いたしますね」


 ジェルは同じ要領で女湯の方も修復したらしい。俺は付いて行かなかったんで詳しくはわからないが。


「ボイラーの点検はさすがに業者さんを呼んでいただかないとですが。それでも、これなら休業する日数は短く済むでしょう」


 その言葉に爺ちゃんはハッとして、ジェルを拝み始めた。


「なんと。アレクちゃんが連れてきたのは仏様じゃったか……ありがたやありがたや……」


「いえ、ワタクシはただの人間ですから! ただちょっと物の状態を変化させることができるだけで――」


 爺ちゃんやおっちゃん達から何度もお礼を言われて、ジェルは恥ずかしそうにしていた。


 それから一週間後。

 俺たちは無事に営業を再開した銭湯に足を運んだ。


「アレクちゃんと仏様! よう来てくださった!」


「爺ちゃん、再開おめでとう」


「ありがとなぁ。おかげさんで再開できたよ。常連さん達も入りに来てくれてるし、なんとかやっていけそうじゃ。本当にありがとうなぁ……」


 爺ちゃんに勧められるままに、俺たちは中に入った。

 脱衣所ではおっちゃん達が賑やかに話しながら着替えをしていた。


「おお、兄ちゃん達! あんときはありがとうな!」


「しかし露天風呂のアレ、すごいな」


「女湯にも同じのがあるらしいぞ」


 おっちゃん達は何を言ってるんだろうか? と思いつつ露天風呂に行ってみて完全に理解した。

 露天風呂の湯の出るところが、巨大なマーライオンになっていたのだ。

 シンガポールにある本物に比べると造形が不細工だし、ちょっとアマビエも入ってるみたいにも見えるが、たぶんマーライオンだ。


「記念にちょっとアレンジしてみたんですが……やりすぎでしたかね?」


「いや、いいと思うぞ」


 ――たぶん、このへんてこマーライオンも長く愛されることになるんだろうな。

 俺は熱い湯に体を沈めながらそう思ったのだった。

次回の更新は7月1日(土)です。

ここまで読んでくださりありがとうございました!

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