4.俺のワンちゃん(挿絵あり)
それは、兄のアレクサンドルが珍しく店番を代わってくれたことから始まりました。
「おいジェル! 見てくれよこれ!」
声の方を見ると、茶色い子犬を抱いて子どものようにはしゃぐアレクの姿があります。
「おや? その犬どうしたんですか……?」
「おぅ、ワンちゃんだ! ドアの外で入りたそうにうろうろしてたのが窓から見えたんだよ。なぁ、可愛いだろ?」
「ドアの外? それは変ですね……」
この店は誰でも気軽に入れる仕様ではありません。
以前、うちに来た氏神のシロから聞いた話ですが、シロのお使い番の犬がワタクシの施した特殊な結界の為にこの店に近寄れなかったんだそうです。
神様のお使い番ですら近寄るのは無理なのですから、ただの犬なら尚更、店のドアの前をうろうろなんてことはできるはずないのです。
「これはどういうことでしょうね……?」
ワタクシは警戒してアレクと子犬を見つめましたが、彼はそんな視線などまったくお構いなしで子犬に夢中です。
「おーおー! オマエ、図鑑で見たことあるぞ。えーっと、たしか柴犬だ! 柴犬は日本の犬だな! お兄ちゃん日本が大好きだぞー! よーしよし!」
彼はすっかりご満悦で歓声を上げ、抱きかかえながら子犬の頭を撫でています。
「よしよし、俺はアレクお兄ちゃんだぞ。覚えたか? ……そうかそうか! 良い子だな、ハハハ!」
子犬は彼の呼びかけに応えるようにクンクン鳴き声をあげ、ちいさな尻尾をピコピコと振ります。
その姿は非常に愛らしく庇護欲をそそるものです。
しばらくアレクはデレデレとしまりの無い顔で子犬を撫でていましたが、ふとワタクシの方を見て何か言いたげな顔をしました。
――あぁ、この後あなたが何を言うかなんて察しがついてますよ。
「……なぁ、ジェルちゃん」
「いけませんよ」
「まだ何も言って無い」
「あなたがワタクシをジェルちゃんと呼ぶときは、ロクでもない話があると相場が決まっています」
「そうかなぁ。――なぁ、飼っていいだろ?」
「ダメです。うちでは飼えません」
「俺が面倒みるからさぁ」
よくそんなことが言えたもんです。世界中を旅する人がいつペットの面倒をみるというのでしょうか。
そうやって過去に押し付けられた生き物は、金魚から羊や馬にいたるまでたくさんあるのです。
それらが天寿を全うするまで、どれだけワタクシが世話をしたと思っているのですか。
「絶対ダメです! それに既にどこかで飼われてる犬かもしれないでしょ?」
「ちぇ~。そっかぁ。なぁ、オマエどこの子だ? ――おっと」
抱きかかえ直そうとして彼の手がゆるんだ隙に、子犬は腕の中から飛び出し、店の一角へトコトコ歩いて行きました。
「あっ、こら、そっちはダメだ!」
彼が追いかけて捕まえようとすると、子犬は立ち止まりショーケースの中を見ながら小さな声でキャンキャン吠えます。子犬の目線の先には小さな箱がありました。
「アレク、どうもこの犬はうちの品に用があるみたいですよ」
「えっ、そうなのか。よしよし、どうした? このケースの箱が気になるのか? 残念だがエサもオヤツも入ってないぞ?」
アレクがショーケースから箱を取り出すと子犬はあきらかにそれに興味があるらしく、クゥーンと鼻を鳴らして顔を近づけます。
「これ、なんだったっけかな?」
箱の中には3cm程度の小さな翡翠の勾玉が入っていました。
「これは……なんでしたかね? ずいぶん前からここに置いてましたが」
「ん、忘れちまったなぁ。どうしたオマエ、これが欲しいのか?」
子犬は勾玉に顔を近づけクンクン鳴いています。
「あっ、良い事思いついた! ちょっと待ってろよ。……そうだ、待て。ステイだ。よしよし」
アレクは子犬の頭をひと撫でして、勾玉を片手に店の奥に消えました。部屋に何か取りに行ったのでしょうか。
子犬は逃げる様子もなく、彼が消えたドアの奥を見ておとなしく座っています。
数分もしないうちにアレクは戻ってきました。手には赤いチョーカーに通された勾玉が握られています。
「よし、ちゃんと待てたな、偉いぞ。首輪じゃねぇけど、とりあえずこれでいけるかな」
彼は子犬の首に優しく赤い皮ひものチョーカーを結びつけました。
「ちょっともう、商品なのに勝手なことをして……」
「いいじゃん、何だったのか忘れちまうくらいずっと置いてたもんだしさ」
子犬は尻尾をちぎれんばかりに振って、彼に飛びつき喜びを伝えています。
「おー、よしよし! それが欲しかったのか。それはお兄ちゃんからのプレゼントだ。大事にしろよ?」
そう言ってアレクは子犬を抱き上げてその口元にキスすると、子犬もキスに応えるように、彼の唇をペロっと軽く舐めました。
「アレク、そんな素性のわからない犬に……! 病原菌でもいたら大変です、すぐに洗ってらっしゃい!」
「そんな大げさな、大丈夫だって。しかしこいつ、迷い犬か何かかね? もしそうなら、うちでしばらく預かるとかさぁ――」
その時、急に店のドアが開く音がしました。
「あぁ、スサノオ様、こちらにいらっしゃったのですか! 探しましたよ!」
入って来たのは白い着物に薄紫の袴の少年。以前にうちの店にやってきた神様、シロことシラノモリノミコトではありませんか。
「おや、誰かと思えばシロじゃないですか、遊びに来た、というわけではなさそうですね」
「あ、ジェル。うん、今日はこの地にスサノオノミコトっていう偉い神様が視察に来られたからご案内していたんだけど、急にお姿が見えなくなったんだよ。それで神気を辿ってここへ来たんだ」
シロはそう言うと、アレクが抱いている子犬を見てサッと顔色を変えました。
「おい、貴様。スサノオ様に何をする。さっさと降ろせ!」
「あ? スサノオ様ぁ……?」
「無礼者! 早く降ろしてさし上げろ!」
怪訝な表情で彼が足元に子犬を降ろすと、急に辺りがまばゆく輝き、気が付けばそこに子犬の姿はなく大柄で着物を着た威厳のある雰囲気の男性が立っていました。
その手には、先ほどアレクが結んだ勾玉付きのチョーカーがぶら下がっています。
男性はアレクに勾玉を見せ、厳かな声で語りかけました。
「此度は実に大儀であった。この勾玉は元は我の宝剣を飾っていたものであったが、数多の地を巡るうちにいつの間にか失われていたのだ。再び手にすることができてまことに喜ばしい。礼を言うぞ」
「へ……? あ――うん、よかったな」
アレクはあまりにも突拍子も無い出来事に、そう返すのが精一杯でした。そんな彼の姿を見てスサノオは軽く目を細めると、姿勢をただし、シロの方へ向きます。
「シラノモリノミコトよ、出迎えご苦労であった」
「はい、スサノオ様。しかし何で犬の姿になんて。おかげで探すのに苦労いたしましたよ」
「ほんの戯れだが、そのおかげですんなりと勾玉を手にすることができたのだから良いではないか」
「はぁ。スサノオ様は悪戯好きですからねぇ……。では参りましょうか。それじゃジェルと、アンタは……ジェルの兄ちゃんか。またあらためてご挨拶するよ、それじゃあね」
「世話になった。さらばだ」
こうして神様たちは帰って行き、その場には呆然と立ちつくすワタクシとアレクが取り残されました。
「俺のワンちゃんが……ワンちゃんが……」
「えぇ、ワンちゃんではありませんでしたね」
「ジェル……どうしよう……お、俺……か、神様とチューしちゃった!」
彼は頭を抱えていますが、知ったこっちゃありません。自業自得です。
「――俺バチあたっちゃう?」
「まぁ、あの様子だとバチはあたらないでしょう」
良い経験ができたと思ったらいいんじゃないでしょうか、とワタクシはクスクス笑いました。
その後、アレクは相当ショックだったのか部屋に戻って不貞寝してしまいました。
彼が店番を代わってくれるはずだった事もうやむやになってしまったので、仕方なくワタクシは何事もなかったように独りで店番をするのでした。