38.クーちゃんが来た日(挿絵あり)
それは小雨の降る、ある日の夕方の出来事だった。
暇を持て余していた俺は、することが無いのでだらだらとテレビを観ていた。
すぐ隣で弟のジェルマンはソファーに体を預けて、さっきからなにやら分厚い本を読んでいる。
「なぁ、ジェル。その本、面白いか?」
「アレクにはちょっと難しいかもですねぇ。クトゥルフ神話の本ですから」
――クトゥルフ神話? 名前は聞いたことがあるけどよくわからねぇなぁ。
俺の疑問が顔にでていたんだろう。ジェルは聞いてもいないのに説明し始めた。
「ラヴクラフトという作家が書いた小説が始まりでしてね。太古の地球の支配者である恐ろしい存在とか、言い表せない恐怖を書いた作品集なんです」
「言い表せない恐怖ってなんだよ」
「見ただけで発狂してしまうくらい怖いってことですね。たとえばこんな感じの……」
ジェルは本をパラパラとめくって俺に挿絵を見せる。
そこには、タコみたいに触手がいっぱい生えた怪物の絵が載っていた。
たしかにちょっと不気味ではあるが、しょせんは絵だ。別にどうということはない。
「ふーん。そんなの見たって、お兄ちゃんは別に怖かぁねぇけどなぁ」
「そう言ってても、いざ目の前にするとわかりませんよ?」
「たかがタコのお化け相手にそんなわけねぇよ。大丈夫だって!」
俺は笑い飛ばして、再びテレビ画面を見つめる。
ジェルはしばらく本の続きを読んでいたようだったが、途中で眠くなったらしく俺にもたれかかってうとうとし始めた。
その時、急に外でピシッと硬いものに亀裂が走るような音がして、ジェルがハッと目を覚まして叫ぶ。
「アレク、結界が壊されました! 侵入者かもしれません」
この家と俺達が経営しているアンティークの店「蜃気楼」は、空間を捻じ曲げた場所にあって、世間から存在を隠すための魔術結界が張り巡らせてあるのだ。
そんなものを壊すなんて、侵入してきたのは相当の実力者に違いない。
俺は慌てて、ベストの内ポケットに入れてあるナイフを確認した。
「いいか、危ないからちゃんとお兄ちゃんの後ろに隠れてるんだぞ?」
俺は緊張しながらジェルの前に立ち、家と店を繋ぐドアを静かに開けて、中の様子をうかがう。
――どうやら店の中には誰も居ないみたいだ。
だが安心した途端、店のドアをドンドンと乱暴に叩く音がして俺達はビクッとした。
「お~い、開けてくれへんか~! 急ぎやねん!」
あれ? この声には聞き覚えがあるぞ。
誰だっけと思いながらドアを開けると、銀色の体にアロハシャツ着た二人組が、片手をあげて挨拶しながら店の中に入ってきた。
「どうも、山田ですぅ。兄ちゃん達、久しぶりやなぁ」
「上田ですぅ~。おじゃましますわ~、お~、この店こないなっとったんか。物がようけあってすごいなぁ~」
「あんたらは、この前の!」
こいつらは、以前に俺とジェルが宇宙と交信しようとして呼び寄せてしまった宇宙人達だ。
山田と名乗った方は太っちょで、上田と名乗った方は痩せているけどひょろっと背が高い。
上田は、両手に大きなペット用のキャリーケースを抱えている。
彼らは大きな黒い目でこちらをじっと見つめ、前に会った時と同じように関西弁で気さくに話しかけてきた。
「おう、今日は兄ちゃん達にお願いがあって来たんや」
「……いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか」
背後にいたジェルが、俺の肩越しに少し警戒した様子で応対する。
「そない畏まらんでえぇで~。あのな、お願いっちゅうのはこの子のことなんや~」
上田がそう言ってケースを開けると、中からふわふわの薄茶色の毛に包まれた犬がひょっこりと顔を出した。
「ワンちゃんだぁ……!」
俺は犬が大好きだから、見ただけでテンションが上がる。
「おや。これは、ポメラニアンですかね」
ジェルも普段あまり好きとかそういう事は言わないけど、実はふわふわした可愛い生き物が大好きだ。
冷静な表情をしつつも、愛嬌を振りまく犬の姿にしっかり目を奪われている。
「どうや、可愛いやろ? うちのクーちゃんや」
山田は、自慢げに銀色の手で犬の頭を撫でた。
「実はなぁ。うちら今すぐ里帰りせなあかんくってなぁ。それでクーちゃんを1日でえぇから預かってほしいねん」
「え、このワンちゃんをか? ――わぁっ!」
クーちゃんと呼ばれた犬は、ケースから飛び出して俺の体めがけてダイブした。
とっさに抱きかかえると、洗い立ての毛布みたいなふわふわした毛の感触と、見た目の割に意外とずっしりとした重さが伝わってくる。
俺の顔を見て、クーちゃんはまん丸な黒い目をキラキラさせてハッハッハッと舌を出してうれしそうな顔をした。
「おぉ、よかった。兄ちゃんのことが気に入ったみたいやな」
「明日のこの時間には迎えにくるから、すまんけど頼んだで~。エサはこれ食わしてくれたらえぇからな~」
「ほな、そういうことでよろしくな」
彼らはドッグフードの箱を置いて、慌ただしく帰って行った。
今すぐ里帰りをすると言っていたので、たぶんそのままUFOに乗って母星へ向かうのだろう。
案の定、窓の向こうがピカピカと光って、そのままキィィィィンと音がしてすぐに静かになった。
「何かと思えば……。まぁ預かるのは今夜だけですし、しょうがないですねぇ」
「えへへ、ワンちゃんだ、ワンちゃんだ……!」
「ちょっとアレク。喜んでる場合じゃないですよ!」
「だって俺、ワンちゃん大好きだもん」
「はぁ……また結界の張り直しです。彼らに次は壊さずに入ってくるようにお願いしないと――」
ジェルはブツブツ言いながら、ドックフードの箱を持って家の方へ戻って行く。
俺もクーちゃんを抱えたまま後に続いた。
「さて、ひとまずは晩御飯にしますかね」
「今夜のご飯は何だ?」
「ハンバーグですよ」
「やったー!」
我が家に可愛いワンちゃんがやってきて、晩ご飯は俺の大好物のハンバーグ。今日は最高の日じゃないか。
俺はにんまりしてクーちゃんの頭を撫でた。
――でもそう思っていたのも、ほんのちょっとの間だけだったんだ。
夕食に呼ばれてダイニングへ向かった俺を待っていたのは、予想外の光景だった。
「あっ! 俺のハンバーグが消えてるぞ!」
「あれ? さっきそこにあったはずなんですが……」
ダイニングテーブルに置かれた俺の皿には、付け合わせのポテトとコーンしか乗っていなかった。
ジェルの皿のほうではふっくら焼かれたハンバーグが湯気を立てているし、俺の皿にも同じ物があったであろう痕跡は残っている。
その時、気配がして振り返ると、薄茶色の毛玉が廊下を走っていくのが見えた。
「まさか……」
俺は慌ててその後ろ姿を追いかけた。毛玉はハンバーグらしきものを咥えてリビングへ入っていく。
盗っ人の正体はクーちゃんで間違いない。だったらさっさと捕まえてしまおう。
そう思いながらリビングを覗いた。
そして、窓からの明かりが射し込む真っ暗な部屋で、俺は見てしまったんだ。
――クーちゃんの口からタコみたいな触手が生えているのを。
触手は器用にハンバーグをクルクルと巻き取って口に放り込んだ。グチャグチャと肉を咀嚼する不快な音がする。
「う、うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「どうしたんですか、アレク!」
俺の叫び声を聞いたジェルがやってきて、リビングの電気をつけた。
「おや、クーちゃん。テーブルの上に乗るなんてお行儀が悪いですよ? めっ!」
ジェルが優しく叱るような声を出すとクーちゃんは振り返ったが、そこには触手なんかなくて普通に可愛い犬の顔だった。
何事も無かったかのようにハッハッハッと舌を出して、フサフサの尻尾を振っている。
俺が見たのは幻覚だったんだろうか……いや、そんなはずはない。ヌラヌラと光る触手がその口から伸びるのを、確かに見たんだ。
「おや、この子がアレクのハンバーグを食べてしまったんですね。口の端にソースが付いていますよ」
「そう、そうなんだよ!」
「ハンバーグに玉葱を使ってなくてよかったです。犬に玉葱は毒ですからね」
――違う、問題はそこじゃない。
「そうじゃなくてさ、クーちゃんがニョロニョロしたのを口から出して俺のハンバーグを……!」
必死でクーちゃんに触手があることを説明したけど、ジェルは笑うだけで全然取り合ってくれない。
「まさかそんなわけないでしょう。こんなに小さくてふわふわで可愛いのに」
「だったら口の中を見てみてくれよ!」
「……別に普通ですよ?」
そう言われて、俺も口の中を覗き込んでみたが、確かに何もない。
じゃあ、さっきのあれは何だったんだ。
「とりあえず予備のハンバーグを焼きますから、そこで座って待っててくださいね」
ジェルは俺達に背を向けて、隣接しているキッチンへ消えた。
俺はため息をついて、ダイニングに戻って椅子に座る。
とりあえず腹が減ったし、先にポテトでもつまんでおくかな。
そう思ってテーブルの上の皿に目をやると、ポテトは緑色の触手にサッと掴まれて俺の視界から消えてしまった。
「え、おい⁉」
慌ててテーブルの下を覗き込むと、クーちゃんがクチャクチャと何かを食べているのが見える。
「やっぱり触手あるんじゃねぇか!」
――こいつはワンちゃんなんかじゃねぇ。とんでもない化け物だ。
「おい、ジェル! こっち来てくれ!」
「なんですか、騒々しい……」
「こいつやっぱり化け物だぞ! 俺のポテト食いやがった!」
「あぁ、犬って人間の食べ物欲しがりますからねぇ。しかし塩分が心配ですね」
「いや、そうじゃなくてだな……!」
「クーちゃん、おなかすいてるんですねぇ。ドックフード持ってきますから良い子にして待っててくださいね」
そう言ってクーちゃんの頭をひと撫ですると、ジェルは再びキッチンに行ってしまった。
「くそ、ジェルはすっかり騙されているけど、お兄ちゃんは騙されないからな。絶対化けの皮をはいでやる!」
俺は床に寝そべっているクーちゃんを監視しながら、ハンバーグを食べた。
いつまた触手を出してくるかもしれないと気になって、大好物なのにちっとも美味しいと感じなかったのが悔しい。
夕食後、ジェルは魔法陣を書いた羊皮紙と魔術書や色とりどりの宝石が入ったケースを、リビングのテーブルに並べていた。
「なんだ、自分の部屋で作業しないのか?」
「それだとクーちゃんをほったらかしになってしまいますし。せっかく預かったんですから、ワタクシだって可愛がりたいじゃないですか」
ジェルは何も警戒することなくクーちゃんを膝に乗せて、ふわふわの毛を撫でている。
俺もさっきの光景さえ見なければ、同じようにその毛並みを堪能していただろう。
「そういえば結界の様子を見ておかないと。今度はもっと修復が楽だといいんですが……」
「外に出てくるのか?」
「えぇ、すぐ戻りますから待っててください」
ジェルはクンクン甘えるクーちゃんを床に降ろして、リビングを出て行った。
そういや前に結界が壊された時も、ジェルが地面に宝石を埋めていろいろしてたっけ……すげぇめんどくさいってぼやいてたなぁ。
ソファーに寝転がって過去の出来事をあれこれ思い出していると、すぐ近くでハッハッハッと呼吸音がする。
俺は音のした方に目をやって、思わず声を上げた。
「あっ、おい! それ触ったらマズいやつだから!」
いつの間にかクーちゃんがテーブルの上に乗って、羊皮紙に書かれた魔法陣に顔を近づけている。
俺はとっさに起き上がって手を伸ばし、クーちゃんをそこから降ろそうとしてうっかり足を滑らしてテーブルの角に体をぶつけた。
「いてっ!」
その衝撃でテーブルが傾いてケースの蓋が開き、キラキラ輝くたくさんの宝石が魔法陣の上に散らばった。
クーちゃんは何事も無かったかのようにサッと飛び降りて、床に着地する。
体勢を立て直そうした俺は、思わず羊皮紙の上に手をついた。
「あっ……」
その時、何がどう作用したのかはさっぱりわからない。
ただ言えることは、魔法陣が発動してしまったということだ。
テーブルの上に黒いモヤのような物が浮かんで、それはすぐに濃くなっていく。
地の底から湧き上がるようなうめき声と共に、巨大な角と牙を持つ牛の化け物みたいなのが魔法陣から姿を現した。
――これはヤバイ。絶対ヤバイやつだ。
俺はベストの内ポケットに仕込んであるナイフを取り出そうとしたが、化け物の咆哮に飲まれ、思わず手が止まってしまった。
化け物は俺に向かって大きな口を開けて――
もうダメだと思った瞬間。
薄茶色の毛玉が俺の前に飛び出して、化け物の鼻先に体当たりした。
「クーちゃん……⁉」
犬とは思えないしなやかな動きで床に着地したクーちゃんは、俺を守るように前に出て化け物に向かってグルル……と唸って警戒している。
すると信じられないことに、その小さな背中がぱっくり割れて、中から巨大な触手とコウモリのような翼を生やした緑色のタコみたいな怪物が現れた。
その姿はどんどん大きくなって、あっという間に天井に頭が付きそうなサイズになる。
そして粘液まみれのヌラヌラ光る太い触手で化け物を締め上げたかと思うと、それを魔法陣の中に押し込んで元の世界に返したのだ。
「クーちゃん、すげぇ……!」
俺の声に巨大な怪物はゆっくりと振り返った。その姿は……今日ジェルが見せてくれた本の挿絵の――
「言い表せない恐怖……」
そのまま俺の視界は暗くなって、スーッと意識が遠くなっていくのを感じた。
「――アレク、大丈夫ですか?」
「ん……あ、ジェル? あれ?」
目を開けると、ジェルが青い瞳を不思議そうにまん丸にして俺の顔を覗き込んでいた。
「床で寝ちゃダメですよ。風邪ひいちゃいますよ?」
俺は床に倒れていたらしい。起き上がろうとしたら俺の胸の上に薄茶色の毛玉が乗っかってきた。
「うぉっ、クーちゃん⁉」
「どうしたんですか、アレク。そんなに慌てて」
「いや、別に……」
そっとクーちゃんを抱きかかえて、毛を撫でるふりをしながら背中を確認する。
そこには、ふわふわした感触があるだけで背中が割れた様子はもちろん、継ぎ目すら見つからなかった。
「夢……だったのかな」
「あー、もう。こんなに散らかして! 後が大変じゃないですか!」
「えっ……?」
起き上がってテーブルに目をやると、羊皮紙の上に宝石が散らばっていて、端の方に少し液体がかかったような湿った跡がある。
やっぱりあれは夢じゃなかったんだ。
「おや。この魔法陣、書き間違いですかね。何箇所か文字が逆さになってます」
「書き間違い?」
「えぇ。このまま発動したらとんでもないものを召喚するところでしたよ。何事も無くてよかったです」
うっかりしていたと、ジェルはのんきにつぶやく。そのおかげでこっちはとんでもない目に遭ったんだが。
――次の日の夕方。宇宙人達は約束通り、クーちゃんを迎えに来た。
「いや~、たすかりましたわ~」
「これ、お礼の豚まん。温かいうちに食べてや」
山田の手に下げられた白いビニール袋の中には、美味しそうな匂いのする赤い箱が見えた。
ジェルはそれを受け取りながら「次は絶対に、結界を壊さないでくださいね」と念を押している。
そんなこと言ってても、どうせまた壊されるような気がするけどな。
「兄ちゃん達、ほんまおおきに」
「ほな、どうも~。失礼しますわ~」
キャリーケースの蓋が開いて、クーちゃんは銀色の腕に抱きかかえられた。
「ありがとうな。また遊びに来いよ?」
俺がそう声をかけてふわふわの頭を撫でると、クーちゃんはとてもご機嫌な様子でハッハッハッと舌をだしたのだった。
次の更新は7月4日(土)を予定しております。
ここまで読んでくださりありがとうございました!




