缶コーヒーを飲めば
大学生のKは、駅のホームに立って特急列車が来るのを待っていた。
決して都会とはいえない地域にあるこの駅はこぢんまりとしており、改札口の他にあるのは、待合室とトイレ、そして自販機ぐらいである。夜の7時を回った今もK以外に人はいない。
駅の時計を見て、特急列車が来るまでの時間を確かめた。おそらく後10分ほどであろう。
向かいのホームに各駅停車の列車が入ってきた。ドアが開いても列車に乗り込む人などおらず、降りる人がまばらにいるだけであった。降りた2、3人も改札を出て各々の家へと散って行った。再びK1人になった。
Kは昨日、アルバイトとして3年間勤めていた学習塾を辞めた。高校生の頃から憧れていた塾の講師―自己の経験と能力を生かし、生徒の学力を引き上げ、そして生徒からの尊敬という名誉を受ける―
Kは3年間塾講師として働き、徐々に憧れの存在に近づいていた。しかしそれも一昨日で一変した。授業の最中、生徒の1人が熱中症で倒れたのである。Kはすぐさま事務に連絡を入れ、生徒は救急車で病院へ運ばれて行った。幸い命に別状はなかった。
そして昨日、生徒の保護者から塾に電話がかかってきた。「授業を担当していた講師を電話口によこせ」と。Kは電話を替わった。母親だった。Kが電話に出てからは母親は怒鳴り続けた。母親の主張は大要このようなものだった―授業担当者ならば生徒の体調に常に気を配るべきだ、子どもは学校の部活動で疲労しているにもかかわらず塾へ向かっている、真夏なのだから水分補給は必須だ、授業中であっても適宜飲ませなければならない、生徒に万が一のことがあったらどうするのか―Kは、ただ小さく「はい」と答えるのみであった。やがて電話がガチャッと切れた。
Kは、塾長に電話の内容を報告しようとデスクに向かった。塾長に一言「すまんな」と声を掛けられたKは、自分でも意外な言葉を発した―今日で辞めます―
特急列車が来るまで後5分ほどかというとき、Kのいるホームに1人の男が入ってきた。半袖のシャツを着たスーツ姿のその男は30歳前後に見えた。髪は清潔に整えられている。男はゆっくりとKの方へ向かってきて、声を掛けてきた。よく通る声だった。
「準備万端ですね」
Kは邪魔をされると感じたため、声を掛けられる前に苛立ちの言葉を喉元に準備していた。しかし、意外な言葉を掛けられ思わず「はい、後5分です」と答えた。男は一体何のために声を掛けてきたのか、Kに説得するような素振りは見せなかった。男は自販機に向かい、缶コーヒーを1つ買ってきた。Kは自分に手渡すのかと身構えた。すると男は言った。
「仕事終わりにはいつも缶コーヒーを飲むんですよ。別に缶コーヒーが上手いからじゃない。友人の言葉を思い出すからでね。大学生だったころ、友人達と一緒に司法試験の勉強をしていたんです。本当に辛い受験生活でみんな毎日苦しそうで。でも友人の中の1人だけ、いつもニコニコしている奴がいて、そいつは毎日楽しそうだった。だから苛々して嫌み混じりで訊いてやったんですよ、何がそんなに幸せなんだってね。そしたら奴はどこかの自販機で缶コーヒーを買ってきて、ニコニコしながら私の目の前でそれをフラフラとやって見せたんです。」
と言って男は缶コーヒーを飲み干した。そして
「次の急行列車に乗るんですよ。もし良ければ、私が乗ってからにしてもらえますかね。遅れちゃ面倒なので。」
と言った。Kは「いいですよ」と答えた。
特急列車がやって来て、一気に通過して行った。そして間もなくして入ってきた急行列車に男は乗って去って行った。
Kは靴を履き、自販機に向かうと缶コーヒーを買った。そして、一気に飲み干すと、各駅停車の列車に乗って帰って行った。
Pは、仕事が終わり駅へ向かった。そして寂れた駅に着くと、大学生風の青年がホームに立っていた。鞄はホームに置いている。そして靴も脱いで揃えられていた。揃えられた靴の間には紙が挟まれている。
Pは時計を見た。特急列車が来るまで後5分ほどだった。
Pは10年前司法試験に挑んでいた。しかし、思うように実力が伸びなかった。友人たちはみるみる賢くなっていく。いつしかPは置き去られた。法律家になるという夢を友人たちに絶たれた気がした。
そして、ある日の大学の帰りに「次の電車にしよう」と決めてホームに佇んでいた。すると、偶然勉強仲間の1人に声を掛けられた。Pは「幸せそうだな」と嫌みを言うと、彼は自販機で買ってきた缶コーヒーをPの目の前でちらつかせた。そして電車が入ってくると「お先に」と言って帰って行ったのだった。
Pはあの時の友人を思い出した。そしてホームに佇み、今まさに全てを諦めようとしている青年に声を掛けた。




