魂の旅人
日曜日の夕暮れ、星野晶子はポツンと力なく公園のベンチに座っていた。その目は悲しみを通り過ぎたようなうつろな目をしていた。それもその筈、3年間付き合っていた恋人からたった今別れを宣告されたのだった。好きで好きでこれからもずっと二人の関係が長く続くものと信じ、そろそろ結婚の話もでてくるかと思った矢先に、見事に振られてしまった。心の中にぽっかりと大きな穴が空いたようで、その虚しさをただかみ締めることしかできなかった。心の中にしまっておいた一番大切なものを無くしてしまい、もう生きる気力さえ湧いてこなかった。
立ち去って行く彼の後姿を目で追うこともできず、ただ呆然としてうなだれていた時、シックなスーツを着こなした女性が晶子の方にゆっくりと近付いて来た。それは見るからに仕事をバリバリこなすキャリア女性という感じだった。
「あなた、どうかしたの?」
その女性は晶子の横に腰を下ろしながら言った。
晶子は訝しげに女性を見たが、すぐに視線を元に戻し、無視するかのように遠くを眺めた。今はただ哀しみと空しさを胸の中いっぱいに感じることしかできなかった。
女性はそんな晶子の様子には気にもかけずに、バッグからタバコを取り出すと、火をつけて大きく吸い込んだ。やがてゆっくりと吐き出すと、晶子に向かってタバコを差し出しながら言った。
「あなたもどう?少しは気持ちも落ち着くわよ」
「いえ、結構です」
晶子はタバコを吸わないし、タバコを吸う女性もあまり好きではなかった。
「そう、それは残念ね」
女性は感情のこもらない声で言った。
「私はタバコの煙と臭いが嫌いなので、お吸いになるのでしたら、あちらのベンチの方でお願いしたいのですが…あなたが行かないなら、私の方があちらの方へ行きます」
女性の返事も待たずに、晶子が立ち上がろうとすると、それを押しとどめるように腕を強く掴まえられた。
「ごめんなさい。あなたはこのまま座ってていいのよ。私の方があちらに移るわ」
女性は立ち上がると、にこりとやさしそうな微笑みを浮かべた。その笑顔を見ると、決して悪い女性ではなさそうだった。
「いえ、いいんです。どうぞ気になさらないで、こちらにお掛け下さい」
晶子は女性のスマートな話し方に、つい惹きこまれてしまった。
「そう、じゃ、そうさせていただくわ。タバコは消しますからね」
女性は携帯用の灰皿を取り出すと、タバコをその中へ入れた。
「あなた、おいくつかしら?」
女性が晶子の歳を当ててみせるかのように、上から下まで視線を走らせた。
「そう、二十五歳くらいかな?」
女性が微笑みながら、少しだけ首を傾げるようにして言った。
「そうですけど、よく分かりましたね」
晶子は歳をピタリと言い当てられたので、感心したように言った。
「私は女の年齢を当てるのは得意なのよ。でも男の人の歳は中々当たらないわね」
女性は少しだけ得意そうに言うと、自分で納得するように頷いた。
「私は女の歳も男の人の歳も全然見当がつかないんです。見た目とは相当違う人も多いですから、いい加減なことを言って傷つけたくはないんです。私の言葉で相手の人が気分を悪くして、気まずい雰囲気になるのがイヤなんです」
「そう、分かるわ。ところであなたは今にも死にそうな顔をして、すごく落ち込んでいるようだけど、どうしてだか当ててみましょうか?」
女性は晶子の返事を待たずに話を続けた。
「最愛の恋人に振られて、只今失恋の哀しみをじっくりと味わっているところ、そんな感じかな?」
女性はそう言うと、当たっているでしょう、という風な目で晶子を見つめた。
「ずっと私のことを見ていたような言い方ですね。悔しいけど確かにあなたの言う通り…あ~あ…」
晶子は恋人から言われた別れの言葉を思い出して、大きくため息をついてうな垂れた。
「実を言うと、先ほどから彼が立ち去るまでずっとあなたを見ていたの。そうしたらあまりにもあなたがガックリと意気消沈しているようだから声をかけてみたの」
「そう、それはご親切に、どうも…」
晶子は恋人に振られたショックで、今は誰とも話す気にはならなかったが、その女性は少しでも励まそうとして明るい声で言った。
「失恋なんて、誰にでもあることよ。気にしない、気にしない。また新しい恋人を見つけることね。あなたならきっとすぐに素敵な彼が見つかるわよ」
「そんなに簡単に言わないで下さい。結婚するなら彼しかいないと、私は信じていたんです。私の赤い糸は彼とつながっていて、彼と巡り会うために生まれてきた、そう信じていたんです。それがこんなにも呆気なく別れることになるなんて、未だに信じられないし、信じたくもないんです。これから先、私はどうして生きていけばいいのか分からないくらいなんです」
晶子は両手で顔を押さえて、泣き出した。
「可哀想ね。でも彼にはきっと別の好きな女性ができたのよ」
女性は慰める風でもなく、乾いたような声で言った。
「他に好きな女ができたなんて、そんなことは一言も言ってなかったわ。私が彼のことをあまりに束縛するから、それがイヤで別れたい、そう言われたんです」
晶子は涙声で鼻をすするようにしながら、少し怒ったように女性を睨みつけた。
「あなたはバカかお人よしね。男と女が別れる時に本当のことを言う筈がないじゃない。他に好きな女性ができたか、あなたと一緒にいるのが苦痛になったか、どちらかよ。どちらにしても、彼はもう戻っては来ないわよ」
「そんな…」
晶子は単刀直入に胸をえぐられるようなことを言われて、ショックのあまり言葉を見失った。
「最愛の男性があなたの前から去って行き、あなたはこれからどうしていいのか分からない、途方に暮れている、というところね。まるで魂の抜け殻のような顔をしているもの」
「そうかもしれないです。私、これからどうしていいのか分からなくて、ここから立ち上がる気力もないんです」
「そうよね。私にも経験があるからよく分かるわ。私も彼と別れた時に、体中の力が一瞬にして抜けてしまって、どこにも力が入らなくなったの。片手さえ重くて持ち上がらなかったわ」
晶子が驚いたような顔をして女性を見た。知的で颯爽とした風に見える女性からは全く想像できない言葉だった。すべての感情を冷静に処理し、失恋の痛手などはまったく感じない女性のように思えたから驚きもひとしおだった。
「あら、私が失恋するのが意外かしら…私だって、普通の女よ。恋もすれば、失恋もするし、泣いたり笑ったり、あなたと何も違わないわよ」
その女性は楽しそうにウィンクをすると、ニコリと微笑んだ。
「そうですよね。特別な女っていないですよね。誰もが同じような経験をしているんですよね」
晶子は自分に言い聞かせるように言うと、少しだけその女性と親しく慣れたような気がした。
「少しは元気が出て来たかしら?」
「ええ、あなたとお話しができてよかったです」
「そう、よかったわ。もしもあなたがショックのあまりに、本当に抜け殻のようになっていたら、あなたの魂の代わりに私が入ろうと思っていたのよ」
「えっ、まさか~」
晶子は驚いたような表情を見せて冗談のように言ったが、女性の顔に微笑みはなく、怖くなるほど真剣な眼差しでジッと見つめていた。その雰囲気に晶子の顔は急に強張り始め、背中にゾクッと冷たいものが走るのを感じた。
「ほんとうよ。魂がやる気をなくすと、その魂の代わりに新しい魂がやってくるの。あなたの周りにも、あなたの魂に取って代わろうとする魂が沢山いるのよ。あなたは気づかないと思うけど…」
女性は寂しそうな表情を浮かべながら言った。
「それって、冗談で言っているんでしょ?魂が取って代わるなんて…」
晶子が無理にでも微笑もうとして言ったが、女性の真剣な眼差しに恐れをなしてしまって、結局は引きつったような顔になってしまった。
「よく聞いてね。これは冗談ではないの。あなたには見えないと思うけど、ほんとうにあなたの周りには、さまよっている魂が多くいるのよ。何かの事情で肉体を失ってしまった魂が、肉体を求めてさまよっているのよ。だから弱った魂の人がいると、そこに集まってきて、隙があればその人の中に入って、元の魂を追い出してしまうのよ」
「まさか、そんなこと、とても信じられません」
晶子は鼻で笑うよう言い方をして、聞き流そうとした。
「そうでしょうね。誰も私の言うことなんて信じられないでしょうね。やはり現実にそのようなことを経験しない限り、到底信じることは出来ないわね」
「そうですよ。魂が入れ替わる話なんて、今まで一度も聞いたことがありません」
「あなたが今の落ち込んだ気持ちのままだと、あなたもそういう経験をすることになるわよ。そうすればあなたにも私の言っていることが真実だと分かってもらえるわ」
女性は真剣な眼差しのまま話を続けた。
「あなたさえよければ、私があなたの魂に取って代わろうと思っているんだけど、いかがしら?」
女性は悪戯っぽく微笑むようにして言った。
「ほんとにそんなことができるんですか?」
晶子は疑わしそうな目で女性を見ながら、この人はどこか頭がおかしいのだろうと思い始めた。
「ほんとうよ。このままだと、あなたの魂は私以外の他の魂に取って代わられるわ。それでもいいのなら、私はかまわないけど…」
女性は自信を滲ませるように言うと、晶子の反応を窺うような目つきになった。
晶子は女性から視線をそらすと、黙ったまま遠くに目をやった。やはりこの人は正気を失っているんだ、そう思わないと晶子の方が正気を失いそうだった。この女性からどうすれば逃れることができるだろうか、としばらく考えていると、いつの間にか横に座っていた筈の女性の姿が消えてしまっていた。
「どこに行ったのかしら?」
晶子が呟きながら、辺りを見回したが、その姿はどこにもなかった。
その時、晶子の頭の中で女性の声が聞こえた。
「これで少しは理解できたかしら?」
「どこにいるんですか?」
晶子は驚いたように大きな声で言うと、もう一度辺りを見回した。しかし女性の姿はやはりどこにも見当たらなかった。
「私はここよ。あなたの中に入ったのよ」
女性の微笑んだような含み声が頭の中で反響していた。
「えっ、そんなこと…」
晶子の耳にははっきりとその女性の声が聞こえている。
「どうかしら、これで私の言うことを信じることができたかしら?」
晶子はにっこりと微笑みながら、ウィンクをしている自分の姿に気づいた。
「こんなことって…」
晶子の頭の中は混乱し始めた。自分の中にあの女性がいる。信じられないことが起こり、信じたくもなかったが、信じないわけにはいかない、という矛盾が頭の中で渦巻いていた。
「ほんとうにあなたは私の魂の中に入っているんですか?」
晶子が半信半疑のまま呟くように言った。
「ええ、そうよ。あなたの魂は哀しみで相当弱っているわ」
やはりあの女性の声が聞こえる。
「どうして私の中に入ったのですか?さっきまで私の隣に座っていたでしょ?スタイルがよくって、スーツ姿がよく似合っていたじゃないですか。それがどうして私なんかの中に入ったのですか?早く出て行って下さい!」
晶子が怒りをぶつけるような声で言った。
「だめよ。あなたは私の話を信じないし、あなたの魂は他の魂に狙われていたのよ。早くあなたの中に入ってしまわないと、他の魂に先を越されてしまうの。そうすると私はもう入れなくなってしまうのよ」
「私はもう大丈夫ですから、早く出て行って下さい」
「私も魂の一つよ。あなたに見えていたのは、あなたが思い描いた幻影よ。私も昔失恋した時に、全身の力が抜けてしまって、魂の抜け殻のようになった時があったの。その時に誰の魂かは分からないけど、無理やりに入って来られて、私の弱った魂は追い出されてしまったの。それ以来、私もさまよい続けていたの。もう何年になるのかしら…そんな時に偶然あなたに巡り会えた、というわけよ。あなたには悪いかもしれないけど、あなたの弱った魂には出て行ってもらうわ。最初は違和感を覚えるかもしれないけど、すぐに慣れて、私の魂があなたの魂になるのよ。明日からは私の魂があなたの中で活躍するわ」
女性は希望に満ちた楽しそうな声で言った。
「そんな…私の魂がなくなっちゃうと、私ではなくなってしまうじゃないですか。そんなことをしないで下さい」
晶子は泣きそうになりながら、哀願するように言った。
「そんなことは気にしなくてもいいわ。私の元気な魂をあなたにあげるんだから、反対に感謝してほしいくらいだわ。もしも私の魂がどうしてもイヤというなら、出て行ってあげてもいいけど、その代わりに他のどんな魂があなたに入るか分からないわよ。それでもいいの?」
女性が投げやりな口調で脅すように言ったので、晶子は息を飲んでたじろいでしまった。確かにあの女性が私の中にいるのを感じることができる。もしもその魂が出て行き、まったく知らない他の魂に入られたとしたら、そう思うだけで晶子は思わず身震いした。
「私の魂は私の中からもう出て行くしかないんですか?」
晶子はあきらめたような弱々しい声で言った。
「やっと理解できたようね」
女性のうれしさを滲ませたような声に、晶子は頷くしかなかった。
「それでは、あなたの魂に退場してもらって、これからは私があなたの魂になってあげるわね」
その声が聞こえると同時に、晶子は両手を天に向かって大きく差し出すように背伸びをしながら立ち上がった。
「明日からまたがんばろうっと!」
晶子は明るい声で言うと、希望に満ちた足取りで元気よく歩き出した。
完