名も無き唄 -The Secret Song- ―後編―
ダルクの後を追い部屋を出る。
廊下は朝日が入り込んで昨日のような不気味さを感じさせない。
むしろここは豪勢なお城で、
そのお城のお姫様が自分だと想像してしまい、エレンは嬉しくなるのであった。
ダルクの足はまっすぐに食堂へと向かっていく。
彼女に案内されなくても食堂の場所は分かる。廊下までとても良い匂いが届いているのだから。
これを辿れば、そこが厨房か食堂であろう。
食堂に着くと、そこにはもう先客がいた。
「おはよう」
と、魔王と呼ばれる男性はエレンに声をかける。
「おはようございます」
と、エレンも挨拶を交わし、頭を下げる。
エレンは迷わず昨日と同じ席に座る。
コップやナプキンなどが置いてあるのでここが指定席なのだろう。
魔王は食堂に入ってからエレンのほうをずっと見つめている。
威圧感を感じるような目線ではないのだが、エレンは下を向いてしまう。
気恥ずかしさというのだろうか――――いつも着ない服を男性に見られているのだ。
嫌でもそういうことを意識してしまう。
「ドレスを気に入ってもらえたかな」
魔王は急にそんな質問をしてきた。
「は、はい。とても……」
堂々と感謝の気持ちを伝えようとしたエレンだが、それ以上の言葉は喉から先へは出て来なかった。
「そうか」
答えを聞き、魔王は少しだけ微笑む。
微笑んだように見えたのは彼の口元が少し浮いたからだ。
だが、それは彼の笑顔なのだと、エレンは勝手に決め付ける。
そうでもしないと緊張で心臓が飛び出してきそうであったから。
ここでずっと気になっていたことを口に出した。
「あのっ…………ここは……どこなんでしょうか? なぜ…………私はここにいるんですか?」
それは彼女としては当然の質問であった。
死刑にされたと思ったら、違う場所に来ており、しかもこの待遇だ。
先送りにしていた疑問もそろそろ解決せねばいけない。
「まずは食事にしよう」
魔王はそう答える。それを聞いたようにダルクが食事を運んでくる。
勇気を振り絞ってした質問が食事によって後回しにされるのは少々残念だった。
突発的過ぎたのだと自分に言い聞かせ、エレンも食事に備え、
見よう見まねでナプキンを肩から掛けた。
ダルクがワゴンからエレンの前に置いたのは、パンとポタージュスープ、
そして生野菜のサラダであった。
いつもなら手づかみでマナーも気にせずに食べるところだが、
ドレスを着ている手前そんなことはしたくない。
エレンは横にあるスプーンとフォークを使い不恰好ながら食事を進める。
昨日は空腹のせいか、料理の味など分からなかった。
しかし改めて食べてみると、テーブルに並んだどれもが最高に美味しいのだ。
パンはふっくらしていて噛み締めるごとに甘みが出てくる。これは焼き立てなのだろう。
黄金色のスープは甘くて口の中がとろける様だ。
サラダにおいてはとても優雅だ。以前、町の料理屋で食べたものは、
ただの野菜の群れという感じであったが目の前にあるものを例えるならば、行進。
色、種類、味に統一性があるのだ。
スープにしろサラダにしろ、見た目、味ともに上品だ。
貴族はいつもこのような食事をしているのだろうか、と少し嫉妬に駆られてしまう。
食事を終えるころには身も心も満足感でいっぱいになっていた。
ダルクは空になった食器を下げてくれる。
食器を運ぶカチャカチャという音が遠くなるとまた食堂に静寂が訪れた。
先ほどの質問の続きをしたいのだが、こちらから話しかけていいものなのか、とエレンは悩む。
それが顔に出たのか、魔王は良いタイミングで立ち上がる。
「着いて来い」
そう言い残し、彼は食堂を後にした。
エレンは魔王と共にバルコニーへと来ていた。
昨日は夜だったせいもあり、目の前にある森林しか目に入らなかった。
しかし、今日の天気は快晴であり、遥か遠くにある山々や湖がはっきりと見えた。
昼と夜でこんなに風景が変わる物なのか――――エレンはとても感心する。
「この景色を見てどう思う?」
エレンの横にいる魔王は静かに言う。
「綺麗です…………」
これはエレンの本心の言葉であった。
まずこの景色を見て美しいと思わない人間はいないはずだ。
「私は美しいものが好きだ」
魔王は続ける。
「あの時、そなたの歌が耳に入ってきた。それはとても美しかった」
あの時というのはエレンが処刑台に上った時だろう。
「だから私を助けてくれたんですか…………?」
死を覚悟した時の温もりはこの人のものであったのだ。
エレンは感動を覚える。
初めて人に助けてもらったのだから。
それが人間じゃないとしてもとても嬉しかった。
涙が出そうになる。
「歌ってくれないか」
魔王は静かにそう言う。
こんなことを言われるのも初めてだ。
エレンは誰かの為に歌うことはなかったのだから。
今までの唄は自分のため、そして仕事のためにしか使わなかったから。
魔王の言葉だけで胸の中に幸せが込み上げてきた。
彼女は歌った。名も無き唄を――――――
自分で歌にこれほどの感情を籠めたことはない。
エレンの目には自然と涙が浮かんだ。
悲しくないのに涙が出ることは彼女にとっては初めてなのだ。
胸がいっぱいになって、苦しくなって…………それでも彼女は歌い続けた。
歌が終わったときにはエレンは肩で息をしていた。
一曲の歌でこれほど疲れたことはあるだろうか。
魔王の顔を見る。表情は変わっていないものの、その雰囲気は明らかに変わっていた。
いやその変化はエレンの心境の変化から来るものなのかもしれない。
エレンの目から見て、彼はとても愛しい存在になっていたのだから。
「美しい歌だな」
そう言い、魔王は尊い目で湖の方を見る。
湖面は冬の穏やかな風を受け静かに波を立てる。
聞こえるはずのない波紋の音が心の中に響いた気がした。