準備。念入りに
日差しが部屋の中に射し、朝が来た事を教えてくれる。城の最上階の部屋で少女は目覚める。
いつもなら彼女の起床に合わせ、ベッドの中にいるベロスも目覚めるはずなのだが、今日は彼の姿はない。
もしかしてベッドの外にでも落ちてしまったのではないかと探すが見つからない。
部屋の中を見渡した所で徐々に思考が冴えていく。
昨日は怒りに任せ部屋に戻ってきてしまったので最愛のペッドを食堂に置き去りにしてしまったのだ。
甘えん坊のベロスのことだからさぞかし寂しい夜になったに違いない。
部屋を飛び出し、ベロスを抱きしめたい衝動に駆られたが、鏡の自分の姿を見て、踏み留まる。
鏡面に映る少女は髪がボサボサで、おまけに口元には涎の跡がある。
いつもなら後回しにしがちな顔洗いも今日は疎かには出来ないのだから。
部屋の奥に備えられた水道で顔を洗うと、その位置のまま髪にブラシを掛ける。
長い髪は手入れが大変そうに思えるが、彼女の髪は違う。
数回のブラッシングでいつものようにストレートに整うのだ。
この髪を得るという理由だけでも魔王になりたがる女性は多いのではないだろうか。
「よしっ!」
鏡で出来栄えを確認し、彼女はやっと廊下に出ることを許される。
朝の廊下はひんやりとした空気により支配されており、誰の気配も感じさせない。
昨日までは、それが当たり前であった。しかし、今日はその廊下に変化があった。
匂いがするのだ。とてもいい匂いが。
出所は目的地の食堂だ。扉を開けると中から先ほど以上に良い香りと、
食欲をそそるようなジュウジュウという油の跳ねる音が聞こえてくる。
奥のキッチンには勇者の姿があった。彼は慣れた手つきでフライパンを振っている。
「ベロスがうるさかったんでな。勝手に使わせてもらってるぞ」
フライパンの中身は肉らしい。特有の良い匂いがする。
野菜のストックはあるが肉など取っておいた覚えはない。不思議に思っていると、
「ウサギを獲らせてもらったぞ」
ヴァロードはそう説明する。
「ウサギを? 可愛そうではないか――――」
「確かにな。だが、ベロスに野菜は酷だろう」
肉を皿にあげると、ベロスはヴァロードの足にすがりついて、餌を乞う。余程お腹が空いているのだ。
「雑食であっても、基本、獣の食事は肉だ。このままコイツを飼うなら覚えておけ」
皿を床に置くと、ベロスは解き放たれたかのように餌へと食らいつく。
野菜を与えた時と比べものにならない食欲に思わず見入ってしまった。
自分の気が付かなかった点を指摘され、不服と思ったが、
元気に餌を頬張るベロスを見て、そんなちっぽけな感情は薄れた。
「ほらっ、俺たちも朝飯にするぞ」
「あ、ああ」
ヴァロードに促され、少女はキッチンから出て、食堂のテーブルに座る。
すぐに料理が運ばれてくる。
机の上に並べられたのは生野菜のサラダとパンと炒めた肉。
自分が作った物とは違うメニューに思わす唾液が上がってくるのを感じた
。
「では頂こうとするか」
二人は向かい合い、食事を開始する。
少し経った所で少女が肉に手を付けてないことにヴァロードは気が付いた。
「嫌いなのか? 肉」
「いや、そうではないが、どうしてもウサギの顔が思い浮かんでしまうのじゃ」
肉になった小動物を見て、魔王は寂しそうな顔をする。
「まあ、生きる為には必要な事だ。時には殺しもな」
ヴァロードは彼女に遠慮することなく肉を頬張った。
「じゃが…………」
尻込みする魔王。このまま放っておいてもいいのだが、正面でしょげられては食が進まない。
「俺たちにできるのはこの身体を全部食べてやることだ。美味しく味わってな」
柔らかい口調で勇者は言う。
「そうじゃな…………いただきます」
納得したのか一礼し、オリビアも肉を食べ始める。
久しぶりの肉の味は美味しく、口の中でとろけてしまう。生命の味を感じながらも彼女は食事を終えた。
朝のゆったりした時間を過ごし、ヴァロードは食堂の窓から、朝の森を眺めていた。
この森は穏やかなことは窓から見える風景で分かる。おそらく魔性の者など一匹たりとも住んでいないのだろう。
椅子に深く腰掛け、眠りにも近い感覚で過ごす。こんなにゆっくりとした朝は久しぶりだ。
だがその時間も長くは続かないらしい。遠くからバタバタと足音が聞こえてくる。
「もうっ! ベロス! そんな泥んこの足で入っちゃだめっ!」
「みゅああああ!」
扉越しでも廊下の喧騒が聞こえてくる。どうやらベロスのお散歩は終了したらしい。
「こらっ! 大人しくしなさいっ!」
彼が廊下に出ると、少女がベロスを抱え、その足を拭こうと奮闘中だ。
余程、食事で元気になったのか、ベロスは少女の腕の中でバタバタと騒がしく動き回る。
「ひゃう!」
根負けした少女はベロスを放してしまう。そして子犬はヴァロードの足先へとすがりついた。
「むーっ、なんか悔しい……」
そう漏らし、彼女は勇者をひと睨みする。ヴァロードは思わず苦笑を漏らした。
「ヴァロード、準備は終えたか?」
「ん? 準備とは?」
急な問いにヴァロードは聞き返す。
「決まっておるだろう。街に行くのじゃ」
いつかは行くかと思っていたが、まさか昨日の今日とは思ってなく、ヴァロードは面食らう。
「何を驚いておる。昨日、言ったではないか」
「ああ、そうだが。正直、ここまで早いとは思わなかった」
「ほら膳は急げというじゃろ」
「急がばまわれとも言うがな」
「嫌じゃ。周り道は嫌いじゃ」
「はぁ…………」
言葉のやり取りに昨日以上の覇気を感じる。この様子だと以前から街に行きたいとウズウズしていたのだろう。
「で、どうなんじゃ? 連れて行ってくれるか?」
「分かったよ」
彼女に根負けし、ヴァロードは渋々と了承する言葉を口にする。
「やったっ!」
両手でガッツポーズを作り、彼女は笑みを浮かべた。
「そうと決まれば、こうしてはおれん! 妾も準備をしなくては。ベロスを頼んだ。あと、食堂の掃除と庭の花に水をやって、廊下は雑巾がけじゃ。頼んだぞ!」
了承もしていないというのに仕事を押し付けその場を去る少女。
取り残されたヴァロードはため息一つ付き、作業を開始するのであった。
魔王の言いつけ通り、家事をこなしていく勇者。これではまるで本当に家臣になってしまったとヴァロードは苦笑する。
だが、悪い気分ではないので、文句も無しに掃除を続ける。
食堂は毎日掃除をしているのか目立った汚れなどは見えない。廊下も同様だ。
それでもこの広いエリアを毎日掃除する労力は中々のものだ。
それ以前に掃除自体、魔王のするべき仕事ではないだろう。
「メイドでも雇えば楽になるのにな」
人間の感覚で、そう言うが、ここが魔王の城という事にすぐに気が付く。
どうやら半分ほど彼女が魔王であることを忘れているらしい。
様々な物事を頭に浮かべながら、ヴァロードは掃除を終えた。時間で言えば一時間ほどだろう。
だが肝心の監督が現れない。
「そうとう気合を入れているのか、アイツは…………」
悪い予感がし、ヴァロードは城の最上階の小部屋を目指す。
部屋の扉をノックすると、すぐに返事が返ってきたので遠慮なく部屋へと足を踏み入れる。
「ちょうど良かった。この服装はどう思う?」
彼女は自信満々で、自分の姿を誇示してくる。まあ、そんな気持ちになるのも分かる。
目の覚めるような深紅のドレスはとても映える。一言でいえばとても美しい。しかし――
「却下だ」
「なっ! なぜじゃ!」
せっかく選び抜いたドレスを否定され、彼女はショックで声を上げる。
「そんな高価なドレスなら、舞踏会にでも着ていくんだな。それよりも今日は――」
ヴァロードは部屋の奥まで入り、クローゼットを勢い良く開ける。
「わっ! お主、何を――――」
「こっちのほうを着ろ」
ヴァロードは掛けてあった服を無作為に選び出す。
どれも彼女の選んだものとは正反対の性質の質素な服である。
「これを着ろというのか?」
「ああ。そうだ」
「こんな……少し、いや、随分地味ではないか?」
出された服を指差し、彼女は不服を訴える。だが、ヴァロードは退かない。
「街では目立ち過ぎない方がいい。変な奴らが寄ってくるからな」
「しかし……せっかくの遠出だというのに……」
諦めきれない様子で彼女は鏡の前で自分のドレスを見つめている。
「まあ……どんな服装でもお前は魅力的で可愛いぞ」
「なっ!」
その言葉を聞き、ボフッと顔を赤くしてしまう魔王。
服を着せる為に言っただけの台詞だが効果抜群だったらしい。
「し、仕方がないなぁ。着てやろうではないか」
照れながらもそう言う魔王。その言葉を聞き、ヴァロードは廊下へと出た。
「むーぅ、やっぱり地味な感じがする…………」
部屋の中からはそんな不満声が聞こえてきたが、とりあえずは装着完了らしい。
了承を得て、部屋に入ると先ほどの姫の姿はなく、代わりに可愛らしい街娘の姿があった。
「ど、どうじゃ?」
シャツの上に春色のカーディガンを羽織った彼女。服装的には一気に庶民派に近づいた。あとは……
「これを被れ」
「うわっ!」
ヴァロードはそこにあった帽子を彼女の頭へと押し付ける。
「まあ、こんな所だろ」
完成系を見て、ヴァロードは頷く。
「本当にこんなもんで良いのか? おかしくはないか?」
不安げに姿見を見つめる彼女だが、おかしいもなにもここまで可愛らしい街娘をヴァロードは見たことが無い。
「まあ、まだ目立つが頑張った方だろう」
本音を言えば、もう少し地味地味にしたかった。彼女が一人で居れば変な虫が寄りつくだろうから。
まあそれを払うのは自分の役目だと考え、オーケーサインを出した。
「あとは……コイツを付けろ」
ヴァロードは懐からペンダントを取りだすと、彼女の掌に乗せる。
「ん? アクセサリーか……女物に見えるが」
「まあ、御守りみたいなもんだ。付けておけ」
青い宝石の付いたペンダントをまじまじと見つめる魔王。
ヴァロードがアクセサリーを持っていたことが余程不思議だったらしい。
「ほう。服装などにこだわらなさそうなお主がこんなものを持っているとはな」
「ある人からの借り物だ。無くすなよ」
「借り物? そんなものを妾が借りる訳には――」
魔王は勇者へとペンダントを返そうと押し付けてくるが、それを受け取ろうとはしない。
「いいから付けておけ。それを付けていないと街へは連れてはいけないぞ」
「ああ……そこまで言うならば」
怪訝そうな顔をしながらも彼女はペンダントを首へと通す。予想通り蒼色の宝石は彼女によく似合いそうだ。
「ん? 何じゃ?」
彼女は見つめるヴァロードに対して疑問を抱いたらしい。それを誤魔化すようにヴァロードは目を逸らす。
「ん? なかなか…………」
チェーンを引っかけるのが上手く行かないのか、悩んだ顔で頭の後ろに手を回す魔王。
「こっち向けてみろ」
「ん――――」
魔王は髪を上げ勇者へと背を向ける。白い首筋に出来るだけ触れないようにしてヴァロードはチェーンを止めてやる。
女性にこんなことをするのは何年ぶりだろうか。
「止まったか?」
「ああ。大丈夫だ」
正面を向かせ彼女の出来栄えを確認する。鎖は少々長いが、それを差し引いても良く似合っている。
「綺麗――」
鏡を見た魔王はそう小さく漏らした。
宝石に見入るのは勝手だが、これ以上続ければ鏡に吸い込まれてしまいそうだ。だからこそあえて水を差す。
「準備は出来たのか?」
「いや、後は持ち物を準備しなければ――」
鏡の前を離れ、バタバタと部屋の中を引っかき回す少女。どうやら出発の時間はまだまだ先になりそうだ。