夜想曲。スラムにて
夕刻。街に賑わいが戻ってきた。男たちが帰還したのだ。現場で貰った給金を握り締め、それぞれの帰路へ着く彼ら。
「お父さん!」
「おっ、ルシュ。迎えに来てくれたのか」
「うん」
先ほどまで疲れていた腕はその力を取り戻すように力強く娘を抱き抱える。
「もう晩御飯、作ってあるんだ」
「そうか。それは楽しみだ」
親子は夕日に染められた通りをスラムの方へと歩いていく。彼らだけではない。様々な人が帰るべき場所に戻っていくのだ。
「ダ、ダルクちゃん。こんな感じでどうかな?」
「ええ、良いと思います。後ろを向いてください。最後のリボンを結びますので」
「うん」
エレンは営業用の黒いドレスを纏い、裏方の部屋に控えていた。街に帰還してまっすぐバーに来る人も少なからずいる筈だ。さほど時間はない。着付けが行われている間にもエレンは「あー」とか「いー」とか、ノドの準備体操をしていた。
「終わりました」
「うん。ありがとう」
リボンを結び終え、ダルクは彼女から離れ、一礼をする。その仕草はまるで着付け師そのものだ。
エレンはカーテンを指で捲り、店内の様子を見る。ここまで響いてくる声で分かっていたが、結構な数の客が来ているようだ。
「うわぁ………ちょっと、ドキドキするかも」
言葉とは裏腹に彼女の表情は明るい。ワクワクする気持ちが上回っているのだろう。
「よしっ!」
気合を入れ、エレンは跳び出す。その姿を見るや否や、店中からは歓声が上がる。客たちの視線が集まる中、エレンは口を開いた。
前振りもない、唐突な歌い出しであったが、その圧倒的な歌唱力の前に男たちは言わずとも沈黙する。エレンの目的は明確だ。男たちが楽しめればいいということ。だからこそ長調な唄を選び、楽しげなメロディーを響かせていく。
彼女が口を閉じると、空気の震えは止まり、一瞬で店内は無音となった。そしてすぐに対照的な騒音に支配される。歓喜の声と拍手が響き、店の中は一層熱気に包まれるのであった。
エレンはインターバルを置きながら五曲ほど歌う。その頃には酒と唄で男たちは良い具合に酔っぱらっていた。
「はーい。ここで寝ちゃダメ! 明日からも仕事でしょ?」
「ああ。そうだな。ワシらは帰るとするよ。じゃあね、エレンちゃん」
酔い潰れる客も居ないまま、ゆっくりと夜の時間が流れていた。
カラーンっ
扉が開く音でそちらを見ると、女性が立っていた。彼女は店の中を見回し、エレンの顔を見ると、軽く手を振った。
「あっ」
すぐに女性のことを思い出し、エレンもその仕草を真似て、手を振り返す。
「こんばんは、エレンちゃん」
「こんばんは」
少し照れながらエレンは挨拶を返す。作業着から女性らしい服装に身を包んだ彼女の様子にエレンは少し見とれてしまう。
彼女はお酒を頼むとペア席の片割れに座る。これはエレンに座れということなのだろう。ちょうど休憩の時間だ。マスターに許可を取ることもなく、エレンはステージを降りる。
「素敵なドレスね」
「うん。お気に入りなんだ」
褒められたドレスを披露するようにエレンは一周回ってみせた。それから彼女の正面の椅子へと腰を下ろす。
「さてと、お酒飲もうかしら――」
女性はメニューを見て、カウンターに注文をする。すぐに二つのグラスが机の上に運ばれてきた。
「エレンちゃんも飲んでみて」
彼女は何の躊躇いも無く、エレンへお酒を進める。街や国でまちまちだが、子供は飲酒をしてはいけないという決まりがある。それを彼女が知らない訳はないのだが――まあ、それがエレンに当てはまるのかは疑問であるが。
「えっと、私、お酒の味、苦手で……」
「これは結構飲みやすいわよ。ジュースみたいなものよ」
「そう……なんだ」
エレンは口にお酒を含む。アルコール特有の風味と甘酸っぱい味が口の中に広がる。荒野の集落で飲んだ強酒とは比べ物にならないほどおいしい。
「あっ、おいしいかも……」
その言葉を聞き、彼女は上機嫌で笑顔を見せてくれた。ここでエレンに会話のチャンスが来る。
「あの、あなたのお名前は?」
重要な質問をする。昼間から一緒にいたというのに、彼女の名前を聞いていなかった。聞くチャンスが無いというよりは、聞けなかったのである。エレンが他人に対してこうも消極的になるのは珍しい。その理由が何故なのか、彼女自身すら疑問に感じていた。
「メリアよ。改めてよろしくね」
彼女は握手を求めてくる。それに応じるエレン。彼女の手はエレンより一回り大きく、温かかった。名前を聞いたことで少し緊張が解け、レディ二人だけの時間が始まる。
「メリアさんって、ダルゴンの人?」
「ううん。私は旅をしているの。世界をね」
「へぇー。じゃあ、私と同じだ」
他愛の無い話。メリアの、グラスを持ちお酒を飲む仕草はとてもサマになっていて、そのたびにエレンの目線を捉えて離さない。彼女はエレンやダルクには持ちえない大人の魅力というものがあった。
女のエレンでもドキドキするのだ。きっと男の人だったらイチコロだ。エレンはそんなことを思っていた。
「エレンちゃん。そろそろ歌ってくれないか?」
客が総入れ替わりをした所で、マスターはエレンへと耳打ちをする。
「えっと……」
話が盛り上がっているところなので、エレンはバツの悪そうな顔でメリアを見た。
「私は気にしないで。それに私も唄、聞きたいし」
しかし、彼女はそう言ってエレンを送ってくれた。
「うん。じゃあ行ってくる」
エレンは再びステージに上がり、唄を歌う。もう夜も深い。テンポの遅い短調な歌を歌う。
エレンの歌声はいつも通り、店の中の視線を独占する。そこにはメリアの分も含まれている。横目で彼女が聞きいってくれているのを確認しながら、エレンは歌い続けた。
「本当に良い歌声ね。すごいわ」
「えへへ。歌には自信があるからね」
数曲歌って席に座ると、再び会話が始まる。
メリアはニコル以上に色々な知識を持っており、今まで訪ねた国の様子などをエレンへと教えてくれた。
「メリアさん、一人旅で大変じゃない? 私はダルクちゃん居るから楽だけど」
「ダルクちゃん?」
「うん。私の親友。なんでもできるんだよ」
「へぇ…………」
「今、店の裏に居るから呼んでくるね」
「いいわよ。仕事中でしょ?」
「いいの、いいの」
彼女が遠慮するのを気にせず、カウンターの後ろの扉に押し入って、エレンはすぐにダルクを連れてきた。ダルクはエプロン姿で、その手には洗剤の泡が付いている。どうやら皿洗い中であったらしい。
「こちらはメリアさん。私たちと同じで旅をしているんだって」
「初めまして」
エレンの紹介にダルクは軽く会釈をする。
「あら、こちらのコも可愛らしいわね」
「そうなんだよ。ダルクちゃんってとっても可愛いんだよねぇ」
褒められたのがダルクであるのに、エレンは自分のことのように喜びを露わにする。
「…………私は仕事があるので、失礼します」
「えーっ? 仕事なんて放っておいて、お話しようよ!」
マスターがすぐ後ろにいるというのに場をわきまえないエレン。
「私はエレンとは違って給金をもらっているので、しっかりと働かないといけません。では」
正論を残してダルクは立ち去った。美女の登場に客の目線はダルクのお尻を追っている。
「あーっ! 行っちゃった…………ごめんね。ダルクちゃんっていつも、ああなんだよ」
お客同様にダルクの退場にエレンはため息を漏らした。
「良いわよ。気にしなくて。そろそろ私も帰るし」
「えーっ?」
エレンは残念そうに、立ち上がるメリアを上目使いで見上げる。
「お話ならまた明日にしましょ」
まるで子供に言うことを聞かせるように、メリアはゆっくりと柔らかな口調で言った。
「…………うん。分かった」
その言葉に効果はあり、エレンは残念そうにしながらも、彼女を見送るのであった。
それから深夜近くまで働き、彼女たちの仕事はやっと終わりになるのであった。宿屋に戻った彼女たちは深い眠りにつき、すぐに朝がやってくるのであった。