朝の憧憬
暗い部屋の中に光が射す。そろそろ時間だと思い、ダルクはベッドの方を眺める。そこには寝息を立てている少女がいる。少女はダルクが近づいたのに気づく素振りも見せない。良く見れば口元から出た涎が枕に小さな川を作っている。ダルクが少女の髪を撫でてやると、少し、くすぐったかったのか身体を揺らし、「ううん……」と声をあげる。このまま可愛い寝顔を眺めていてもいいのだが起こさないで怒られるのは自分なのだ。ダルクは彼女の耳元で囁く。
「起きてください。もう朝ですよ――」
「ううーん……あと五分……」
ベタな寝言を言い、エレンはうつ伏せになり動かなくなる。
「はぁ……」
思わずため息がこぼれた。一拍入れてダルクはエレンの頬っぺたをギュっと引っ張る。
「むぐむむむ……」
顔が変に歪むだけで起きない。
「起きないなら鼻に乾麺を詰め込みますよ」
「ひぃっ! そこは食べるための器官じゃないよ!」
ダルクの囁きにより、エレンはあっさりと身体を起こした。
「おはようございます」
「あはは、おはよう……」
エレンは冷や汗をかきながらダルクへと挨拶をする。その手は乾麺が詰め込まれていないか確認するためなのか鼻に行っていた。
「では、私はケンブスの世話をしてくるので、エレンはごゆっくり――――」
「あっ、今日は私に任せてくれない?」
部屋を出て行こうとするダルクをエレンは止める。
「たまには私が世話するから、ダルクちゃんはゆっくりしていてよ」
「ですが――――」
「いいから、いいから!」
そう言うとエレンは素早く着替えを済ませ、ケンブスの世話用品の入った鞄を持って部屋を飛び出してしまった。朝から本当に元気だと感心し、ダルクは彼女を見送るのであった。
エレンの足は宿からすぐの牧舎に向かっていた。大きな木の扉を開けると中からは獣の匂いと藁の匂いが漂ってくる。来客が来たのに反応し馬たちは一斉に入口の方を見る。どの馬も自分の主人が来るのを待ちわびているのだろう。
「おはよう。ケンブス」
エレンは牧舎の中にいる、ひと際身体の大きな黒馬に話しかける。しかし、ケンブスは無反応で頭を垂らすだけだ。
鍵を使い足の鎖を外すとエレンはケンブスを外の井戸まで連れて行く。水を汲み、布を浸し身体を拭いてやる。
「ほらっ、ケンブス。大人しくしなさいっ!」
エレンに拭かれるのが嫌なのか、ケンブスは身体を揺すり、それを拒む。
「はぁ……そんなに嫌わないでよ……」
悪戦苦闘。汗をかきながらもエレンは何とかブラッシングを終え、餌を出してやる。今日の餌はニンジンだ。餌が出た途端、ケンブスは自分から餌の入ったバケツに首を突っ込み食べ始める。
「もうっ、食事は素直に取るんだから……」
半ば呆れながらも、エレンはケンブスの食事の様子を見守っていた。良い食べっぷりを見ているとこっちまでお腹が空いてくる。生ニンジンをかじってみようとバケツに手を伸ばすが、ケンブスに鼻先で小突かれた。どうやらおこぼれは貰えないらしい。
食事を取らせた後、エレンは街の外までケンブスを連れ出していた。鞍を付け、そこに跨る。
「ほらっ、ケンブス。ゴーっ!」
両足を腹へとぶつけるエレン。しかしケンブスは走りださない。そればかりか暇だと言わんばかりに欠伸をしている。
「ほらっ、走ってよ!」
半分泣き顔になりながらケンブスを走らせようと腹を蹴り付けるエレン。だがその思いは伝わらないみたいだ。命令を出していないのに、しゃがみ込んでしまった。
「なんて馬だ…………」
エレンが諦めかけた瞬間、ケンブスはいきなり走り出したのだ。しかしそれはエレンの目指していた方向と逆、つまり街の方へと――――
「ちょ、ちょっと、ケンブス!」
手綱を引き、制止しようとするが、まったく止まる気配はない。ただただ振り落とされないように、その胴体にしがみ付いた。
「ストーっプ!」
その声にケンブスは急ブレーキ。
「きゃっ!」
その反動でエレンは吹き飛び、道端の草原へと落馬する。
「いたたぁ……お尻ぶつけた……」
彼女が視線をあげるとケンブスが誰かの手に頭を擦りつけている。この人を目当てにケンブスは走り出したのだろう。
「エレン。大丈夫ですか?」
「やっぱり…………ダルクちゃんか」
エレンはお尻を撫でながら差し出された手に掴まり身体を起こす。
「ケンブス。それを贔屓って言うんだよ!」
エレンの言葉にも黒馬は反省の色を見せない。「ブルルル」と口を鳴らし、エレンを馬鹿にせんとする様子だ。
「はぁ……どうして私には慣れないんだろう?」
ケンブスの尻をピチピチ叩きながらエレンはそんな愚痴を零した。
「ケンブス。エレンを乗せて少し運動してきなさい」
情けないエレンを見て同情してくれたのか、ダルクはそう言って手綱を渡してきた。そうすると不思議なことに馬は素直にエレンを乗せる仕草を取るのだ。
「なんか、納得できないな――――まあいいか」
エレンは手綱をしっかりと掴み、馬を走らせる。
「うはっ、いいねぇ!」
テンションを上げ叫ぶエレンを乗せ、漆黒の馬は荒野の道を走っていった。朝方の冷たい空気が頬にぶつかり、痛いくらいだ――――だが、その感覚もまた気持ち良かった。
疾走はエレンとケンブスが満足するまでしばらく続いた。
朝のひと仕事を終え、朝食を食べるためにエレンとダルクは繁華街の方へと足を運んでいた。朝市をやっているのだろうか。街のあちこちから活気づいた男たちの声がする。
「やっぱり都市は活気があるよね」
「はい」
エレンはあたりをキョロキョロしながら、出店を覗きまわった。その結果、ダルクとエレン二人体制でも抱えきれないほどの朝食を買うことになってしまったのだ。原因はもちろんエレンの食欲にある。二人はストリートに面する広場の一角に腰を降ろし、食事をすることにした。
「エレン。少し気をつけ下さい。こんな調子じゃ破産ですよ」
「あ――――ごめん。ごめん、つい、ね」
そう言いながらもエレンは満足そうな顔で朝ご飯であるサンドイッチをかっ込む。
朝の大通りには様々な人がいる。仕事に向かい足早に走る青年。道端で挨拶をする主婦。鞄を抱え学校に行くであろう子供。その様子をエレンはぼーっと眺めていた。
ふと気がつくと、足元で何かの鳴き声がする。いつの間にやら猫が集まってきていた。
ダルクは自分のパンを千切ると数匹の猫に順々に与える。笑いはしていないがその表情はいつもより暖かく思えた。
「なんでしょう?」
ダルクが不思議そうな顔をして横を見てくる。見つめるエレンが何か用があるかと思ったのだろう。
「いやぁ、今のダルクちゃん、可愛いかったなぁって」
エレンはニコリと笑顔を見せ、そう言う。
「可愛い――ですか?」
だがダルクは首を傾げる。
「うん。ダルクちゃん。笑ってたし」
またまた首を傾げる。ダルクは自分がどんな表情をしていたのか気が付かなかったのだろう。
「おいでー!」
猫に手を差し伸べるエレン。
シャーッ! エレンの手が出たところでそこにいた猫が一斉にエレンに威嚇の声をあげた。
「はぁ、猫にも嫌われてるよぉ……」
エレンは肩を落とし、片手にあるスペアリブに食らいついた。