衝動と願望
暗い路地を歩く二人。しかし、その足音は二つではなかった。近づく気配に気づいた時、エレンの身体は暗闇へと引っ張られていた。
「きゃっ!」
「エレン!」
悲鳴を聞き、振り返る。途端、頭に激しい痛みが走った。
「ガキは黙ってろぉ!」
それは男の声であった。地面に倒れながらも状況を把握しようと、ジョシュは二つの眼で暗闇を見渡す。男は二人組らしい。一人は拳を構え、自分の目の前に立っている。そしてもう一人はエレンをはがいじめにしているのだ。巨漢なだけあり、細身のエレンとの体格差がはっきりと見えた。
「クックック……探したぜ」
男はエレンの耳元で不敵に笑った。その声にエレンは聞き覚えがある。
「もしかして昨日の――?」
「ああ、覚えていてくれて嬉しいね!」
男はエレンの腕にさらに力を籠める。
「あの女にやられた傷の代償をお前に払ってもらうぜ――――身体でな」
男は頭の包帯を指しながら、いやらしく笑う。
「エレン、逃げろっ!」
エレンが何をされるかは分からない。しかし、それが彼女を傷つける行為であることをジョシュは瞬時に感じ取った。地を蹴り、男の下半身に体当たりする。自分では渾身の力を込めたつもりだった。しかし――――
「うるせぇ!」
男はたじろぎもしない。お返しと言わんばかりにジョシュは腹部に蹴りを入れられた。
「うぐっ…………」
想像以上に息の代わりにうめき声が出た。
「ジョシュっ! ちょっと、乱暴しないでよ!」
エレンは男の腕の中でひたすら暴れるが男は手を放そうとはしない。
「運が悪かったと思うんだな」
男がエレンの胸部に腕を伸ばした瞬間――男の身体が消えたのだ。少なくともジョシュにはそう見えた。
エレンは一瞬の隙を突き、男の手から下へと脱出し、肘で男の脇腹を抉ったのだ。その威力に男は壁に叩きつけられ白目を向く。
あっけに取られるもう一人の男のことも忘れてはいない。彼女は地を蹴り、一瞬にして距離を縮めた。そして鋭い掌手が男の胸元に突き刺さる。その身体は人形のように路地のごみ袋を散らして滑っていった。
二人の屈強な男に何が起こったのかジョシュは理解できなかった。辛うじて分かった事はエレンが男たちを倒したという事実だけだった。
「あーあ。服が皺になっちゃったよ」
当のエレンは平然とし、服の皺を伸ばしそんなことを言う。ひとつの動作が終わった所で彼女はジョシュに手を差し伸べる。
「ジョシュ。怪我は?」
「う、うん。大丈夫……」
「そっか。よかった。立てる?」
エレンはまるで何もなかったような表情をしている。そんな少女を見てジョシュは彼女の印象を改めた。さっきまでは能天気な変わり者だと思っていたのに、今は目の前の彼女に恐怖すら感じるのだ。気持ちの変化を悟られる前にジョシュは立ち上がり、「行こう」と一言、言った。
二人は足早に路地を歩く。いや、早くなっているのはジョシュだけでエレンはいつも通りマイペースな足取りをしている。妙な沈黙を嫌い、ジョシュはエレンへと質問を投げかける。
「エレン、強かったんだ……」
「んー。それなりにね」
質問にもなっていない問いにエレンは誤魔化すことなく答える。だが答えは抽象的だ。〝それなり〟というのがどの程度かはジョシュには見当も付かないからだ。魔族と戦える程度? それとも人を殺せる程度?
その時、自分の思考の中にある考えが浮かんだ。本当は口にしてはいけないのかもしれない…………こんなことは。しかし、同時にある少女の顔が思い浮かんだのだ。
「さっき、〝できることがあったら言って〟って……言ったよね」
ジョシュは足を止めて少し小さな声で囁く。
「うん。そうだよ」
「じゃあ……」
「えっ?」
エレンは耳を疑った。子どもと思えないほどの冷たい声で囁かれた言葉に。
「えっと……ジョシュ……今なんて――?」
「だから、ある人を殺してくれって言ったんだ」
彼の声も表情からも冗談じゃないことが分かったらしい。こんな小さな子供でも殺意を持つのか――エレンはその事実に驚いて言葉を失っていた。
ジョシュはエレンをまっすぐと見つめる。しかし彼女の瞳は彼の怒りを受け流すように笑った。
「だめだよ。ジョシュ。そんなこと言っちゃ」
当然のようにエレンはそう諭す。だが、ジョシュは諦めない。その瞳の色は強い。
「なんで? あの男のせいでルシュはあんなに苦しんでいるのに――――」
少年の悲痛な叫び。エレンは少し表情を曇らせる。痛いほどの彼の思いが伝わったのだ。しかし、その悲しそうな表情はすぐに柔らかくなる。
「聞くよ? ジョシュ? 私でよかったら理由を教えてくれない?」
ルシュの事は誰にも言わないつもりだった。どうせ言っても大人たちは助けてくれない。そう思っていたから。けれど、エレンの言葉は頑なに心を閉ざしたジョシュの胸に突き刺さった。少年は思うのだ。この人にならば、何かしてもらえるのかもしれないと。
淡い期待を胸にジョシュは息を整える。そして口を開き始めた。
「ルシュは父親に虐待されてるんだよ……」
親からの虐待――――それは子供にとっての地獄だ。
「あいつの父親が死ねば……ルシュも孤児院に来れるんだ……だからっ――」
それは子供の浅知恵。けれども彼の思いは十分エレンに伝わっていた。だが、エレンは首を縦に振る事はしなかった。
「ジョシュ。どんなに悪い親でも、ルシュにとってはお父さんなんだよ? だから〝死ねば″なんて言っちゃダメ」
エレンは心からの言葉を彼に言い聞かせる。それはエレンにとっての言葉でもあるのだ――――
「だから、ね?」
感情を吐き出し泣きそうになるジョシュをエレンは抱き寄せる。
「うっ……うう……」
その温かさでルシュの心のダムは呆気なく決壊した。彼は声を抑えながらもエレンの中で涙を零した。
「ただいまー」
エレンは声を上げ、孤児院の扉を開ける。先ほど子供の声で溢れかえっていた様子はどこに行ったのか、部屋の中は静寂により支配されていた。
「お帰りなさい。エレン」
お迎えのダルク越しに談話室の様子を覗く。どうやら子供たちは部屋の中にちゃんといるようだ。
「ダルクちゃん? 何して遊んだのかな? これ?」
中の子供たちは妙に暗い顔をして俯いている。子ども特有の元気を出す者はひとりもいない。
「いえ、いっしょに〝遊んだ″だけですよ」
表情を変えずに言うダルク。しかも〝遊んだ″というフレーズを妙に強調して来ている。そんな理由もあり、エレンは何をして遊んだのか怖くて聞けなかった。
帰り道、今日も暗い道を通り宿へと戻る。子供たちには泊まって欲しいと、せがまれたのだが、こうしてちゃんと宿へと戻っている。とは言ってもエレンは先ほどまで泊まる気満々だったのだが――
「ケンブスが機嫌崩しますよ」
そのダルクの言葉でエレンは宿へと戻ることに決めたのだ。ただでさえ朝夕二食と限られた食事なのだ。遅くなれば愛馬は怒るだろう。抜きになんてしたらそれこそ絶縁ものだ。
まあ、しかたがないと、エレンは諦める。それに明日はスラムに予定はないのだから。
「ねえ、ダルクちゃん。明日からの予定、決めたから」
「そうですか」
ダルクはエレンの言葉に静かに頷いた。