夜の密会
「エレンは僕の隣に座るの!」
「えー! 私の隣!」
「まーまー。落ち着いて」
お祈りの時間の後、食事を貰うことになったエレンだが、夕御飯の席順を巡って子供たちのバトルで食堂は異様な熱気に包まれていた。
「まるでヒーローですね」
「あはは。そうだね」
苦笑するエレン。どこでもいいから早く食事をしたいと思うのがエレンの本音だ。そんな彼女の眼には、一人の男の子の姿が映っていた。それは昼間バスケットを盗んだ男の子だった。
彼は祈りの時間も食事でもつまらなさそうな顔をしているだけで、ずっと独りで居たのだ。
「よしっ、決めた!」
エレンは立ち上がるとその子の隣へと腰掛けた。
「ここで食べていい?」
男の子へと話しかけるが返事はない。しかし嫌われている様子もないのでエレンは立ち去らず、その場へと留まった。
「えーっ!」
他の子供たちからブーイングが上がる。
「ほらっ、第二ラウンド! ダルクお姉ちゃんを取り合いましょう!」
「えっ…………」
子供たちはお互いに顔を見合わせて、困惑の表情を浮かべている。一瞬のうちに静かになった食堂にダルクの大きなため息が響くのであった。
食事の前の祈りが終わり、ついに食事が始まる。子供たちはその旺盛な食欲で出てきたパンに食らいついていた。エレンも負けずにパンに噛みつく。しかしエレンの隣の子はそうしない。お腹が空いていないのだろうか?
「ねえ、食べないの?」
そう聞いても答えは返ってこない。
「じゃあもらっちゃおうかな――いたっ!」
エレンが冗談めいてその子のパンを取ろうとすると手の甲に痛みが走り、手が宙で撃ち落とされる。
「触るなっ!」
男の子は敵意をむき出しにし、エレンをにらみ返す。その迫力に思わず目を丸くしてしまう。
「こらっ! ジョシュ!」
院長先生は彼を叱ろうとするが――
「あっ、今のは、私が悪いんです」
そう言いエレンは怒声を遮った。
食事の時間は続くがその子はスープには手を付けてもパンに手をつけることはなかった。ここで気がつくのだが、この食堂に昼間のもう一人の子がいないのだ。
「ジョシュ。昼間の女の子は?」
「…………」
彼は答えない。しかし表情に微少の変化があったことをエレンは見逃さなかった。
「あの子もこの辺りの子?」
「…………」
それからも何度も会話を試みるが、彼は口を開くことはなかった。
食事が終わってもエレンはジョシュのことが気になっていた。彼は他の子に交わらず、談話室の端の方でずっと何かをしている様子だった。
「ねえ、みんな。ジョシュを混ぜようよ」
ふと提案してみるエレン。お節介かもしれないが、この状況はジョシュが仲間外れにされているようで彼女にとっても居心地が良くはなかった。
「ジョシュ君は混ぜたくない」
子どもたちは口々にそう言う。素直にそういうことを言うだけ子供は残酷だ。
「それより、エレン。お唄を歌ってよー!」
「う、うん…………」
エレンは彼のことを気にしながらも子供たちと戯れるのであった。
ふとした瞬間に彼が部屋を飛び出した。立ち上がる前に時計を少し確認した動作がエレンの目には焼き付いていた。
「みんなごめん。少し出かけます!」
「えーっ! こんな時間に?」
唄の途中という事もあって、子供たちからはブーイングが上がる。
「続きはダルクちゃんと遊んでね」
「ええっ!」
そう言い残し、エレンは部屋を飛び出す。もちろん彼を追うためだ。
「さて、何をして遊びましょうか」
エレンの命を受けてダルクはゆっくりと立ち上がり、子供たちの前へと座る。途端に騒いでいた男の子は静まり、前列で胡坐をかいていた女の子は急にスカートを抑え、姿勢を正座に正すのであった。
「エレンさん」
玄関を飛び出す直前。彼女はシスターの声に足を止めた。
「ジョシュを追うのですか?」
「はい」
「ではこれを……」
彼女はエレンにナプキンを渡す。その不可解な膨らみの上から布地を触ってみると、柔らかい。めくってみるとその中にパンが入っていた。
「えっと、これは?」
「彼に会ったら渡してください」
この人はジョシュのことを何か知っているのだろう。彼を動かす理由を聞きたかったのだが、そんなことをしていては見失ってしまう。エレンはそのナプキンを受け取ると急いで彼の後を追った。
夜のスラムは危険だ。子供や女が一人で歩く場所ではない。しかし、エレンの足は怯むことなく進んだ。ばれないように――彼の姿を見失わないようにエレンは小さき背中を追うのだ。ダルクほどではないが、彼女も気配を消すということを心得ていたので、ジョシュがエレンに気がつく事は無いようだ。
暗い路地を数本入ったところでジョシュは足を止める。そこは道と道がぶつかる少し拓けた空間になっていた。その道に置いてある木の箱の上に少女が座っていた。昼間ジョシュといたあの子だ。こんな夜に一人で何をしているのだろうか?
「おまたせ、少し待った?」
「うん。いいの」
ジョシュは懐から何かを取り出す――それはパンだった。おそらく夕方に出たものだろう。
「ありがとう」
少女は余程お腹が減っていたのか、すぐにそのパンを口の中に運んでしまう。
「ルシュ……痣が出来てる……」
彼の声でエレンも気付いた。彼女の顔には昼間にはなかった大きな青痣が出来ているのだ。あどけない少女の顔に浮かぶその印はずいぶん痛々しい。
「またあの男にやられたのかっ?」
声を荒立てる彼にルシュと呼ばれる少女はコクンと頷いた。怒りを露わにするも、ジョシュは力なく肩を落とした。空いている木箱に腰を下ろし、ルシュを見つめる。まもなく二人だけの密話が始まる。内容は他愛ないものだ。ジョシュの口からはエレンのことについての話題も出た。彼は話題の当人が近くに居る事にまったく気づいていないのだろう。
秘密の会話に第三者の自分が居る事に罪悪感を覚えながらエレンは二人の幼子を見守り続けた。
「そろそろ、帰るね……」
その会話を切ったのは少女の方だった。彼女は小さく手を振ると暗がりの路地の方へと消えていった。ジョシュは少しがっかりした様子だったが、ルシュの去り際の笑顔を見て、呼び止めの言葉を喉の奥へとしまい込んだらしい。「また明日」とだけポツリと言い木箱から腰を上げる。
「ジョシュ」
ルシュの姿が完全に消えてから、エレンはジョシュの前へと姿を現した。
「っ! お前!」
尾行されていた事を知ったジョシュは険しい表情でエレンを睨む。
「ほらっ。お腹空いたでしょ? 院長先生からの贈り物だよ」
彼の怒りを受け流すかのようにエレンは彼にナプキンにくるまれたパンを渡す。それを確認すると彼はエレンを邪険することをやめ、そこにあった木箱に再度腰を下ろした。
「笑いたいなら、笑えよ」
エレンはその台詞を聞き、彼が何を言っているのか分からなかった。
「毎日自分の夕食を分けてやるお人好しだって……」
ジョシュは自嘲しながらそう言った。確かに。こんなスラム街で自分の食べ物を分けてやるなんていうのはありえない行為なのだろう。それでもエレンは彼を笑うことはしなかった。
「ジョシュは優しいんだね」
そう言って彼の頭を撫でてやる。
「だって、私なら空腹なのに人に夕飯譲るなんて事はできないもん」
そう言い、エレンは勢い良く木箱へと腰掛ける。子供たちとは違い、木箱は小さく軋んだ。そして、鈍い音を立てて、崩れてしまう。もちろん体重を預けていたエレンのお尻も地面へと引き寄せられてしまう。
悲鳴と木箱の崩壊の音に思わずジョシュは目を瞑ってしまった。
「あたたた…………ともかく、私にできることがあったら言ってね」
箱にお尻がはまったまま、エレンはそんな台詞を言う。恰好も付かないその言葉だが、エレンは本心で言ったのだ。
ジョシュはクスリと笑った。自分の言葉、あるいは自分の現状を笑ったのかはエレンには分からない。しかしジョシュは先ほどよりも良い顔をしている気がする。
「お前、本当に変な奴だな」
「よく言われるよ」
木箱の残骸をはたき落としながら、エレンは苦笑する。
「あのさ、さっきの子。この近くの子?」
「うん。そう――――ルシュって名前」
質問の答えが返ってきた。これは一歩前進だ。エレンはさらに核心に踏み込むように問いを投げ掛ける。
「痣が出来てたけど、どうしたの?」
「さぁ……」
彼は口を閉ざす。目線は泳ぎ、質問者を見ることはしない。その態度は嘘をつく子供のものだ。彼の口から話せないことなのだろう。だからこそエレンは無理やり聞き出そうとはしない。
「今度、ルシュも誘いなよ。一緒に唄でも歌おう」
笑顔で誘いをかけた。
「うん……」
エレンの一言に彼は少し明るく返事をしたような気がした。
「それじゃあ、帰ろう。夜はこわーいオバケが出ちゃうんだぞ」
「そんな訳ないだろ。子供じゃあるまいし、信じるかよ」
頬を膨らまし、ジョシュはエレンの前を歩き始める。その足取りからは「オバケが出ても俺が守ってやる」と聞こえてきそうだ。
小さな騎士さんの背中をエレンは頼もしそうに眺めるのであった。