スラムと孤児院と盗人少年と
次の日の朝、エレンは珍しく早起きをし、ある準備をしていた。昨日バザーで買ってきたパンに野イチゴのジャムを挟み、それを二つ折りにする。
不格好に具材を詰める彼女の様子をダルクは縫物をしながら見守っていた。
「よしっ。お弁当完成!」
エレンは弁当箱をバスケットの中に詰め込み寝巻を脱ぎ始める。さっそく外にいくつもりなのだろう。ダルクは手慣れた手つきでドレスをエレンへと差し出す。エレンのお弁当完成宣言が飛んでくる前に〝ほつれ〟の修復は終わっている。
「さあ、ダルクちゃん! 行こう!」
朝一発目の大声を合図に二人は宿を後にした。
昨日のルートを通ってエレンはスラムの広場へと足を運んだ。広場には数人の大人がおり、何か会話をしているようだ。エレンはそこに荷物を置く。
何をするか興味本位で見る人もいれば、荷物を盗む隙を窺っている人もいるのだろう。警戒心を持ち合わせないエレンの代わりにダルクは周りの様子を繊細に感じ取るのだ。
「よしっ、頑張るぞ」
誰に宣言するでもなくエレンは叫び、そして歌い始めた。いきなりのことでぽかんと口を開けている人もいる。しかし彼女はそんなことを気にせず歌い続ける。エレンの唄は朝一番とは思えない程透き通っている。朝の少し凍えた空気を通し、耳に入ってくる唄はとても美しい。彼女ほど唄が上手ければ、立ち止まって聞いてくれる人も必ずいた。大きな街で歌えば、人だかりができるほどだ。しかし、ここの人々はそうはしなかった。こちらをチラ見するだけで、足も止めてくれない。歓声や拍手などは無く、空間にあるのは唄声だけ。それだけではない。エレンを一瞥する人々。その瞳には黒い感情が宿っていることにダルクは気づいていた。
「お嬢ちゃん」
唄の合間の小休止に老人が近寄ってきた。
「はい」
エレンは元気よく返事をする。いつものように唄に興味を持ってもらったとでも思ったのだろう。しかし老人は明るい表情をしてはいなかった。
「悪いことは言わん。唄を歌いたいなら街のほうでやるんじゃな」
「えっ?」
そう言い残すと彼は足早にその場を去ってしまった。
「どういう意味だろ……」
老人の言葉の意味をエレンは考え込む。しかし、その真意に彼女は気付けなかった。答えが分からないまま、唄を歌うことを続けたのだ。しかし、お昼まで歌い続けてもエレンの唄を聞いてくれる人は誰も現れなかった。人通りがあるのに、ここまで唄を聞いてもらえなかったのは初めてである。
「ああ、ちょっとショックかも……」
〝まるで道端の小石になったようだ〟ともエレンは溢した。落ち込んだように地べたに座わり、広場の中央に生えている多年草を見つめている。
「まあ、こんな場所ですから落ち込まずに」
「でも――――」
その時、ふと後ろを見ると女の子がそこにいた。十歳ぐらいだろうか。薄汚い服を着ている事からしてスラムの子だろう。彼女は少し警戒した様子でエレンへと近付いてくる。いち早く少女に気付いたのはダルク。そして少し遅れてエレンも目線を彼女へと向けるのだ。
「なに?」
その子の目線に合わせるようにエレンはしゃがみ込み話しかける。久々の来客にエレンはニヤケ顔だ。
「えっと…………あの…………」
刹那――彼女は踵を返し走り出したのだ。
「えっ?」
「エレン後ろです!」
エレンが振り向くと、自分の足元にあったはずのバスケットが無くなっていた。遠方にバスケットを抱える、少年の姿が捉えられる。
「あーっ!」
エレンは叫びをあげる。しかし、そうしている間にも男の子は広場から姿を消してしまう。
「っ!」
エレンは目線を戻す。隣に居るはずのダルクが逃げようとする女の子の襟首を捕まえ、自分の方へと引き寄せる様子が目に入った。その手つきは乱暴だ。
「離してっ!」
じたばたする女の子をダルクは抱える形で抑え込む。その顔には何の感情は浮かんでいない。だからだろう。エレンの目にはダルクが少女を絞め殺してもおかしくないように映ったのだ。
「ちょっと、ダルクちゃん。暴力は――――」
「この子もさっきの少年のグルですよ」
少女はまだダルクの腕の中で暴れていた。しかし、一向にダルクの力は弱らない。逃げられないと分かると、その顔は泣き顔へと変貌していった。
「うわぁぁぁぁ…………ご、ごめんなさい……」
ついに泣きだしてしまった。だがダルクはその子を許してあげる気配はないようだ。冷徹な目で少女を睨んでいる。こんな表情をされたら子供なら誰でも泣いてしまうだろう。
「ダルクちゃん。降ろしてあげて」
エレンに言われ、ダルクは腕の力を弱め、彼女を地面へと降ろした。しかし、逃げられないようにと、その子へ目配りすることは忘れていない。
「えっと、大丈夫?」
さすがに同情し、泣く子供の頭を撫でるエレン。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
少女は謝るばかりだ。瞳と目の周りはウサギのように赤くなってしまっている。余程、〝無口のおねえちゃん″が怖かったのだろうか。
「まんまと盗まれましたね」
「うん……そうだね」
アハハとエレンは乾いた笑いを洩らす。あのバスケットには昼ご飯が入っていただけに少しショックではあった。
「この子をお昼御飯にしますか?」
「ひぃ!」
ダルクは冗談とは思えないトーンの声でそんなことを提案してくる。少女は恐怖を覚え震え始める。きっと彼女の言葉を真に受けてしまったのだろう。
「もう、ダルクちゃん!」
エレンはダルクを一喝すると、その子の目線まで腰を下ろす。
「もう盗みなんてやっちゃダメだよ」
そう言ってエレンは少女を解放してやった。少女はこちらに目もくれずに走り去ってしまう。
グぅ――タイミングを計ったようにエレンのお腹が鳴った。
「あはは。お昼どうしようか」
はぁ、とダルクは本日一回目のため息をつくのであった。