スラムの聖域
スラム街の中は暗く、どこかジメジメした印象を受ける。道の脇には壊れかけの廃屋が並ぶだけで何も無い。先を行く少女もそれに気が付いたのか、先ほどまでとは違い、表情は曇り、足取りまでもが重くなっている。
「エレン。言いましたよね? 何も無いって」
「そ、そんなことないよ! 何かしらあるって!」
エレンはそんな言葉を発したが言葉はどこか弱々しい。大方、〝何かある〟と言った手前引き返せないとでも考えているのだろう。
「そうですね」
ダルクはそう言い、彼女の後ろを黙って歩く。ここで何か言ったら意固地になって本当に何かあるまで歩き続けると彼女は分かっていたからだ。だからこういう場合は彼女が飽きるまで付き合ってやるのが一番の方法だとダルクは知っていた。それがいつになるのかは分からない。しかし、時間など腐るほどあるのだ。ダルクは文句も言わず、無言で少女の後ろを歩くのだ。距離は付かず離れず一定を保って。
しばらく狭苦しい通路を歩いていくと、ふと二人の男の姿が目に留まる。どちらもボロきれのような服を纏っている。その身なりからスラム街の住人だろう。エレンが二人の横を通り過ぎた時――――
「おっと、お譲ちゃんたち。ちょっと遊んでかない?」
男の一人が手を出し、エレンを呼び止める。どうみてもナンパだろう。
「えっと……こういう時はどう言うんだっけ?」
「はぁ?」
エレンはその場で何か思い出す仕草を見せる。急に取ったエレンの行動に男も頭に疑問符を浮かべているようだ。
「そ、そうだ。〝おととい来やがれ! このヤロー〟だ」
彼女は台詞を思い出せてスッキリしたような顔をしている。この台詞をダルクは聞いたことがあった。確か幾分前に訪れた街でやっていた劇で、男に絡まれたヒロインが言った台詞だ。といってもそのヒロインはエレンの様な可憐な容姿ではなく、屈強な戦士の様な人物であったが。
「で、どうだい? 俺たちと遊ぶの?」
男はエレンのひねり出した台詞を無視すると話を路線に戻そうとする。
「あれ? こういうセリフを言うと、悪者って去っていくんじゃないの?」
「それは劇中だけだと思いますよ」
「そうなの? はぁ……折角、思い出したのに」
エレンは肩を落とし落胆する。
「ちょっと、お嬢さん方、無視しないでくれる?」
流石の男たちも呆れ顔だ。
「えっと、夕飯近いし、遊ぶのはちょっと無理かな?」
エレンは正論を言って、その場から去ろうとする。しかし男は腕を壁に当て彼女の行く手を阻む。その顔には不気味な笑みが広まっている。
「何か用?」
エレンはキョトンとして疑問符を相手へとぶつける。
「みすみすこんな可愛い子たちを逃がす俺らじゃないんでね」
男はそういって欲にまみれた視線でエレンを見た。
「やったっ! 可愛い子だって。褒められちゃった」
「そうですね」
ダルクはため息をつき、エレンの言葉を流した。
「ってことで――」
前の男がいきなりエレンの肩を掴み、そのまま壁へと押し付けようとする――――
その瞬間だった。鈍い音が暗い通路へと響き渡るのであった。その音源は男の体であった。エレンに手が伸びる寸で、ダルクが男の腕を掴み、投げ技の要領でそのまま地面へと叩きつけたのである。
「っ! このっ!」
一瞬躊躇ったが、もう一人の男は懐に手をいれ、何かを取り出す。鈍い光を放つ刃渡り数センチのナイフだ。男はダルクに向かって、ナイフを振る。しかし、彼女の体に当たる前に男の持っていたナイフが宙へと舞い上がる。
男は何が起きたか分からなかった。ただ目の前にあるのは翻るスカートとそこから出た長い脚――――そして、顎下からの重い衝撃に男の体は後ろへと吹き飛ばされた。
「おおっ、スカートでハイキックとは」
エレンは興奮気味にそんな言葉を漏らしていた。
「さ、行きましょう」
ダルクはスカートの埃を軽く払うと、エレンの前に出て、通路を進んで行く。その足取りは何事も無かったように軽やかであった。
ひたすら薄暗い路地を歩く。しばらくすると寂れた通りへとたどり着いた。崩れた外壁の住居。人はいなく、不気味なほど静かだ。しかし、感じる…………人の視線を。誰かに見られているのだろう。ダルクは警戒心を強めながらもエレンの後ろを歩く。
エレンはふと足を止めた。そこには古ぼけた外観の教会が佇んでいた。ステンドグラスは割れ、女神の像であっただろう石は半分以上が欠けて、その威厳すら無くなっている。聖なる場所である教会ですらこの有様――ここは信仰ですら救えない場所なのだろう。
エレンは静かに教会のほうへと近付く。どうやら興味が出てしまったらしい。彼女は手でゆっくりと扉を押す。
古い木特有の軋んだ音が鳴り、中から冷たい空気が流れてくる。教会の中は薄暗く、ステンドグラスから差し込む光で何とか内装が見える程度。内部には粗末な長椅子が数組と祭壇があるだけだ。祭壇の後ろにある女神像も形さえ分かるものの、美しいと思える代物ではなかった。
「何かご用でしょうか?」
声の方向を向くとそこには初老の女性が立っていた。服装からしてここのシスターなのだろう。
「えっと、用はないんですけど――もう少し見ていても大丈夫ですか?」
「ええ、構いませんよ」
「ありがとう」
エレンは最前列の長椅子へと腰を掛け、祭壇の方を見上げる。先ほどより少し傾いた夕方の淡い光がステンドグラスを抜け、祭壇の女神像を照らし出している。
「ダルクちゃん、すごい!」
エレンはその様子を興奮気味に伝えようとしてくる。ダルクはエレンに言われるまま前方を見る。
確かに――先ほどまでみすぼらしかった女神像が輝いて見える。そう、それはまるで女神様が天から降り立ったように見えた。
「いい時に来ましたね。これは〝黄昏の女神像〟と呼ばれるほど、夕方時が一番綺麗に見えるのですよ」
シスターはそう補足をし、手を組み、祈りのポーズをとる。エレンもそれを真似して、祈りを捧げた。しかしダルクは祈るようなことをしなかった。沈黙を守り、その場に居座る。
太陽が沈み、辺りを完全に闇が包む。二人はまだ教会の中にいた。シスターが付けてくれた蝋燭の光により中は仄かに明るい。
「ダルクちゃん。いい唄ができたかも!」
先ほどから何かを考えていたエレンがいきなり立ち上がりそう叫ぶ。これはいつものことだ。エレンは何かあるごとに唄を創る。それを一番に聞くのがダルクの役割であった。
すぅ…………
周りの空気を吸い込み、彼女は歌い始める――――
それはとても温かい唄であった。
まるで女神に何かを捧げるように――――
それはとても優しい歌であった。
二分ほどで彼女の唄は終わった。ダルクはその間、ほとんど瞬きもせずに彼女へと釘づけになっていた。
「どうかな?」
はにかみながら、エレンは笑みと言葉を漏らす。
「いい唄だと思いますよ」
ダルクはそう静かに答えるのであった。
「素晴しい唄ですね」
だがそこには評価をしてくれる人がもう一人いた。奥にいたシスターが姿を現す。エレンが歌っていたのが聞こえたのだろう。
「えへへ。照れるなぁ」
エレンは恥ずかしそうに頭を掻く。
「お嬢さん。あなたは歌姫なのですか?」
歌姫とは唄を生業として生きている女性のことを指している。この時代では結構有名な職業でもあった。
「うーん。そういう訳ではないんだけどね」
エレンにとって唄を歌うことは仕事ではないのだ。彼女は歌いたいから歌う。それだけの事だった。
「この教会で唄が響くなんて何年ぶりのことでしょうか……」
蝋燭の明かりが揺れてその表情が目に入った。やつれた顔には正と負の感情が均衡した様な色が浮かんでいた。彼女がどんなことを思い、そんな表情をしたのか、ダルクには良く理解できなかった。
シスターは昔の話をしてくれた。この教会は革命以前、街一番の教会であり、毎日人に溢れていたらしい。しかし、ここの領主が変わると、その様子も一変した。
商業化を推し進める人々によって街の様子は変わっていった。人々は仕事に追われ祈る時間を忘れ、能力のない人は時代に置いてかれスラムへと追いやられたのだ。
「スラムには貧しい人が多くいます。しかしお金持ちの人はそれを見て見ぬふりをするのです――何と悲しいことでしょうか」
「むむむむむ……」
シスターの話を聞き、エレンは複雑な表情をしていた。また、エレンの悪い癖が出そうだ。ダルクはそう思い、ため息をついた。
その予想が当たったのは教会を出て宿までの道を歩いている時であった。
「ダルクちゃん。明日からの予定が決まったよ!」
声を大にして彼女は叫ぶ。
「スラムの人たちをパッと明るくしようぜ! 作戦に決定」
ネーミングの通り、この街の状勢に首を突っ込む気でいるらしい。そんなことをしてどうなるのだろうか? 一人が頑張ったところであの場所の何人の救えるのだろうか?
ダルクはそう思ってしまった。しかし、やる気になった彼女の顔を目の前にそんなことを言えなかったのだ。というより、言った所でエレンの行動を止められる自信がダルクには無かった。文句の代わりに彼女は大きなため息を付くのであった。