狂気の境界
それから何日かの旅の後。少女は牢獄へと入れられた。
この埃臭い空気を吸うのは人生二度目である。
でもそんなことは彼女にはどうでもいいことだった。
少女は牢獄で鎖に繋がれながら一日をボーっとして過ごしていた。
力なく石の窓から空を見上げては、時折思い出したように何かを口ずさむ。
それが唄なのか言葉なのか分からない程小さな声で。
そんな彼女の牢へとやってくる人物がいた。
ここ数日の間、同じ人物が"餌番"をしているらしい。
顔つきにまだ幼さを残している兵士は鉄格子越しに数切れのパンと水の入った皿を置く。
牢の中の少女は動かない。
まるで糸の切れた操り人形のように、壁にもたり掛かり光の無い瞳で青年を見つめていた。
ここ数日、同じ様子だ。
食事は摂るものの、生気を感じられない
。投獄されてから数日の間に身体は幾分痩せたのではないだろうか。
青年は彼女の様子を見て声を掛けそうになった。
しかし、その感情を押し殺すように帽子を深々と被る。
牢番が囚人に話す事は禁じられているのだ。話したら刑罰として鞭で打たれる。
施しなどしたらそれこそ投獄されてしまうだろう。
良心の呵責に悩まされながらも、彼は黙ってその場を去っていった。
幾人かの囚人を巡った所でやっと休憩になる。牢番といっても激務だ。
この短い休憩を挟んで、一日12時間は囚人の餌番や監視をしなければならない。
しかも、最近では囚人が増え過ぎて同じ牢に何人もの囚人を入れる場合がある。
そうなれば何かと争いごとも多くなる。
ここに入って1年ちょっとだが、青年は神経をすり減らす毎日を送っていた。
仮眠室の机に座って休憩を取っていると、部屋の扉が開き中年の男が入ってきた。
それは青年が上司と慕う、ベテランの牢番であった。
「なんだ。今日もやけに疲れた面してるな」
男は部屋に入るや否やそんな言葉を青年に掛ける。
「ええ。囚人たちの様子を見てると気が滅入りますよ」
「はっ。今の若い奴は根性が無いねぇ」
男は向かいの机に座ると葉巻を吸い始めた。
「――っつても、俺もこれがなければやってられないけどな。こんな仕事」
煙を吐きながら男は言う。
この数週間の間、牢番の間でも不満を耳にする事が多くなった。
今まで重犯罪者が入るはずのこの牢獄に今は大勢の人が投獄されているのだ。
その中には年半ばも行かない様な子供も含まれている。
牢番と言っても本質は人だ。その現状を見て良心を傷めない者は居なかった。
「王様は何をしようとしてるんですかね」
この状況に反抗するかのように青年は呟く。
「さあな…………まあ、ロクでもねぇ事が起きるのは確かだ。こんなに"犯罪者"が出るんならば、長くもないかもな」
男がこんなことを言うのは初めてであった。
いつもならば王の悪態をつけば、「本人にでも言いやがれ」と怒る筈なのに。
「誰か、王を咎めないのでしょうかね?」
「どうだろうな。まあ、お前みたいに身勝手に批評する若い連中が沢山居れば、
革命ぐらい起こってもいいと思うが…………無理だな。みんな怯えっちまってるよ」
最近、王に対して物申した政治家の老人が処刑されたのは有名な話だ。
日に日に法は厳しくなり、街中で政治の話をする人物も少ない。
「魔王ぐらいなんじゃねぇのか? 王様を咎められるのは?」
男は自嘲気味に縁起でもない事を言う。
「魔王? あの、噂の?」
「ああ、処刑される寸前の少女を助けるぐらいだぜ。俺らの窮地を救ってくれるかもしれないぜ」
「まさか…………はは。魔王なんか来たらこの国が滅びちゃいますって」
「まあ、この国を終わりにするならそれでもいいんじゃねぇのか?」
男は口の中で葉巻を燻し、その煙を空へと吐く。
石の壁に跳ね返った煙は部屋の中を白く染める。
「噂じゃあ、その魔王が助けた少女が、この牢獄に入れられたらしいぜ。誰だか知らないがな」
青年の頭の中には、先ほど食事を与えた少女のことが思い浮かぶ。
まさかと自嘲し、その考えをかき消した。
「さてと、そろそろ仕事に戻りますか」
男の葉巻の煙が部屋中に広がった頃、休憩時間は終わり、二人の牢番はまた激務へと駆り出されるのであった。