鏡に住まう魔
扉が完全に閉まったところで、魔王は机の上に置いた割れた鏡を見る。
「居るのだろ。姿を現せ」
何もないはずの部屋の隅を睨み、彼はそう言った。
「くっくっくっ…………さすが魔王の旦那だ。気づいていやしたか」
影から現れたのは一人の男。青い髪に黄褐色の瞳。爪は伸び、ボロ布から露呈した肌は皺でクシャクシャだ。
人間が見ればみすぼらしい老人に思うだろう。しかし、彼も立派な魔族なのだ。
「どうだった。鏡の中は」
「くっくっくっ……とても住みやすかったぜぇ、死ぬほどなぁ」
男は不気味に笑う。
笑ってはいるが、その表情の中には魔王へ対する遺恨が垣間見えた。
「あの餓鬼には感謝しなくちゃなぁ…………なんせ、五十年ほどぶりに外に出られたのだからな」
エレンのことが話題に出て、魔王は眉を顰めた。
その表情の変化に気が付いたのか、男はゲラゲラと笑う。
「あんな人間の小娘を飼ってるとは旦那もモノ好きだ。まさか幼女趣味だとはなぁ」
挑発とも取れる言葉にも魔王は表情を変えない。
ただその目線は先ほど以上に鋭利なものになっている。
「逃がしてやる。どこにでも行け。ただしエレンに手を出したら、お前を消す」
「消すとはこわいねぇ。何、小娘には借りがあるってもんだ。言われなくたって何もしねぇよ」
人間が聞いたら心臓が凍るような台詞を男は笑って受け流す。
「アンタはあの小娘を好いているようだが、どうするんだぁ? このままここに閉じ込めておくのかぁ?あの小娘は逃げるぜぇ? 旦那は恐ろしい魔王なんだからなぁ。ここに居るのが幸せなわけはねぇ」
「…………」
魔王の表情が一層険しくなったのを知りながらも、青の男は口を止めない。
「唄を歌わせたいならば、四肢を千切って、柱に縛り付けておけばいい。唄なんざ、生きていて口が動けば歌えるんだからなぁ」
「黙れっ!」
魔王は一足飛びに男へと近づく。その手にはいつの間にか漆黒の大剣が握られている。
剣が男の首に届く瞬間――――男の姿が割れた。
まるで鏡が砕けるかのように。
「くっくっくっ…………旦那の腕も落ちたものだなぁ。まあ、それでも強えぇよ。
あっしは退散させてもらうぜぇ」
不気味な笑い声を残し、男の気配は完全に消えた。
「死に損ないが…………」
魔王は剣を納め、ため息をついた。
「ダルク」
「はい。何でしょうか?」
部屋の中にはいつの間にやらダルクの姿があった。
「エレンを守ってやれ」
「命令とあらば」
ダルクは一礼をし、闇の中へと消える。
また一人になった魔王は再度ため息を付く。
「幸せか…………」
誰も居ない部屋に、彼のそんな言葉が浮かび、すぐに消えた。