魔王と星見部屋
ダルクはエレンの前を歩き、エレンはダルクの後ろを歩く。
その足取りは、いつも通り優雅で体重を感じさせない。エレンとは大違いだ。
「ここです」
螺旋階段を何段も上がったところで、ダルクはある部屋の前で立ち止まった。
銀と月の装飾のされた重そうな扉が目の前にはある。
「では、私はここで」
ダルクは一礼し、行きと同じ足音を響かせ階段を降りて行った。
エレンはその場に一人残される形となる。
孤独により不安は増大する――――ノックしようと扉の前に立つも、手が出ない。
少し重い左手を見る。そこには先ほどに割ってしまった鏡があるのだ。
逃げちゃダメなのだ。謝らなければいけない。
(よ…………よしっ!)
覚悟を決めてエレンは扉に手を伸ばす――――
「入るが良い」
「は、はいっ!」
突然声が掛かり、エレンは上擦った大声で返事をしてしまう。
それだけではない。急に扉が開いたので、前に乗り出していた身体が支えを無くし――――
「わっ! わわっ!」
そのまま前に転げ落ちてしまった。
転んだ時にそれほど痛みを感じなかったのは、その部屋の入口に柔らかい絨毯が敷いてあったからだろう。
目線を上げると、ソファーに座った魔王の姿が見えた。
彼はエレンの方を向き、近づいてくる。
エレンは近づく彼に目を取られ、起き上がることさえ忘れていた。
彼は手を指し伸べる。
ポカーンと手を見つめ、固まってしまうエレン。
数秒経ったところでやっとその意味を理解し、彼の手を取る。
この時数秒遅れで恥ずかしさが込み上げて来て、エレンの顔は桜のように赤くなってしまった。
慌てて足に力を入れると、思った以上に軽い感覚で身体が持ち上がる。
まるで彼に体重を吸い取られたような、不思議な感覚だ。
「ありがとうございました」
すぐにエレンは魔王に礼を言い、頭を下げる。
少し笑みを浮かべると彼は部屋の中にある椅子に座った。
彼を追っていた目線が視野を広めると、部屋の様子の上方が入ってくる。
魔王の部屋――――金の絨毯に天蓋付きのベッド。
もちろんシーツは絹で出来ており、それに床はすべて大理石でできていて…………
というのがエレンの想像であった。
しかし、城の主の部屋は驚くほど質素だ。
エレンの寝室の半分程度しかない大きさの部屋に机と椅子があるだけの造りで、その小さな机には透明な液体の入ったボトルと小さなグラスが置いてあるだけ。
なんだかとても寂しい印象を受ける。
「どうしたのだ? こんな所まで来て」
そんな印象を思い浮かべている最中、魔王はエレンへと疑問を投げかけた。
「あっ……はい……それが」
エレンは謝罪をしなくてはいけないことを思い出し、鏡を両手の上に乗せ、彼へと見せた。
「ごめんなさい。これを壊してしまいました…………」
目を伏せているので彼がどんな表情をしているかは分からない。
だが、手の中の重さは消える。
そっと顔を上げると、すでに鏡は彼の手中には無かった。
すぐ隣にあったテーブルに鏡は置かれていた。
「気にするな。大したものではない」
「で、でも……その……」
罪の意識からか許されたというのに、エレンはその言葉を受け入れることができなかった。
「エレン。お前は叱られたいとでも思っているのか?」
「えっ? そ、そうではありませんけど――――」
「私が許したのだ。そんな申し訳なさそうな顔はするな」
その言葉を聞きやっと肩の荷が降りた気分になる。
安堵混じりのため息が自然と口から洩れた。
「手を出せ」
「え?」
「手を出すんだ」
「は、はい…………」
なぜ手を? そんな疑問を考える暇も無く、エレンは手を彼へと伸ばす。
「違う、逆だ」
「は、はい……」
エレンの差し出した手を魔王は自分の手の上に乗せた。
不思議だ――――自分よりも白い手の筈なのに、そこから伝わってくる体温はとても温かい。
魔王は指の先に優しく触れる。
そこを見ると、うっすらと紅い線が見えた。
忘れていたが指を切ったのだ。
今でも血が滲んでいるということから中々深く切れていたことが想像できる。
「――――――――――」
魔王は何かを詠唱する。それが何の言葉なのかエレンの耳には聞き取れない。
雑音のような音楽のような不思議な言葉だ。
だが、その言葉の効果は分かった。自分の指の傷がみるみるうちに塞がっていったのだ。
初めて見たがこれが噂に聞く"魔法"というやつなのだろう。
十秒ほどのことだったが、皮膚は完全に元の姿を取り戻している。もちろん痛みなどない。
「あ、ありがとうございます……」
驚きを隠せないエレンにとってその言葉が精一杯だ。
だからこそ、エレンはその分を動作で補った。
頭を深々と下げるお辞儀で。
謝ってしまえば用事はそこで終ってしまう。
エレンがここに居る意味もなくなってしまうのだ。
だが、エレンはまだこの場に留まり、魔王と話したいと感じていた。
彼と話せるタイミングと言えば食事の時と夜のバルコニーだけなのだ。
しかし、そこでは静寂に飲まれ、思うように会話ができない。
だから、今が待ち望んだチャンスなのだ。
何か話そうと口を開けようとするが言葉が出ない。
心音がうるさく、考えることに集中できないのだ。
「あの、魔王さん……その鏡はいったいどういう物なのですか?」
真っ白になったエレンの頭が浮かべたのはこの鏡のことだけ。思わず口にしてしまった。
「気にするな。大したものではない」
先ほどと同じ台詞を言う。彼の表情は変わらない。そこからは言葉の真偽が見抜けない。
本当に大したものではないのか、それとも――――
「あっ、はい。分かりました…………」
最初の話題が切られ、エレンは黙り込んでしまう。
何か話したいと思うのにそれ以上の会話は見つからない。沈黙が気まずさを生む。
「あの……私は失礼しますね」
その空気に耐えかねて、エレンは部屋から退散するのであった。