森の胎動
エレンはベッドに入り、夕食後のことを思い出していた。
魔王の話を聞いていると、魔族はかわいそうにも思えてくる。
美しさ、感動などを理解することができずに、殺戮と混沌の中で生きているのだから。
部屋の窓がガタガタと音を立てて揺れている。
夕食時には何とも無かったのに、ここ数時間で風が強まったようだ。
その音はまるで闇に住まう凶獣の咆哮のように聞こえる。
まさか、魔王の城へと乗り込んでくる命知らずな魔族は居ない、と考えたいところだが、
ここは魔族の土地。人間のエレンは何が起こるかなど予想できないでいた。
そんなことを思っているうちに寝付けなくなってしまっていた。
部屋の隅にある柱時計を見れば、もうその針は零を超え、静かに回っている。
こんなに寝付けないのは、久しぶりの体験であった。
奴隷のときも、旅芸人をしていたときも夜、ベッドに入ったらすぐ眠れた。
というよりは寝なければ次の日にとてもじゃないが、身体が持たなかった。
ふと昔のことを思い出してしまう。
夜眠れないでいると、母さんがよく子守唄を聞かせてくれたものだ。
その唄を思い出そうかと思ったが、エレンは直前でやめる。
今まで幾度と無く家族のことを思い出すことがあった。
そのたびにエレンの心はいろいろな感情でいっぱいになってしまうのだ。
懐かしみ、喜び、怒り、悲しみ…………
そのたびにエレンは泣いてしまった。
まるで心からあふれ出した感情が流れ出したかのように涙は止まらなくなってしまうのだ。
だがら今回も思い出したら泣いてしまうだろう。
エレンはベッドから起き上がり、廊下への扉を開けた。
目的とする場所はバルコニーだ。あそこからの景色を見れば少し気持ちも落ち着くだろうから。
思いつきの勢いで部屋を出たエレンだったが、その事をすぐに後悔する。
部屋と比べ、廊下はとても寒かった。せめて靴だけでも履いてくれば良かったと思う。
しかし、このまま部屋に戻れば、温かいベッドの誘惑に勝てなくなりそうだったので、足裏から込みあがってくる感覚を黙殺することにした。
頼りない足音を友にエレンは廊下を歩く。
バルコニーには先客がいるようだ。その後姿から彼が魔王だとすぐに分かった。
指先一つ動かさない彼はまるで闇に溶け込んでいるように見える。
しかし、銀の髪だけは闇に惑わされること無く光り輝いていた。
エレンは彼の邪魔にならないように静かにバルコニーの柵へと詰め寄った。
景色を共有すれば彼の考えも分かると思ったのだが、それは間違いだったようだ。
ここから見えるのは、深い森と闇だけ。今日は月光も雲に遮られている。
昨日と同じ場所なのに今日は少し不気味に見えた。
「こんな時間にどうした?」
魔王は静かに尋ねる。
「寝付けなくて」
エレンはそう答える。
「魔王さんはここで何をしているのですか?」
少し怖い様な気もしたが、エレンは尋ねてみる。
「ここからは森の様子がよく見える」
彼はそう言う。
エレンはその言葉を聞き、森の方を向くが、目の前にあるのは何の変哲もない、木の群衆だ。
「人間には見えないだろうが、私には感じれるのだ。木々のざわめき、獣の雄たけび…………今日もゴブリンたちが森の奥で小競り合いをしている」
エレンは思った。この人と自分が見ている景色は違うものなのだろうと。
「今日の森を見て、どんな唄を歌う?」
「どんな……」
エレンはイメージを言葉で表そうとしたが、なかなかそれを表現はできない。
だから歌ったのだ。イメージをリズムに乗せて。
それはとても悲しく、暗く、そして美しい歌だった。
魔王はその唄に聞き入った。
「いい唄だ」
短い唄が終わると魔王は彼女の方を向き、そう言った。
表情からは読み取れないが、エレンはその言葉に温かさを感じるのだ。
「ここは冷える。そろそろ中に入れ」
「はい」
エレンは魔王の言葉に促され、部屋へと戻る事に決めた。
手足はかじかみ、感覚を無くしていたし、身体は急に疲れを感じ始めている。
こんな状態で、寝付けないなんてことはないだろう。
魔王の後ろをエレンは歩く。彼は自分より二回りも大柄なのだが、その足音は殆どない。
しかも、歩幅の違うエレンを置いて行かないように、その足取りはゆっくりとしている。
自分のペースで歩いているのではないというのに、とても自然かつ美しい足取りにエレンはつい見とれてしまう。
魔王はエレンの寝室まで来ると、その扉を開けてくれた。
その仕草は紳士的で無駄が無い。この人の動作すべてが優雅だ。
「おやすみ、魔王さん」
「おやすみ」
部屋の前で彼と挨拶をし、エレンは寝室へと入る。
廊下とは違い、ここは暖かかった。
みるみる身体が温まっていくのが分かる。それに応じて身体の底から眠気が込み上げてきた。
ベッドに入ると自然と瞼が落ちてくる。
今夜はいい夢が見れる。何となくだが、そんな気がしていた。