殿下の席次変更要請17件の意味に、典礼記録官の私だけが気づいていませんでした
殿下の席次変更要請17件の意味に、典礼記録官の私だけが気づいていませんでした
◇
「この覚書帳の備考欄、全頁にあなたの名前がある理由を──本当に、知らなかったのですか」
それは後日、殿下に言われた言葉である。
知らなかった。本当に、知らなかった。
典礼記録官を6年務めて、3,212件の儀式を記録して、備考欄に殿下の名前を書いた回数だけは──数えたことがなかった。
◇
解任通告は、春の叙勲式の3日前に届いた。
「典礼記録官の職を本日付で廃止する。エルヴィーラ・フォン・ブランシュ、ご苦労であった」
新任のヘルガ典礼長は、私の覚書帳に一度も目を通さないまま、そう告げた。典礼部の「効率化」を掲げて着任した彼女にとって、6年分42冊の覚書帳は埃をかぶった旧弊にしか見えなかったのだろう。
「承知いたしました。引き継ぎ事項が12件ございますが──」
「不要です。典礼は格式に従えばよいのであって、記録官個人の覚書に頼る運用が問題でした」
格式に従えばよい。
典礼がそう単純なものなら、私は6年も覚書帳を書き続けたりしない。格式の行間にある例外処理──ルクレール侯国の大使は左足が不自由なため着席順を調整する、ガレス公爵は先代の忌日に白い装花を嫌う、新月祭の第四手順は4年前に教皇庁の通達で改訂された──そういう、規定書のどこにも載っていない無数の細部が、42冊の覚書帳に眠っている。
けれど、不要と言われた引き継ぎを押し付ける権限は、解任された人間にはない。
「では、覚書帳を書庫にお納めします。43冊目は書きかけですので、持ち帰ってよろしいでしょうか」
「好きになさい」
好きにした。
最後の1冊を胸に抱えて典礼部を出た。6年間毎日歩いた廊下で、叙勲式の席次配置が脳裏をよぎったが、振り払った。
前世でサーバー管理をしていた頃にも似た場面があった。「ドキュメントは要らない」と言った上司のもとで、3か月後にサーバーが落ちた。典礼が落ちるのは、もう少し早いだろう。
宮殿の門を出るとき、振り返らなかった。
◇
典礼記録官という職を、少しだけ説明させてほしい。
宮廷で行われる全ての儀式──叙勲式、晩餐会、謁見、舞踏会、外交儀礼──の席次、作法、手順、前例を記録し、次回以降の典礼設計に反映させる仕事である。年間の儀式はおよそ530件。そのすべてについて、日付、儀式名、参列者、席次図、進行記録、そして「備考」欄を覚書帳に記す。
備考欄は本来、些細な申し送りを書く場所だ。
「第三卓の燭台が高すぎて視線を遮った。次回は2寸低いものを手配」──そういう実務的な記録。
ただ、6年も続けていると、備考欄は少しずつ性格を変えてくる。
なぜなら典礼は生き物だからだ。席次の変更要請、直前の配置換え、当日の突発対応──それらを漏れなく残すのが、次の典礼の精度を上げる。
たとえば、こういう記録がある。
『第14回春季晩餐会 備考:レクト王太子殿下より席次変更要請あり。主賓卓の配置を西向きから南向きに変更。理由「窓からの光が書類に反射する」。典礼上の影響は軽微なため承認。なお、変更後の配置では殿下の着席位置が典礼記録官席の隣接区画に移動する結果となった。偶然と思われる』
あるいは、こういう記録。
『第9回秋季叙勲式 備考:殿下より装花の変更指示。赤薔薇を白百合に。理由は「季節感の調整」。典礼規定上の制約なし、承認。白百合の配置は記録官席の正面。作業中に白百合が視界に入り、集中力の維持に寄与する配置であった。殿下の審美眼に感服する』
『第22回月例謁見 備考:殿下より、典礼記録官の着席位置を第三列から第二列に移動する提案あり。理由「記録の正確性向上のため壇上に近い席が望ましい」。合理的な提案であり即座に承認。昇格ではなく業務改善である旨を付記する』
『第31回冬季舞踏会 備考:殿下より楽団の配置を東壁から南壁に移動する要請。理由は「音響の改善」。変更後、楽団と記録官席の距離が縮まり、周囲の雑音が楽音にかき消されるため筆記に集中しやすい環境となった。殿下の音響への造詣に敬服する』
6年間で、殿下からの席次変更要請は17件。
光の反射、音響の改善、季節感の調整、記録精度の向上、動線の効率化──理由は毎回異なった。そして変更のたびに、殿下の席と私の席の距離が縮まるという「偶然」が17回連続した。
統計的にはもはや偶然と呼べる数値ではない。前世の私なら異常検知アラートを鳴らすレベルだ。
けれど当時の私は、殿下の行動の意図分析を「管轄外」と判断し、備考欄に淡々と事実だけを書き続けた。
6年間、ずっと。
◇
解任から5日目。
元同僚のマリーが、城下の借家に駆け込んできた。
「エルヴィーラ!」
「おはようマリー。お茶を──」
「お茶どころじゃないの! 叙勲式が大惨事だったのよ!」
マリーは典礼部の侍女である。仕事は正確で声は大きく、秘密を守る能力だけが壊滅的に低い。悪く言えばおしゃべり、良く言えば情報伝達の天才だ。
「ルクレール侯国の使節団よ。ヘルガ様が例年通りの配置にしたから、席が12も足りなくて──」
「第七列を3分割して東壁に寄せれば14席確保できたのだけれど」
「そんなこと誰も知らないのよ! で、大使を──厨房通路の仮設椅子に」
ルクレール侯国の大使が、ローストチキンの配膳列の横で叙勲式に参列した。典礼規定第3章12条には外交使節の着席区画は主会場正面から3列以内と明記されている。が、もう私の管轄ではない。
「大使のお顔は?」
「笑顔よ。外交官の笑顔。あの、怖いほうの」
「……抗議書は」
「翌日届いたわ。しかもルクレール語で」
「翻訳官は手配した?」
「ヘルガ様が『翻訳は外務省の管轄だ』と」
「それは正しいけれど、外交抗議を外務省に回す前に典礼部で一読するのが慣例──いえ、もういいわ」
私は黙ってお茶を注いだ。「だから言ったのに」と口にするのは、前世でも今世でも格好が悪い。
◇
崩壊は、加速した。
マリーは2日おきに新しい惨事を持ってきた。
「月例謁見で、ガレス公爵を亡くなった先代と同じ席に案内したの。3年前に代替わりしてるのに」
「覚書帳の第29冊85頁に記録がある」
「次。夏至祭の予行で聖歌の順番を2曲入れ替えたら、司祭様が式の途中で『飛ばしましたよ』と小声で」
「第18冊。4年前の教皇庁通達で改訂済み」
「次。隣国のヴォルクス王国から親善使節が来るんだけど、歓迎晩餐会の席次を誰が決めるかで揉めてるわ」
「ヴォルクス王国には独自の着席儀礼がある。主賓入場時に全員が起立するのではなく、右隣の者だけが立つ。覚書帳の第36冊127頁に前回の対応手順を全て書いてある」
「あなたの頭、覚書帳の索引と直結してるの?」
「6年書き続ければそうなる」
マリーが深いため息をついた。
「問題はね、ヘルガ様がこの全部を『前任者の引き継ぎ不足のせいだ』って上に報告してることよ」
「引き継ぎを申し出たのは私だけれど」
「みんな知ってる。ヘルガ様だけが知らないふりをしてるの」
そして決定打が来た。
ヴォルクス王国の親善使節を迎える歓迎晩餐会。
マリーが飛び込んできたとき、彼女の顔は蒼白だった。
「ヴォルクスの使節が──怒って帰った」
「……何があったの」
「入場のとき、全員が起立して迎えたの。普通に」
普通に。そう、普通なら全員起立で迎えるのが正しい。
ただしヴォルクス王国は違う。主賓入場時には右隣の者だけが立つのが彼の国の作法で、全員起立は「格下を迎える略式」を意味する。覚書帳の第36冊127頁に前回の対応手順を全て記してあった。
「使節団長が『我が国を格下と見なすのか』と」
「ヘルガ様は?」
「『全員起立は最高の敬意だ』と説明したけど、ヴォルクスの使節は聞く耳を持たなかった。だって彼らにとっては侮辱なんだもの」
文化の違いは、正しさでは解決しない。覚書帳はそのために存在する。前例を記録し、次に同じ間違いを繰り返さないために。
けれどその覚書帳は、書庫の隅で埃をかぶっている。
「外交問題になるわ。宰相府が動き始めたって」
「…………」
「ねえエルヴィーラ。もう2週間よ。外交抗議7件、貴族苦情3件、宗教問題未遂1件、そして今度は国際問題。全部、覚書帳を読めば防げたことばかりなのに」
42冊の覚書帳は書庫の隅に積まれたまま、索引が存在することすら伝わっていない。
「ねえ。怒ってもいいのよ」
「記録官は感情を備考欄に書かないの」
「それ、嘘でしょ」
嘘だった。43冊目の最後の頁に、私は一つだけ、業務外のことを書いた。
◇
解任から10日目、城下の商業組合から書状が届いた。
宮廷典礼の記録・管理に精通した人材を探しているという。報酬は宮廷勤務時代の倍近い。商業組合が主催する式典や晩餐会の品格を上げたいらしい。
悪い話ではなかった。
覚書帳の技術を買ってくれる場所がある。それは素直に嬉しかった。解任されてから、朝起きて覚書帳を開く必要のない日々が、思ったより堪えていたのだ。記録する対象がないと、手が所在なく感じる。前世で退職後に何をしていいか分からなくなる人の気持ちが、初めて分かった。
けれど返事を書こうとして、筆が止まった。
商業組合の式典を記録する仕事。それは良い。やりがいもあるだろう。
ただ──その覚書帳の備考欄に、殿下のお名前が出てくることは、もう二度とない。
二度と、と思った瞬間に胸が詰まった理由を、当時の私は「6年間の習慣による喪失感」と分類した。記録官は感情を正確に分類するのが仕事だ。
正確に分類したはずなのに、なぜかその夜は眠れなかった。
分類が間違っている可能性について、私は検討を怠った。これもまた、管轄外と判断してしまったのだ。
◇
眠れない夜に、43冊目を開いた。
1月から3月まで。備考欄を、ぱらぱらとめくる。
殿下のお名前が、全頁にあった。
当然だ。殿下は宮廷儀式の中心にいらっしゃるのだから、備考欄にお名前が出ないほうがおかしい。
そう自分に言い聞かせて──けれど、42冊全てを確認する手段は今の私にはないが、もしこの密度が6年間変わっていないとしたら。
備考欄に殿下のお名前がない頁は、おそらく1頁もない。
不思議だと思った。
不思議だと思った自分が、もっと不思議だった。
6年間書き続けて、その偏りに一度も気づかなかったのだ。典礼上の必要性だと、ずっと思っていた。殿下は宮廷の中心にいらっしゃるから、備考欄に名前が出るのは当然だと。
でも──「偶然と思われる」と17回も書いた記録官が、その偏りに気づかないのは、記録官として不正確だ。
気づかなかったのではなく、気づきたくなかったのかもしれない。
気づいてしまったら、備考欄には書けないことを認めなければならないから。
窓の外に宮殿の灯りが見えた。
商業組合への返事は、まだ書いていない。
◇
解任から18日目の夕刻。
借家の扉が叩かれた。マリーにしては丁寧すぎるノックだった。
開けると──
「……殿下?」
レクト王太子が、護衛もつけず、借家の前に立っていた。
夕暮れの逆光の中で表情は読めなかったが、声はいつも通り穏やかだった。
「入っていいか」
「……解任された元記録官の住居に王太子殿下が単独で訪問される典礼上の前例を、私は存じません」
「前例がないなら、今日が前例だ」
殿下は狭い居間に入り、質素な木椅子に腰を掛けた。典礼規定では王太子の着席する椅子は肘掛け付きの第一種椅子と定められているが、うちにそんなものはない。
「お茶を──」
「いらない。覚書帳を見せてほしい」
「書庫に42冊ございます」
「43冊目だ。おまえが持ち出した1冊」
なぜご存じなのかは聞かなかった。マリー経由の確率が98%だ。
43冊目を差し出した。今年の1月から解任の日までの記録。
殿下は覚書帳を受け取り、最初の頁を開いた。
そして──備考欄を、声に出して読み始めた。
「1月7日、新年謁見。備考──『レクト王太子殿下より、玉座右側の装花を白百合に変更の指示。典礼上の影響なく承認。白百合は記録官席から最も視認しやすい位置に配置される結果となった。偶然と思われる』」
殿下が顔を上げた。
「白百合は、おまえの好きな花だろう」
「……なぜ、ご存じなのですか」
「3年前の春季舞踏会で、白百合の装花を見たおまえが、ほんの一瞬だけ目を細めた」
「覚書帳には書きませんでした」
「おまえの表情はおまえの管轄外だからな。だが俺の管轄には入っている」
頁がめくられた。
「2月3日、外交晩餐会。備考──『殿下より楽団の配置を東壁から南壁に移動する要請。理由は音響の改善。記録官席付近の雑音が楽音に紛れ、筆記に集中しやすい環境が生じた。殿下の音響への造詣に敬服する』」
「音響のためじゃない。おまえは記録に集中するとき、無意識に唇を噛む癖がある。周囲が静かだとそれを気にして止めようとする。楽音があればおまえは安心して集中できる。それだけだ」
「……そんな些細なことまで」
「6年見ていれば、些細ではなくなる」
殿下の声は穏やかだった。けれど目が笑っていなかった。笑っていないのに、温かい目だった。
殿下はさらに頁をめくった。
「2月14日、冬季園遊会。備考──『殿下より、園遊会の休憩所配置を南庭から東庭に変更する要請。理由は「南庭は風が強い」。変更後、東庭の休憩所は記録官の詰所に隣接する。殿下が休憩の合間に「記録は順調か」と声をかけてくださった。業務確認と思われる。偶然と思われる』」
殿下が苦笑した。6年間、殿下の笑顔は何度も見たが、こういう笑い方は初めてだった。呆れているのに、どこか愛おしそうな。
「業務確認だと思ったのか」
「……はい。殿下は業務に熱心な方ですので」
「おまえの顔を見たかっただけだ。記録の進捗になど興味はない」
──そんなことを言われたら、何と記録すればいいのだろう。
殿下はさらに頁をめくった。3月──そして最後の頁。解任日の備考欄。
殿下の指が止まった。
「……読むぞ」
「殿下、それは業務外の──」
「『本日をもって典礼記録官の職を解かれる。6年間の勤務に悔いはない』」
殿下の声が、少しだけ低くなった。
「『備考。殿下の席次変更要請は、結局最後まで理由が分からなかった。分からなかったが──殿下の隣は、温かかった。これは業務記録に記載すべき事項ではない。しかし、書かずにはいられなかった』」
声に出して読まないでほしかった。
6年間でたった一度だけ、業務の外に踏み出した備考欄だった。
「エルヴィーラ」
「はい」
「席次変更要請、6年間で17件。全ておまえの隣に座るために仕組んだ」
「……」
「白百合も。楽団の配置も。記録官席の昇格も。全部だ。6年かけて17回、おまえの隣に座る口実を作った」
殿下が覚書帳を閉じた。
「10回を超えたあたりで気づくと思っていた。だがおまえは毎回『偶然と思われる』と書いた。15回を超えて、気づかせることを諦めた。ただ隣にいることにした」
「典礼記録官として、推測ではなく事実のみを──」
「では事実を一つ」
殿下の目が、私を正面から捉えた。
「おまえの覚書帳を42冊全部めくったら、備考欄に俺の名前がない頁は1頁もないだろう。おまえは6年間、知らずに俺の全記録を取り続けた。なのに──たった一つ。俺がなぜおまえの隣にいたかったのか。それだけを記録しなかった」
涙が出た。止められなかった。
6年間、記録だけが自分の存在証明だと思っていた。覚書帳がなければ、私はこの宮廷に何の痕跡も残さない人間だと。それを不要と言われて解任されて、覚書帳にしがみつくように43冊目を持ち帰った。
商業組合の仕事を受ければいいと思った。覚書帳の技術を活かせる場所があるのだから。それが合理的な選択だと。
なのにこの人は──覚書帳を読む前から、私を見ていた。
備考欄に書かれるよりずっと前から。
「……殿下」
「何だ」
「典礼上、王太子殿下が元記録官に求婚される前例はございません」
「だから今日が前例だと言っただろう」
奥の台所に通じる扉が、かすかに軋んだ。
「マリー。いるのは分かっている」
扉の隙間から声がした。
「殿下。覚書帳はお返しになりますか」
「返さない」
「覚書帳だけですか」
「覚書帳だけではない」
「エルヴィーラごと、ですか」
「エルヴィーラごとだ」
「マリー。出なさい」
マリーは満面の笑みで裏口に消えた。彼女の情報伝達能力を考えれば、この話は明日の昼までに宮廷の半分に届くだろう。元記録官としては情報管理の脆弱性を指摘すべきだが、今はそういう気分ではなかった。
殿下が、私の手を取った。
温かかった。覚書帳の最後の備考欄に書いたとおりに。
「記録ではなく、隣に。これからは備考欄ではなく──隣にいてほしい」
「……はい」
商業組合への返事は、翌朝、丁重にお断りした。
◇
殿下との婚約が宮廷に伝わるまで、3日もかからなかった。マリーの情報伝達能力を考えれば、むしろ3日も持ったことに驚くべきだろう。
「ねえエルヴィーラ、婚約の話、宮廷中が大騒ぎよ」
マリーが興奮気味に借家に飛び込んできた。以前と違って、今度は惨事の報告ではない。
「典礼部の子たちがみんな『やっぱり』って言ってるの」
「やっぱり?」
「殿下が席次変更を出すたびに、記録官席の近くに移動してたの、みんな気づいてたのよ。気づいてなかったのはあなただけ」
「……17回も?」
「10回目くらいで典礼部の中では周知の事実だったわ。賭けが成立してたくらいよ。『エルヴィーラがいつ気づくか』って」
「賭け?」
「私は『6年以内に気づく』に賭けたんだけど、負けたわ」
6年で気づかなかったのだから、確かに負けだ。
「マリー。その賭けの記録は残っているの?」
「ないわよ。口約束だもの」
「記録のない賭けは無効よ」
「そういうところが6年気づかない原因なのよ」
マリーは正しかった。
◇
後日談を、いくつか。
ヘルガ典礼長は就任から1か月で更迭された。外交抗議14件、貴族苦情3件、宗教儀礼手順違反による国際問題未遂1件。
更迭を告げる宰相の前で、ヘルガは最後まで「前任者の記録整備が不十分だったため」と言い張った。
「引き継ぎ12件を申し出た記録官に対し、不要と回答したのはあなた自身です。発言の記録が残っております」
宰相は記録を確認する人間だった。
記録というものを軽んじた人間が、記録によって追い詰められた。
自分の判断が全ての崩壊の起点だったと理解した瞬間、ヘルガは何も言えなくなった。覚書帳に索引があることすら知らなかった。42冊の表紙に触れることすらしなかった。引き継ぎを「不要」と切り捨てた自分の声が、14件の外交抗議となって返ってきた。
「前任者のせいだ」と言い続けた口で、もう何も言えなかった。
マリーは、ヘルガが最後に宰相の部屋を出た時の顔を「生涯忘れない」と言った。
典礼の記録を軽んじた人間の末路を、私は覚書帳には記録しない。業務外だからだ。
後任の典礼長が着任して最初にしたことは、書庫の隅から42冊の覚書帳を引き出し、執務机に並べることだった。通し番号、色分けの付箋、年度ごとの統計表、そして巻末の索引を見て、こう呟いたという。
「索引まで付いている。なぜこの記録官を解任したのだ」
マリーから聞いた。マリーは「でしょう!?」と3回言ったそうだ。
◇
私は典礼記録官には戻らなかった。
代わりに──肩書きが、少し変わった。
王太子妃付き典礼顧問。
殿下の隣に座りながら、覚書帳の44冊目を書いている。
備考欄には、こう記してある。
『殿下の席次変更要請、本年度0件。
変更の必要がないため。
──隣にいるのだから。
なお、これは業務記録である。異論は認めない』
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