エピローグ2:残された一行
物語の終わりは、いつも静かに訪れる。
誰かが去り、誰かが残り、誰かだけが真実を抱え続ける。
その非対称こそが、人間の関係のもっとも残酷な形だ。
愛も罪も、時間の中でゆっくりと風化していく。
この物語は、その風化の中でなお消えなかった“影”の記録である。
たくまは、自分でも理由がわからないまま、mixiのアプリを開いた。 ユキと繋がっていた、唯一の場所。
現在。 柏木たくまは、都心から離れた古い雑居ビルの設備管理員として働いている。 元・エンジニアの肩書きも、商社のコネクションもすべて捨てた。今の彼は、汚れた作業服に身を包み、配管の錆を落とし、電球を替えるだけの、名もなき男だ。
深夜の管理室。100均の老眼鏡をかけ、彼は静かにスマホを開く。 そこには、mixiのアカウントが今も削除されずに残っている。
ユキの最新のログイン履歴は「三ヶ月以上前」になっている。 ユキは他のSNSをすべて消したが、あの「あきら」と繋がっていた場所だけは、消さずに置いていた。
彼が投稿した、大学の先輩たちとの他愛ない近況報告。あの日、彼を励まそうとして書き込んだユキのコメント。
『無理しないで。ちゃんと休んで』
その一行を眺めていると、なぜか涙が溢れそうになった。 あんなに酷いことをしてしまったのに。あんなに軽蔑されているはずなのに。 どうして、あのアカウントを消すことができないのだろう。
立ち上がっているwebメール、すでに内容は書かれていた。宛先は、ユキではない。
件名:「元気にしてた?」
たくまは、友人みぽりんに宛てたメールの送信ボタンを押す。そこには、深根会のことは伏せつつも、一人の女性を救うために自分を泥に沈めた男の、最後の一文字の真実が記されていた。
窓の外では、朝日を浴びた街が呼吸している。 どこかのビルで、あのバンドの曲が流れているかもしれない。 彼はもう二度と、十三時の光の中に立つことはできない。 だが、彼が削り出した「狂気」という名の防壁の中で、智子は今日も、平穏な日常を生きている。
イヤホンから流れてきたのは、あのバンドの、新しいバラードだった。 激しいドラムの音の裏で、繊細に刻まれるベースライン。
(ユキ。……君は今、娘さんと幸せに暮らしているかい?)
空はどこまでも高く、澄み渡っている。 たくまは、込み上げてくる感情を飲み込むように、深い、深い呼吸をした。彼はユキの本心を一生知ることはない。 ただ、冬の陽光の中で、彼は静かに、日常へと歩き出す。 その足取りは、あの日彼女と聴いたリズムを、微かに刻んでいた。
たくまは、もう誰にも理解されることを望んでいない。
ユキは、もう彼の名を思い出すこともないだろう。
それでも、守られた日常だけは確かに残った。
人は時に、報われない選択の中にしか救いを見いだせない。
その静かな救いこそが、この物語の最後に残された光だ。




