エピローグ1:ユキの卒業 ── 13時からの解放
物語の終わりは、いつも静かに訪れる。
誰かが救われ、誰かが壊れ、誰かが何も知らないまま歩き去る。
その非対称こそが、人間の関係のもっとも残酷な形だ。
愛も憎しみも、時にただの“誤差”として処理されてしまう。
この物語は、その誤差に押し潰された者たちの記録である。
二〇二六年一月。 都内の高級デパート、化粧品売り場の鏡の前で、ユキは新発売の美容液を手の甲に伸ばしていた。
「……うん、やっぱりこっちの方が浸透がいいわね」
ふっくらとした肌の質感を確かめ、ユキは満足げに微笑む。 あの日、あきら――柏木たくまがストーカーとして警察に連行されてから一ヶ月。彼女の心には、恐怖どころか、爽快なまでの解放感が満ち溢れていた。
(あー、すっきりした。本当に、いいタイミングで壊れてくれたわ)
実は、ユキは数年前から「あきら」との関係に飽き果てていた。 十年前、mixiで出会った頃は「影のあるエンジニア」という肩書きに惹かれたし、ワンオクロックを一緒に聴く時間も刺激的だった。けれど、四十代も半ばを過ぎれば、求めるものは「情緒」より「実利」だ。
特に、彼の隠された「実家」の事情を知った時は、心底ゾッとした。 「将来は、田舎で畑や田んぼを継ぐのも悪くないかな」 冗談めかして言った彼の言葉を、ユキは聞き逃さなかった。
(冗談じゃないわよ。泥にまみれて米を作る? 畑仕事でお肌をボロボロにする? 絶対に無理!)
美容にお金をかけ、冷房の効いた部屋で優雅にショッピングを楽しむ。それが彼女の理想とする「上がり」の人生だ。ましてや、不倫の果てに夫の退職金や年金が慰謝料で吹き飛ぶようなリスクなんて、一ミリだって背負いたくない。
「あきら、ごめんね。でも、あなたはもう、私にとってコストパフォーマンスが悪すぎたの」
スタバで彼が「地下基地」だの「外資の陰謀」だのと叫び始めた時、ユキは恐怖の裏側で、確かな「勝ち」を確信していた。 あんな風に公衆の面前で狂ってくれれば、別れる理由は百パーセント彼にあることになる。自分は「悲劇の被害者」として、夫や周囲に怪しまれることなく、綺麗に不倫の証拠を隠滅できるのだ。
まさに、棚からぼたもち。 警察への上申書も、接近禁止命令も、ユキにとっては彼を合法的に、かつ永久に人生から排除するための「無料のクリーニングサービス」のようなものだった。
「……お疲れ様。さよなら、あきら、いえ、たくま」
美容液と、自分へのご褒美の新作リップを買い求め、ユキはデパートの外に出た。 冬の冷たい風が吹くが、今の彼女には心地よい。
あの日の恐怖が完全に消えることはなかった。ユキは、いつものように調剤薬局のカウンターに立っていた。薬袋を揃え、患者に丁寧な説明をする。日常は、何事もなかったかのように戻っていた。あの日、あきら――いえ、柏木という男にストーカー行為をされてから、警察のパトカーが頻繁に薬局の前を巡回してくれるようになった。そのおかげか、最近は誰かに見張られているような不気味な視線も、すっかり消えていた。
「……怖かったな、本当に」
処方箋を整理しながら、ふと指先が止まる。 警察からは、孤独による精神的な不安定が原因だろうと説明された。奥さんとお子さんが出ていき、私からも別れを告げられたことが引き金になったのだと。
彼女の胸の奥には、説明のつかない「違和感」が小さな棘のように刺さっている。警察に届けた際、彼の持ち物から見つかったという薬。それは彼女が勤める薬局のもので、備考欄には彼の手書きで何かが書き殴られていたという。刑事は「妄想の証拠」だと言っていたが。
薬局のパートが終わる十三時。 かつては彼を待っていたあの聖域の時間、今は自分のためだけに使える自由な時間だ。 ユキは一人、セブンイレブンのイートインに座り、バッグからスマートフォンを取り出した。 もう連絡を取ることはない。接近禁止命令が出ているし、何より、あんなに恐ろしい思いをさせられたのだ。二度とみたくもない。
すべてのSNSアカウントを削除しmixiのアカウントもログインできないよう自分でわからないパスワードに変更した。補完を無効にして再登録したそのアカウントは複雑なやりとりをしない限り二度とログインできない。
小さく、けれど晴れやかに声を漏らした。
「あきら、卒業ーーーっ!」
空はどこまでも高く、澄み渡っている。 自分のために、楽をして、好きなことだけをやって生きていく。 彼が自分の社会的死を賭して守り抜いた「日常」の正体が、こんなにも強欲で、逞しい女の生存本能だったとは、彼は夢にも思わないだろう。
ユキは最新の流行曲を口ずさみながら、軽やかな足取りで、銀座の喧騒へと消えていった。
たくまの犠牲は、誰にも称賛されることはない。
ユキの解放は、誰にも咎められることはない。
世界はいつも、正しさよりも“結果”だけを受け入れる。
それでも、誰かの平穏が守られたのなら、物語はそこで終わっていい。
残された影の重さだけが、静かに真実を語り続けるのだ。




