第五章:結末:十二月五日の誓約
物語は、誰かが静かに限界へ到達した瞬間から始まる。
声にならない痛みは、言葉よりも深く人を侵食する。
孤独は毒であり、同時に、判断を狂わせる麻酔でもある。
守るための行動が、壊すための行動よりも残酷になることがある。
人は、自分の影に触れた相手を、時に過剰に守ろうとしてしまう。
その結果として生まれる“歪んだ愛”は、誰にも止められない。
この物語は、その不可逆な選択の軌跡を描いた記録だ。
二〇二五年十二月五日。 その日は、すべてを白く染め上げるような、深く、鋭い寒気の朝だった。
午前十時。マンションのインターホンが鳴った時、たくまは台所で冷めたコーヒーを最後の一口まで飲み干した。モニターを確認するまでもない。それが自分の「脚本」の最終幕であることを理解していた。
「多摩警察です。柏木さん、お話し伺えますか」
玄関を開けると、冬の空気に馴染まない殺伐とした空気を纏った四人の刑事が立っていた。かつてはシステムエンジニアとして、社会のインフラを守る側の人間だった。それが今、社会を脅かす「ストーカー」として警察を迎え入れている。その滑稽な逆転劇に、たくまの唇には自嘲の笑みが浮かびかけたが、それをすぐに「無機質な虚無」で塗り潰した。
「……お待ちしていました」
刑事たちは、荒れ果てたリビングに足を踏み入れる。段ボールが積み上がり、埃が積もったその空間は、孤独という毒が具現化したような景色だった。刑事の一人が、デスクの上に置かれた一枚の処方箋を手に取る。それは、彼が狂気を演じてユキの薬局へ持ち込んだ「証拠」だ。
「ユキさんへの執拗な接触、及び不適切な言動。わかってるね?」 「はい。すべて認めます」
たくまは、促されるままにペンを執った。 『もう、二度と彼女に近づかない』 上申書に署名し、印鑑を捺す。その瞬間、紙に染み込む朱肉の赤が、ユキを縛り付けていた死の呪縛を解く封印のように見えた。
これで、いい。 警察が介入し、接近禁止命令が出され、事実上の監視下に置かれた「ストーカー事件の被害者」に手を出すほど、アトラス・グローバルの調査機関は愚かではない。彼らは「効率」と「隠密性」を重んじる。公権力の光が当たっている場所に、自らリスクを冒してまで踏み込むことはないのだ。
社会的地位、キャリア、友人、家族、そして愛した女性の記憶。 すべてを、この一枚の紙と引き換えに差し出した。
「柏木さん、あなたほどのキャリアがある人が、どうしてこんな……」
若い刑事が、哀れみを含んだ声を漏らした。 たくまは答えなかった。理由など、彼らには一生理解できないだろう。いや、誰にも理解されてはならないのだ。この物語の真実が表に出れば、再びユキは「核心人物」として狙われることになる。
刑事が去り、再び静寂が訪れた部屋で、たくまはパソコンを開いた。 もう、「あきら」を演じる必要はない。 彼は、唯一自分の本質を知る友人・みぽりんに宛てて、最後の手紙を書き始めた。
『元気にしてた? ぐるちゃの解散、急で本当にごめんね。長い間、管理人を引き受けてくれてありがとう。……孤独が、俺を蝕んでいたんだ。でも、最後だけは間違えなかったと思いたい』
送信ボタンを押した瞬間、窓の外で冬の陽光が一瞬だけ差し込んだ。かつて、十三時の光の中で、ユキの白衣を照らしていたあの柔らかな光。
たくまは、削除されずに残っているmixiのアカウント画面を見つめた。ユキが最後に応答した、あの一行。「無理しないで。ちゃんと休んで」。それは、アトラスにとっては暗号だったが、たくまにとっては、十年の愛が残した唯一の遺言だった。
たくまは、もう二度とログインすることのないそのページを、ゆっくりと閉じた。 失ったものは計り知れない。 けれど、彼は知っている。明日、ユキが何に怯えることもなく、いつもの薬局で、いつものように誰かのために薬を調剤していることを。
その事実だけで、この敗北は、彼にとって唯一無二の勝利だった。
たくまは、正義にも悪にも属さない場所で生きていた。
ユキは、生き延びるために彼を拒絶し、
純子は、自分の空洞を埋めるために他者へ触れた。
三人の選択はどれも間違いではなく、どれも救いではなかった。
ただ、孤独と誤認が積み重なり、誰も望まない結末へ流れ着いただけだ。
それでも、たくまの最後の行動だけは、確かに誰かを救った。
その矛盾こそが、この物語のもっとも人間的な真実なのだ。




