第四章:狂気の仮面 ── 十一月の突撃
物語はいつも、誰かが限界を越えた瞬間から始まる。
それは叫びでも悲鳴でもなく、静かに軋む心の音だ。
孤独は毒であり、同時に甘い麻酔でもある。
人はその麻酔に身を委ねたとき、自分の境界を見失う。
守るための嘘が、壊すための真実より鋭くなることもある。
この物語は、そんな“境界の消失”を描いた記録だ。
そして、愛が狂気へ変わる瞬間の、冷たい光の物語でもある。
十一月の風は、刃物のように鋭く、たくまの痩せた頬を撫でた。
調剤薬局の自動ドアが開く。電子音が響く中、たくまはわざと猫背になり、焦点の合わない目で出てくるユキをみつめた。三日間剃っていない無精髭、着古したコート、そしてあえて清潔感を消したその佇まいは、かつての端正なエンジニアの面影を完全に失っていた。
「……あきら?」
受付にいたユキが、驚きと戸惑いの混じった声を出す。彼女の目は、かつての恋人を見る温かい光から、「得体の知れない侵入者」を見る警戒の色へと変わっていた。その変化を、たくまは心臓を抉られるような思いで見つめながら、口元には歪な笑みを浮かべた。
「ユキ。大変なことになったんだ」
彼は、周囲の人に聞こえないような、低く、湿った声で話し始めた。 彼は彼女に話があると告げ、二人で駅前のスターバックスへと向かった。昼下がりの平和なカフェ。ベビーカーを押す母親や、パソコンを広げるノマドワーカーたち。その「日常」の風景の中で、たくまは用意していた「最悪の脚本」を、必死の形相で捲し立てた。
「ユキは俺のmixiを閲覧している時に重要な情報を知ってしまったんだ、アトラスの機密情報を閲覧してしまったんだ。通信傍受の罠が張り巡らされている。僕の妻が探偵を雇い君の素性を調べていた。」
ユキの顔から、血の気が引いていくのがわかった。彼女の手が小刻みに震え、コーヒーアメリカーノが入ったカップを握る指先が白くなっている。その怯えた目。それこそが、たくまが求めていたものだった。
「何を言っているの……? 怖いよ、あきら。もうやめて、お願いだから」
「やめられないんだ! 君も監視されている。ほら、あそこの男も、あっちの女も、みんなアトラスの工作員だ。俺が守ってやる、俺が四六時中そばにいて、君をコードから守ってやるから」
たくまは、無関係な客を指差し、わざとらしく周囲を威嚇した。 心の中では、血を吐くような思いで叫んでいた。 (ごめん、ユキ。気持ち悪いよな。怖いよな。でも、もっと怖がってくれ。俺を警察に突き出すほど、俺を拒絶してくれ。そうすれば、警察が君をアトラスの手から守ってくれるんだ)
「もう、来ないで! あなた、おかしいわ。警察を呼ぶわよ!」
涙を浮かべ、席を立つユキ。その背中に向かって、たくまはさらに支離滅裂な叫びを浴びせ、わざとテーブルを激しく叩いた。 彼女の目に映る自分は、今、十年の愛を共有した男ではなく、正気を失い、私生活を脅かす忌まわしい「ストーカー」に成り果てていた。
彼女が震える手でスマートフォンを取り出し、半狂乱で警察へ通報しようとするのを見て、たくまは心の底で、深すぎる絶望と共に、冷徹な勝利を確信した。
12月4日、3度目の訪問、同じようにユキに接触。これでいい。 これで、彼女は「警察に守られる被害者」という、公的権力のシェルターに入ることができる。 ストーカーという「日常の脅威」に警察が介入している間、アトラスのような外資の闇は、不用意に彼女を消去することはできない。
「……あきら、最低よ。死んでよ!」
ユキの叫び声を背中で受けながら、たくまは一人、店内に残された。 彼女に投げつけられた言葉が、毒のように全身に回る。好きなバンドのライブに行き、歌い、聴き、十三時に笑い合ったあの男は、今、自分の手で殺しきった。
残されたのは、愛する人を救うために、世界で一番嫌われることを選んだ、孤独な影だけだった。
たくまは英雄ではなく、怪物でもない。
ただ、自分の孤独に負けた一人の人間だった。
ユキは生き延びるために拒絶を選び、
純子は空洞を埋めるために他者へ触れた。
誰も正しくなく、誰も間違っていない世界で、
すれ違いだけが確実に積み重なり、破滅へ向かった。
その連鎖の中で生まれた“影”こそが、この物語の主役なのだ。




