第二章:広報の女という「窓」
物語を書くとき、私はいつも「人はどこで壊れるのか」を考える。
壊れる瞬間は、決して劇的ではない。
むしろ、静かで、淡くて、誰にも気づかれない。
二〇二五年という年は、
世界が急速に複雑化し、
人間の心だけが取り残されていくような季節だった。
SNSは“居場所”ではなく“監視装置”へ変わり、
仕事は“役割”ではなく“消耗”へ変わり、
孤独は“個人の問題”ではなく“社会の仕様”になっていた。
そんな時代に、
柏木たくまという男は、
深根会のエージェントとして国家の裏側を支えながら、
同時に、一人の人間として静かに崩れていった。
この物語は、
スパイ小説でも、恋愛小説でも、サスペンスでもない。
それらすべての“境界”が曖昧になった時代に、
孤独と喪失がどのように人を侵食していくのか
を描いた記録である。
たくまが出会った広報の女は、
決して悪人ではない。
ただ、彼女もまた、
自分の孤独を埋めるために、
他者の心に触れずにはいられなかっただけだ。
人は、誰かを救おうとして、
知らぬ間に誰かを壊してしまうことがある。
この物語は、
その“すれ違いの連鎖”を描いたものだ。
窓の外では、夕暮れが街を飲み込もうとしていた。 二〇二五年、秋の気配が混じり始めた九月。
柏木たくまは、深根会のエージェントとして、ある外資系投資企業「アトラス・グローバル」による国内インフラ乗っ取りを阻止する任務の渦中にいた。アトラス社は、一見クリーンな投資を装いながら、その実、基幹システムの脆弱性を突き、強引な買収を繰り返す「捕食者」である。
そのアトラス社との公的な窓口となっていたのが、東京都内の某役所、広報課に勤める女性だった。
「柏木さん、お疲れ様です。今日の進捗、少しだけお話しできます?」
役所の廊下で声をかけてきた彼女は、いつも完璧なまでに整ったスーツを纏い、柔らかな微笑を絶やさない女性だった。広報のプロとして、相手の懐に入る術を熟知している。たくまは、彼女からアトラスの内情を探るべく、仕事の打ち合わせを口実に接触を重ねていた。
本来のたくまなら、ここでも「あきら」という偽名の盾と、エンジニアとしての冷徹な観察眼で、彼女との距離をミリ単位で制御していたはずだった。
だが、今の彼は、致命的に脆かった。
夜、誰もいないマンションに戻れば、リビングの壁に残った家族の写真の跡が、自分を責めるように見つめてくる。ユキが去り、家族が去り、自分の人生を繋ぎ止めていた「愛されている」という確信が、音を立てて崩れ去っていた。
「……少し、お茶でもいかがですか? 柏木さん、お顔色が優れないわ」
彼女の誘いを、たくまは断れなかった。役所近くの、古びた喫茶店。琥珀色の照明の下で、彼女は自分の身の上を話し始めた。
「私、主人が……自死だったんです。数年前のことですけれど。あの日から、私の世界の色は変わってしまいました」
彼女の告白には、湿り気を帯びた切実な孤独が宿っていた。それが、今のたくまの「空洞」と、あまりに容易く共鳴してしまった。
「……実は、僕も、最近すべてを失ったような気がしているんです」
孤独という名の猛毒は、たくまの警戒心を溶かしていた。彼は、本来なら墓場まで持っていくべきユキとの十年の記憶を、名前を伏せた「ある女性」の話として、少しずつ、吐き出すように語ってしまった。
「ユキっていうんです。十年間、ずっと僕の心の支えでした」
その瞬間の、彼女の瞳の奥に宿った「光」に、たくまは気づくべきだった。 それは同情ではなく、自分と同じ「闇」を持つ男を見つけた、捕食者の歓喜だった。
「ユキさん……素敵な名前ね。でも、そんなに深い喪失感を抱えたままじゃ、あなたが壊れてしまう。私が、あなたの力になれたらいいのに」
彼女は、たくまの目をじっとみつめ微笑んだ。その優しい笑顔は、その時のたくまには、唯一の救いのように感じられた。
だが、この時すでに、広報の女の背後でアトラス・グローバルの「調査機関」が動き出していた。柏木たくまにあたりをつけていた「調査機関」は、彼女が漏らした「現在、御社に限らず取引業者様のことを調査しています。不備や漏れなどないようにしてください、選定は公平にさせていただきます。」という情報は、冷徹な機械たちによって解析され、柏木たくまの包囲網へと繋がっていく。
書き終えてみると、
この物語は「悪人探し」ではなく、
むしろ「誰も悪人ではない世界」の話だったと気づく。
たくまは、ただ孤独だった。
ユキは、ただ生き延びたかった。
純子は、ただ誰かに必要とされたかった。
三人とも、
自分を守るために選んだ行動が、
結果として互いを追い詰めていった。
現実の世界でも、
人は“正しさ”よりも“痛み”で動くことがある。
痛みは論理を曇らせ、
孤独は判断を鈍らせ、
喪失は人を別の生き物に変えてしまう。
たくまが広報の女に心を開いたのは、
弱さではなく、
人間として当然の反応 だった。
誰だって、
自分の空洞に触れてくれる存在を求めてしまう。
だが、
その触れ方が少しだけ間違っていたとき、
人は簡単に壊れてしまう。
この物語を読み終えたあなたが、
もし胸の奥に小さなざらつきを覚えたなら、
それはきっと、
あなた自身の中にもある“孤独の形”が
この物語に触れた証だと思う。
物語はここで終わる。
だが、
たくまの人生は、
静かに、そして確実に、
別の場所へと流れ続けていく。




