田舎街の名産品
アタッシュケースは新しい地図を吐き出した。東の小さな街。そこに次の遺物はあるらしい。
黒い注射器はアタッシュケースの中でこちらを睨んでいるように見えた。その内部には半透明な黒い液体が波を打っていた。
──日に数本のバスを乗り継いで、私は田舎街にたどり着く。
「おやまぁ、こんな田舎によく来たね」
老人の声が背中から聞こえた。振り返ると、満面の笑みをこぼした老婆が腰を曲げて立っていた。整った真っ白な歯並びに、私は違和感を覚えた。
艶のある白髪、しわ一つない洋服、身体を支える杖には傷も泥汚れもない。
「観光です。この街には何か名産はありますか?」
私は違和感の正体を探った。
すると、老婆は少し眉間にしわをよせる。
「そりゃ茶葉だね。知らないのかい。誰でも健康になれるお茶さね」
急に老婆の顔の影が濃くなった気がした。
「どれくらい、滞在するのかい?」
私は一泊だと答え、老婆に礼を告げると街の中心を目指した。
するとそこかしこに、健康、長寿と銘打つ茶屋が軒を連ねていた。私は一番大きく、派手な店に足を運んだ。
「らっしゃい。なんにしやすか」
坊主頭の男は手を揉みながら話しかけてきた。
口調は砕けているが、年齢は還暦を超えている気がした。そしてまた、服装は妙に整っていて田舎臭さをまったく感じさせない。
「おすすめを」
私がそう告げると、男は小さく頷き、何も言わずに店の奥へ消えた。
男が消えた瞬間、背筋は急に冷えた。店内には、お茶を飲むためのテーブルと椅子の他に、様々な茶葉の箱が置かれていた。
「深みのある最高峰の香り」
「この茶葉で長寿をその手に」
「高血圧改善、冷え性解消、健康促進」
どれもこれも、理想を文字にしたような健康への身体的効果が記されている。
その謳い文句は、どこかで聞いたことのあるフレーズに見えた。
ふと、茶葉の箱の前に置かれた小さな値札が目に入った。そこに記された1の後にあるゼロの数を数える。
んっと、違和感を覚えて、もう一度数える。
……何度も数え直す。
そして目を疑った。
「¥100,000円」
ゼロの数が多い。
ひと箱10万円。特に違法というわけではない。だが、高すぎる。
私は、はっとした。
すでに私はおすすめのお茶を注文している。
そのお茶は今更取り下げるわけにはいかない。値段を理由に無下にすることは、はばかられる。私は背中に汗をかいた。
数分後、お盆に重厚な椀を乗せた男は戻ってきた。木のテーブルにコトリと置く。
「お待ちどう様」
私はそのお茶をいただく。
香りもよく、とてもうまい。
だが、感情が高ぶるほどではない。市販品と言われれば否定もできない。淹れたてのお茶は、うまいものだ。
「ごちそう様です。深みのある良い味でした」
私は椅子から立ち上がり、財布を取り出した。
男は笑顔で言った。
「ありがとうございます。800円になります」
財布をあと少しで落とすところだった。
拍子抜けするくらい普通の値段だ。
私は代金を支払い、レシートを受け取ると、それを置き、店を後にした。
街を歩き、店を回った。
どこの店も同じように、価格が異様に高い。
けれど、その店のおすすめを頼むと普通の価格が言い渡される。
私は分からないようにひっそりとそれを置いていく。
振り返ると坊主頭の男が、床に落ちたレシートに気づいた。
それを拾い上げ、じっと見つめる。
その目が、一瞬だけ泳いだ。
すぐにいつもの笑顔に戻ったが、
口の端が、わずかに引きつっていた。
すると、背筋が急に痺れた。鳥肌が全身を覆う。私は急いで商店街から離れた。
ドプン。
商店街は闇の中に沈んだ。
しかし、私はあまり納得がいっていない。
置いたものは普通の価格が記された”レシート”だ。
価値の違和感を捉える。それが、闇を顕在化させる。けれど、店員の普通の対応が違和感を増幅させていた。
これは闇の一部でしかない。
私はそう思いながら、地図にバツ印を加えた。
太陽の光は周囲を囲む山々に飲み込まれていく。ぽつりぽつりと設置された街灯が瞬くように灯りはじめた。
私は旅館の戸を叩いた。
「今晩泊まりたいのですが?」
受付の老婆は、にまりと真っ白な歯を覗かせた。
「お部屋はたんまり空いておりますよ。夕食はお付けしますかい?ちょうど新鮮な山菜が取れましてね」
私は部屋と夕飯を頼んだ。
老婆は受付の下から札が付いた鍵を取り出すと、それを差し出した。
「夕食は後ほどお部屋にお持ちします」
私は鍵を受け取り、旅館の廊下を歩いた。
ぴかぴかに光る廊下。丁寧なワックスがけが見て取れる。窓も壁もまるで新品のように汚れがなかった。
廊下には、懐石料理のチラシが貼ってあった。そこには、「限定特価!¥50,000円」と値段が打ち出されている。それを見た瞬間、鼓動が音を立てて跳ね上がった。
部屋の中には、畳の香りが充満していた。決して不快ではない。清潔で過不足もない。けれど、居心地だけは、良くなかった。
──「失礼しますよ」
受付の老婆は赤褐色の大きなお盆で夕食を運び入れた。
お盆には様々な料理が並んでいる。
からっと揚がった山菜、鮭の西京焼き、里芋の煮物、そこに、豆腐とわかめのお味噌汁と白い湯気に米粒が光るご飯。
お盆の隅には、黒蜜のかかったわらび餅。
その夕食は、こじんまりと整っていて、田舎特有の大盛りや名産品の押し売りといった雰囲気はなかった。どちらかといえば高級料亭を意識しているように思えた。
私は心の中で思わずにはいられなかった。
”値段が張りそう”
明確な値札はない。けれど、頭の中では理解してしまっていた。
私は、夕食をいただいた。もちろん美味い。食後にお茶も出た。けれど、味が分かる前に、何かが喉の奥に引っかかっていた。
──夜も更けた頃、私は街の歓楽街のバーで、地酒を飲むことにした。
バーに入ると、マスターらしき男はすぐに話しかけてきた。
「どんなものをお探しでしょうか」
その男の服装は、ワイシャツに黒いベストを着込み、灰色のスラックス姿だった。
バーのマスターとして一般的。都会なら気にしない程度の服装。
しかし、彼の服にはしわがあり、革靴は土で汚れているように見えた。
この田舎街の積み上げられた違和感は、彼がこっち側だと私に直感させた。
バーには私の他に数人の観光客らしき人が酒を嗜んでいた。
私はマスターにこの街の何気ない出来事を話したあと、声を潜めて問いかけた。
「この街は、やけに整い過ぎていないか?」
マスターの眉間のシワが深くなる。
「町長が変わってからだ。あの男は、どこか胡散臭い」
私は、値段を聞かずにグラスを掴み、透明な地酒を飲み込んだ。
「価格設定を変えたのか?」
その問いに、マスターの声は急に低くなった。
「そうだが、たぶん違う。俺から言えることは、みな責任逃れをするようになったことだ」
それ以上、マスターはこの件に対して口を開こうとはしなかった。
すると、急に背筋が熱くなった。
酒が回ったわけではない。鳥肌が私を追い立て、足を出口に向けさせる。
私はマスターに金を払うと、バーを後にした。
ドプン。
バーは闇の中に沈んだ。
……何も置いていない。
会話するだけで沈んだのは、はじめてだった。バーの中にいた数人の人々は何かを知ったのかもしれない。
私は地図にバツ印を書き込んだ。
──翌朝、旅館の食堂で朝食を食べた。
そこにも、上品な食事が並んでいた。
けれど、料理を運ぶ女性の態度が、少し冷たく感じた。
私は、胸騒ぎを抑えられなかった。
さっきまで無害だった街の輪郭が、わずかにこちらへ傾いた気がした。
部屋で仕度を済ませ、チェックアウトするために旅館の受付に行く。するとそこには、筋肉質な男二人が受付の両脇に胸を張って立っていた。
受付に向かって立っているのではない。受付を背にしている。まるでそこを、守護するかのように。
私は受付に鍵を置き、老婆に告げた。
「心地よい部屋と素晴らしい食事でした。して、代金はいくらでしょう」
その瞬間、二人の男はこちらへにじり寄った気がした。
「代金は、お気持ちでお願いしております」
老婆の頬は小さく上がった。
鼓動が高鳴る。安価な提示は許されない雰囲気、すでに寝て、食べてしまった事実。明らかに相場が高いと、身体の奥がもう計算を終えていた。
一般的な価格は通らない。こちらが圧倒的に不利。何より、二人の筋肉質な男の配置がすべてを物語っていた。
……ここで、ことを荒立てるのは得策ではない。
私は十五万円を支払い、旅館を後にした。
この街のカラクリは理解できた。
私はアタッシュケースをカチリと開けた。
そこから、一枚の紙を取り出した。
私は忘れ物をしたと受付で告げ、泊まった部屋に戻った。
そして、白紙の領収書を机の中に忍ばせた。
この紙にペンはいらない。
観光客は相場を心の中で思い浮かべる。
私は様々な場所に白紙の領収書を忍び込ませた。
しばらくすると、背筋は凍りつくように冷たくなった。あと五分ほどで何かが来る。その確信が皮膚の内側で訴えていた。
受付には、筋肉質な男の姿はなかった。この街で彼らを見かけたことはない。その足取りは、きっとバツ印が導いてくれるだろう。
街を歩いていると、それはやってきた。
ドプン。
旅館が闇に沈んだ音。
見えない価値に、人々はゆっくりと沈んでいく。
それは、この街そのものを蝕んでいるようだった。
私は地図にバツ印を書き込む。
茶屋、酒屋、そして旅館。
三つのバツ印は、ある一点を囲んでいた。
そこにあるのだろう。
この街の“中枢”が。
歩いているうちに、私は奇妙なことに気づいた。
街路のあちこちに、四角い染みが残っていた。
この街では、一般的な価値そのものが消されている。
私はアタッシュケースから一本の缶を取り出し、道の脇にそっと置いた。
──バツ印の中心。
そこにあったのは、この田舎街で唯一の警察署だった。
灰色の建物は、朝の光の中でも重く沈んで見える。
監獄のような四角い輪郭。
黒光りするパトカーが三台、正面に並んでいる。
私は中に入った。
窓口には老人たちが列を作っている。
その背中から、薄い闇が滲み出していた。
奥の小部屋から、若い男女がとぼとぼと出てくる。
彼らの影は、床に貼りついたまま、なかなか離れなかった。
私の順番が来る。
強面の警察官が、窓口に手をついて言う。
「ご用件は」
私は静かに答えた。
「この街の宿泊施設が、価格を提示しないまま営業しています。
それは、違法です」
警察官の目が、わずかに曇る。
「そのようなことはありません。価格は表示されています」
私は、ポケットから白い紙を取り出し、窓口の前にチラつかせた。
警察官の喉が、ひくりと動いた。
「……少し、確認します。こちらへ」
小部屋の扉が閉まる。
「その紙は証拠として預かります」
警察官が一歩、こちらへにじり寄る。
私は手のひらを開いた。
そこには、白紙の領収書があった。
その瞬間、警察官の瞳が灰色に染まった。
ドプン。
警察官の足元は闇に染まった。そして時が止まったかのように、瞬きもせず、沈黙している。
小部屋の壁から、丸い掛け時計から、パイプ椅子から、じっとりと黒い液体が滴り落ちた。
それらは部屋の中心に向けて集まる。
……来る。
黒い水飛沫が部屋を染め、その中からひとつの急須が現れた。
赤茶色の、重たそうな器。
口からは、どす黒い茶が溢れ出している。
健康。長寿。ご利益。
それらの言葉に、人は際限なく金を払う。
この街の闇は、その形をしていた。
私はアタッシュケースを開き、
黒い注射器を警察官に刺した。万能薬の遺物。それはこの闇を塗り替えられるかもしれない。
すると闇の色が、ゆっくりと薄れはじめた。
違う闇が、警察官を染めていく。そうして警察官の目は徐々に色を取り戻していった。
「なんだ、これは……」
警察官は青ざめた顔で部屋の中を見た。
闇で覆い尽くされた部屋。そこに沈む二人。
警察官は慌てて扉をこじ開け、部屋の外へ出た。急須は警察署の中を飛び回り、人々を黒に染めていく。もはやこの街では、観測で闇は消えなかった。
「私はまだ、染まりきっていない」
急須に向けて大きな声で告げた。
すると急須は、向きを変え、私に向かって飛んでくる。
私は警察署を飛び出し、外に点々と存在した黒いシミの前で急須を待ち構えた。
これが、価値だ。
そこには自動販売機で売っているお茶の缶がある。
¥150円
定められた低価格。それは疑いようもない事実。街行く人々は自動販売機のお茶の缶を意識した。
すると急にコロンと音を立てて急須は地面を転がった。私はそれをアタッシュケースに収めた。




