黒の医療
小型のスピーカーを、机の下にそっと滑り込ませた。
それが何を拾い、どこへ運ぶのかは考えない。
丸い窓の外には、真っ暗な闇がどこまでも続いていた。
ここにいるのは危険だと、身体の奥が騒ぎ立てている。理由は分からない。ただ、そのざわめきだけは、これまで何度も私の命を拾ってきた。
アタッシュケースに道具を詰め込み、ホテルを後にする。あと三分ほどで何かが来る──そんな確信が、皮膚の内側を這い回っていた。鳥肌が、ゆっくりと波打つ。
街道をガラガラとタイヤが転がる。デコボコの装飾の道は失敗だったかもしれない。振動と騒音が、身体の奥の微かな信号をかき消していく。それを見失うことは、死に直結する。
アタッシュケースが段差にぶつかり、ガタッと大きな音を立てた瞬間──それは来た。
ドプンッ。
何かが闇に沈んだ音。
私は足を止めた。
しんとした真夜中の街が、ゆっくりと沈んでいく。音はない。けれど、先ほどまであったホテルと、その周辺が、確実に闇へ飲み込まれている。
ざらついた夜の風が、皮膚の奥の感覚を刺激し続けていた。
この街には、闇が潜んでいる。人々は漠然と何かを感じ取りながらも、その闇に身を任せ、静かに染まっていく。このホテルは闇の取引に使われていたのだろう。
アタッシュケースの中からこの街の地図を取り出す。
そこにバツ印を書き込んだ。この街では八個目。その中心となる場所は、ほぼ確定した。
私は公園の木陰で、来るはずの朝を待った。
──いつまで経っても、光は訪れない。
腹は減り、眠気も虚無感もいつも通りに積もっていく。
嫌な感覚が脳裏をかすめる。
私はゆっくりと、公園を見渡した。
すべり台が一つ。
ブランコが二つ。
トイレが一つ。
……茂みが八つ。点々と。
視線に入った瞬間、背筋が少し冷たくなった。
そこに、禍々しい闇の窓が開いている。
私はアタッシュケースを開け、
電池式の小さな送風機を取り出した。
電源を入れ、茂みのそばへそっと置く。
次第に、鉄と腐肉の臭いが、風に乗って流れ出した。
鳥肌が、顔をなぞる。
「……来る」
私はケースを閉じ、公園を離れた。
ドプンッ。
緑の茂みが、褪せた黒に染まる。
しばらくして、空がわずかに白み始めた。
色褪せた遊具が、鈍い光を受けて浮かび上がる。
もう誰も、
あの黒い茂みを、なかったことにはできない。
そこを浄化するのは、私の仕事じゃない。
私はただ、闇をこの世界に引き戻すだけだ。
バツ印が取り囲む建物へ、私は足を向けた。
そこは、小さな診療所だった。
外壁には灰色の樹木が絡みつき、入り口のドアには赤茶色の染みが滲んでいる。そこにはすでに、闇が顕在化しているように見えた。
私はそれを遠目から眺めた。
街の人々は、気にする様子もなく、過ぎ去っていく。
目の縁に映る黒い診療所は街の影のようになかったことにされる。
そのたびに、人々は沈み、足元の影が伸びていく。
私は診療所の外壁のつるを1か所だけ切り取り、そこにペットボトルで水をかけた。
診療所のドアを開く。カランというベルが室内に響いた。
「どなたか、いらっしゃいますか」
小さく言葉を吐き出す。けれど、その声は壁に吸い込まれるように消えていった。
……返事はない。人の気配もない。
ただ、違和感だけが背中を痺れさせていた。
入り口には曇ったガラス張りの受付と長椅子が並べられていた。長椅子の生地は捲れ上がり、中のスポンジはボロボロに破れている。
一歩踏み出すと足元に違和感があった。玄関マットに隠れて、診察券のようなカードが床に散乱している。
私はその一つを拾い上げた。
「万能診療所」
「あなたの違和感、治します」
診療所の名前とキャッチコピーだろうか、黒い染みが広がり、その他の文字は読めなかった。
ゆっくりと奥へ進み、診療室のカーテンを開けた。
丸い椅子がふたつ。
一方の机の上には注射器と、薬液を塗布するための金属製の器具。
奥の棚には、カプセル状の薬や、透明なガラス容器に満たされた液体が整然と並んでいる。
──どれも、黒い。
どろりとした液体が、注射器の根元に、ガラスの縁に、椅子の脚にまとわりついていた。
薄く、しかし確実に、この部屋のすべてを侵している。
私はアタッシュケースを開ける。
中から取り出したのは、聴診器だった。
机の上にそっと置いた瞬間、
それだけが、この部屋の空気をわずかに切り裂いた。
ここには、診るための道具がない。
あるのは、注すものと、塗るものと、飲ませるものだけだ。
人々は違和感を確かめるためにここへ来る。
けれどここでは、それは確かめられず、決めつけられるのだろう。
薬と注射が、身体の声よりも先に答えを出す。
──診療はしても、診察はしない。
それが、この場所の闇なのだと感じた。
きっと、薬に効果はあったのだろう。
椅子の擦れ方も、床の沈みも、訪れた人間の多さを物語っている。ただ、その確認不要な副作用は人々を着実に蝕んでいく。
ドプン。
聴診器の先端が、机の表面に沈み込んだ。
黒い液体が、そこからじわりと滲み出す。
ドプン。
丸い椅子の脚が、床に飲み込まれる。
闇は、触れたものから静かに広がっていく。
ドプン。
待合室の方角で、何かが軋む音がした。
受付も、長椅子も、同じ水面の下へ引きずり込まれているのだろう。
皮膚の裏で、何かがひっくり返る。
この部屋の中心に、視線のようなものが生まれていた。
「……姿を現せ」
声を落とした瞬間、
部屋の黒が、ひとつの場所へ集まり始めた。
床の中央に、光を反射しない水溜まりができる。
そこに、波紋が浮かぶ。
次の瞬間、
どろりとした闇の中から、一本の黒い注射器が這い上がった。
それは宙に浮かび、部屋を巡る。
通った軌跡に、黒い液体が飛び散る。
「……やはり、簡単にはいかないか」
私はカーテンに手をかけた。
注射器が、鋭い音を立ててこちらへ飛ぶ。
引き裂くように、布を開く。
灰色の樹木に覆われた診療所。
その一か所だけ、つるを切り、水をかけた窓から光が射し込んでいた。
黒い注射器は、光の中で硬直した。
見られている。
そのことだけで、存在は縛られる。
コトリ、と音を立てて、黒い注射器は床に落ちた。
私はそれを拾い上げ、アタッシュケースに収めた。
──万能薬。
違和感を黙らせるための注射器。
診察を拒み、答えを押しつけるそれが、
この街を、黒く染めたのだ。




