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Hate to say goodbye:名残、2024年秋冷ー①


「さっき送った文書を、東京支店のマネージャーに転送しておいてほしい」

 10月最初の出勤日は、由良部長の呼び出しからはじまった。

 デスクにバッグを置くなり、狙ったように「三日月さん」と呼ばれ、あやうくコンビニコーヒーのカップを落としそうになった。冷や汗をかきながら小走りで窓際に向かい、まず「おはようございます」と頭を下げる。


「おはよう。来週、東京出張になったから、航空券とホテルの手配をよろしく。文書は、その出張に係る行程表です」

「承知しました。支店近くのホテルをいくつかピックアップします。飛行機の座席は窓側でよろしいですか」

「窓側は君に譲ります」

 承知しました、と機械的に返そうとして思考が止まった。いま、なんて言った?

「あの……君に、とは」

 由良部長は眉ひとつ動かさない。パソコンの画面から視線を逸らすことなく、「三日月さんにも同行してもらうことにしました」と平坦な声で言う。

「来週、でしたよね」

 一挙に押し寄せてきたさまざまな感情や憶測の中から、もっとも現実的なもの――要するに自身の仕事に穴を空けることにはならないのか、を確かめようと、脳内をフル回転させる。重要な会議は入っていなかったか。いま手掛けている仕事の締切は被っていないか。

「10日の木曜日から1泊2日です。三日月さんの行動予定を確認しましたが、特に会議や打合せは入っていません。永野室長にも確認済です」

 思わず「えっ」と声を出してしまう。じろりと睨まれて「申し訳ありません、つい」と取り繕う。心臓が本格的にばくばくと音を立てはじめる。わたしはいま、とんでもない提案をされているのではないか。


「東京支店に行ったことは?」

「一度だけです」

 入社した年に、研修という名目で同期一同連れて行かれたきりだ。東京支店は吉祥寺駅前の商業ビルに入っており、店舗面積としては本店の次に広い。

「さすが東京に構えている店舗とでもいうべきか、訪れるお客様も働いているスタッフも感度が高い。いい勉強になるでしょう。君も向こうでの会議に参加できるよう取り計います」

 そこではじめて由良部長と目が合った。いつもの温度を感じさせない、氷のような表情――では、なかった。

「永野室長には、秘書的業務とデザイン室スタッフとしての業務、どちらにもプラスになるという理由で納得させました」

 若干、微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。させた、という言葉尻があまりにおそろしくて、まだ空いたままのデザイン室長席を直視できない。


 席に戻って長い深呼吸をした。とりあえず落ち着いて、頭の中を整理しなければ。それから、自分がすべき仕事をひとつずつ片づけていく。余計なことは考えない。いまは。

 まずは東京支店のマネージャーに電話を入れて、頼まれた文書をメールで送る。それから由良部長と詳細を打ち合わせて、行程表の作成をする。スケジュールが見えてきたら、航空券とホテルの手配。もう日にちがない。これらの仕事を、少なくとも明後日までには終わらせたい。

 まるで波のようだ。引いたと思ったのに、気づけば満潮になっている。

 あの食事会から2週間が経ったけれど、その(かん)、特に大きな出来事はなかった。瑞帆くんが言うような、お互いを特別な存在として認識している、と思える出来事はひとつもなかった。そしてそれは当たり前のことだった。なぜならわたしと由良部長はただの上司と部下、それ以上でも以下でもないのだから。


「都羽ちゃん、おはよう」

 女性としてはどちらかというと低めの、けれどもハスキーではなく、艶のある、と表現するのがぴったりの声だ。突然降ってきたその声に縮み上がりそうになって、ひと呼吸置く。永野室長には、納得させました。いつもより1ミリくらい弾みを含ませた声が、耳の奥で響く。

「亜梨沙さん、おはようございます。あの、少しお話が」

「ちょうどよかった。都羽ちゃんにお願いしたい仕事があって声かけたの。ちょっといい?」

 確かに笑っているのに声は無表情で、そのアンバランスさがとてつもなく怖い。都羽は巻き込まれてる! と憤る花緒を想像する。

 打合せスペースで一対一で詰められる、という予測は裏切られ、亜梨沙さんはまっすぐ自席に向かった。ノートパソコンとモニターの電源をつけるなり、フェラガモのシックなトートバッグからタブレットを取り出す。彼女が真顔でスワイプしているあいだ、立ったまま黙って待つ数十秒が、永遠のように長い。


「都羽ちゃん、前に言ってたでしょ。次はファブリック製品を担当してみたいですって」

 亜梨沙さんは、延々とスワイプを続けている。

「やってみる? みんなのアイディアが煮詰まっちゃってて、いったん白紙にしてみようかって話してるところなの」

 寝具と、マットと、カーペットと、カーテン。どれがいい? 突如顔を上げて、切り貼りしたような笑顔を向けてくる。

「え、っと……ちなみにその仕事って、締切的には」

「来週の木曜」

「10日ですか?」

「そう、10日。あっ、でも都羽ちゃん、東京出張だっけ。じゃあ水曜締切ってことになるね」


 どうかな、担当じゃないスタッフの意見も聞いてみたくて、ぜひ都羽ちゃんにお願いしたいんだけど。字面だけを見ると相談を持ちかけてきているようだけど、実際のところ、わたしに選択の余地なんてない。社会人も5年目になれば、これは立派な上司命令だとわかってしまう。

「水曜締切ですね。承知しました」

 表情を変えないように硬く引き締めた。この指示に、他意はない、はずだ。

「せっかくだから、全部やってみる? 寝具、マット、カーペット、カーテン」

 うん、やってみようよ。ぱん、と勢いよく両手を合わせた音が、号令のように事務室内に響く。

「全部、ですか」

 自分がすべき仕事をひとつずつ片づけていく。先ほどそう決意したはずなのに、出勤してからのわずか数十分で、ドカ雪のように仕事が降り積もっている。


「うん、全部。都羽ちゃんなら大丈夫だよ。出張行けるようにがんばってね」

 カシスピンクのルージュを引いた唇が、きれいなかたちに吊り上がる。瑞帆くん曰く鈍くていい子ちゃんのわたしでもさすがにわかる。もしかするとこれは、意地悪、に近いなにかかもしれない。



「いや、完全に意地悪でしょ。嫌がらせでしょ。イジメでしょ。ていうかパワハラ?」

 とてもそんな場合ではなくなってしまったので、ご飯を食べる約束はまた今度にしてほしい。花緒にそのようなLINEを送り、流れで事情を軽く説明したところ、わずか1分で返信が来た。

 金曜日の20時ともなれば、残っている社員はまばらだ。だいたいは家族サービスかデート。どちらの予定もないわたしは、すっかりよれたメイクに萎える気持ちを抑えながらパソコンに向かっている。

 デザイン室の社員は全員帰宅している。もちろん、亜梨沙さんも。


「なんか手伝えることある?」

 返信を打ち終える前に、花緒からまたLINEが届く。「気持ちはめっちゃ嬉しいけど、せっかくの金曜なんだからゆっくり休んで。ドタキャンしちゃって本当にごめんね」ありがとうとごめんねのスタンプを連続で送ると、すぐに既読がついた。「困ったらすぐに言って。今度、塚本先生に相談してみようか?」――法務部は対外的な案件だけでなく、あらゆる内部トラブルの解決にも一役買っているらしい。

 とはいえ、ここはナガノという会社であり、社長は亜梨沙さんのお父さんだ。いち社員であるわたしがなにかを訴えたところで、ただ居づらくなるだけだろう。それに、パワハラだと決まったわけでもない。


「ありがとう。ちょっと考えてみる。とりあえず残りの仕事やっつけるね」

 花緒にもう一度「ありがとう」スタンプを送って、スマホを裏返した。壁時計を睨みつけて、22時までには帰ろうと算段する。

 ――亜梨沙さんが、パワハラなんてするわけない。あんなに頼りがいがあって、上の人たちにもはっきり意見を言えて、常に部下の味方でいてくれるような人が。入社したときからずっと、まるでお姉さんのように接してくれている、憧れの人が。

 出張の命令を受けてから連日の残業のせいで、心が弱っているのだろうか。喉元にせり上がってきた熱をなんとか飲み下し、潤みかけた目頭を指で擦る。

 泣いている場合じゃないのだ。あれから二度ほど案を出してみたけれど、すべて亜梨沙さんに却下されてしまった。出張の行程表も完成していないし、航空券とホテルの予約もしていない。それだけでも今日終わらせないと、出張旅費の請求が間に合わない。


「……がんばったら、コンビニで甘いものとビール買って帰る。で、ドラマの続き観ながら食べる」

 念じるように呟いて、作りかけのナンバーズのファイルを呼び出す。まずは行程表からだとキーボードに指を置いたところで、規則正しい足音が聞こえてきた。

 はっとして部長席を見遣る。ノートパソコンはデスク上に出たままだ。

「三日月さん、まだ残ってたんですか」

 背後から予想どおりの声がして、一瞬、振り向くか迷ってしまった。そこに亜梨沙さんがいるのではないか。由良部長と話をする必要があるとき、最近のわたしはいつも、そればかり気にしている。

「はい。ちょっと、仕事が終わらなくて」

「それは行程表だね。そのままでいいから、チャットで転送して」

 由良部長は分厚いリングファイルを抱えていた。めずらしく、ワイシャツが少しよれている。


「あらかたできてそうだし、続きは俺がやるよ。あと、出張関連で残ってる業務は?」

 また、俺、って言った。思わず事務室内に誰もいないことを確認してしまう。さらりと一人称をすり替えられると、せっかく最大限まで広げている距離が、急に縮まってしまう気がするのだ。

「……航空券とホテルの手配も、まだ」

「じゃあそれも俺が。ホテル、品川でいい?」

 香水より、タバコの香りのほうが今日は強い。また喫煙室に寄ってきたのだろうかと考えながら、自席に戻ろうとする背中を呼び止めた。


「わたしがやりますので、由良部長はお気になさらないでください。仕事が遅くてすみません」

 自分の処理能力の低さを知られてしまったようで恥ずかしい。情けなさを押し殺しながら、白いワイシャツの背中を見詰める。

「三日月さんの仕事が遅いと思ったことは一度もないよ」

 由良部長が振り向いた。前髪の束が、少しほつれている。

「君が連日残業しているのは、俺が出張を入れたせいだから」

「ですが」

「君を連れて行きたいと言った俺が、永野室長の神経を逆撫でしたんです。だからいまは、デザイン室の仕事に専念してください」

 平坦であれ、という抑制が含まれているような声だった。あやうく滲んでしまいそうな感情を必死で押し殺しているような。

 ふと、食事をした夜を思い出す。あの夜の由良部長もきっと、見え隠れしそうな感情というものを必死で制御していた。理由は、見当もつかない。


「こういった出張の際は離れた席を取ることが多いけど、今回は勘弁してください」

 パソコンの画面が発するぼんやりした光が、整った顔を鈍く照らしている。

「直前なので、朝一の便はほぼ満席です。だけど、奇跡的に続きの席がひとつ」

 東京支店との会議は11時からだ。確かに、朝一の便でなくては間に合わない。

「俺は飛行機ではほとんど寝てるから、気にしなくていいよ」

「そんなわけには」

 飛行機の座席というのは、隣とほぼゼロ距離だ。肘掛けを降ろしたとしても、車の運転席と助手席の距離よりは確実に近い。


「むしろ、気にしないでもらえると助かる。君はいつも他人を気遣ってばかりいるけど、会社の外でまで顔色を窺われたらこっちの肩が凝るよ」

 そう言われてしまっては「わかりました」と応じるしかない。由良部長はもう予約を終えたらしく、「東京出張のときにいつも泊まるホテルでいいね」と呟いた。わたしに尋ねているというよりは、ただの確認作業のようだった。

「懇親会を開くと東京支店に言われたけど、断っておいたから」

「えっ」

「言ったでしょう。誰にも邪魔されない機会をつくるって」

 勢いよくノートパソコンを閉じて立ち上がり、君ももう帰りなさい、と厳しい口調で続ける。


「さすがの亜梨沙も、東京までは追いかけてこない」

 処理が追いつかないのは、やはり能力の問題か、それとも疲れているせいなのか。

 由良部長が大股でこちらに向かってくる。次はなにが起こるのかと身構えていると、わたしのデスク上になにかを置いた。コンビニでよく見かけるタイプのチョコレートだった。

「いつかのコーヒーのお返しです」

 香水とタバコの、由良部長のものだ、とインプットされてしまっている匂いが去っていく。平坦であれ、と言い聞かせながら、早鐘を打ち続ける心臓をなんとか落ち着けようとする。


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