Warning:警告、2024年秋雨前線ー②
お昼、社食で花緒と落ち合う前にメッセージを送った。今夜、亜梨沙さんから食事に誘われました。由良部長もお誘いすると言っていました。すぐに既読がつき、それではまた今度、とひと言だけ返ってきた。怒っているのかもしれないと不安になったけれど、それならどうすればよかったのだろう。いくら他意はなくとも、後ろめたい約束に違いない。
やわらかなアイボリーのシフォンブラウスと、お気に入りのテラコッタのマキシ丈ロングスカートを選んだ自分が、最低な人間に思えた。他意なんかない。あるはずがないし、あってはいけない。
釈然としないまま定時まであと1時間というころ、お手洗いに行こうと事務室を出たところで由良部長に捕まった。なにも言わず打合せスペースに入っていく白いワイシャツの背中に、わたしも黙ってついていった。
まるで密会みたいだ、と思ってしまった。他意はないと心の中で繰り返していた。
「巻き込んでしまって申し訳ない」
わたしが後ろ手にドアを閉めるなり、由良部長はそう言って頭を下げてきた。ありえない光景に茫然としたが、すぐ我に返る。
「あの、顔を上げてください。こちらこそすみません。ドタキャンのようになってしまって」
「亜梨沙は、俺と君の関係を勘違いしているのかもしれない」
今夜の約束についてはリスケさせてほしい。苛立ったように室内を歩き回りながら、事務的な口調で続ける。心臓に細く冷たい針を刺されたような心地がした。勘違いしているのは、わたしなのではないか。
「来週の金曜はどう? 俺のほうは」
「そこまでして、どうして」
ここから一歩でも出れば、その一人称は従来のものに戻るはずだ。他意はない部下の前で、なんのためらいもなく一人称をすり替えないでほしい。
「……せめて、お昼にしませんか。外勤のついでにランチを摂りたいのであれば、お供します」
「秘書としての範疇内で?」
「はい。業務として与えてくださるなら」
これ以上深入りするのは危険だと、花緒や瑞帆くんに言われるまでもなくわかっている。
壁を作っておかなければ。たとえそれが、脆く壊れやすい泥の壁だとしても。
「それでは、君とゆっくり話せない」
つやつやと黒光りしているダブルモンクストラップシューズのつま先が、こちらを向いた。ブラインドの隙間から射し込む傾いた陽が、乾いた髪の毛の先を透かしている。
「もっと詳しく、深いところまで、君という人間を知りたいんだ」
纏う香りに、甘さよりもスパイスが際立っているのは、一日を終えようとしている時間帯だからだろうか。包まれる、なんて生やさしいものじゃない。これ以上近づかれたら、呑まれてあとかたもなくなってしまう。
「誰にも邪魔されない機会をつくろう。食事はそのときに改めて」
ドアに手を掛け、最初から決まっていたことのようにそう言って、由良部長は打合せスペースを出ていった。残り香に胸が詰まりそうで、わたしもすぐに事務室に戻った。
「それ、ずるくないですか。大人の余裕ってやつですか」
さすが由良部長、なあ都羽。瑞帆くんの声にはっとした。顔を上げると、すでに二杯目のワインを注文した亜梨沙さんが、真顔でわたしを見ている。
「譲司はそういうの、明言したがらないんだよね。ノリ悪くてごめんね」
笑みを浮かべながら由良部長に首をかしげている姿は、色っぽい、というより女っぽい。当人は意に介さず、といった表情で、黙々とアンティパストを平らげている。
「そういえば、由良部長は飲まないんですか。このワイン、最高ですよ」
「車だから」
「代行とかあるじゃないですか」
「金曜だから捕まらないかもしれない。待たされるのは面倒なんだ」
「じゃあ帰りは家まで送ってね、譲司」
亜梨沙さんの向かいに座っているはずなのにほとんど表情がわからないのは、彼女がずっと左を向いているからだと気づく。由良部長のことが好きでたまらないのだ。ふたりの姿をこうして見ていると、それがありありと、痛いほど鮮明に伝わってくる。
――永野室長にとって由良部長は所有物に近いものがあるっていうか、恋人とか婚約者っていう対等な関係に見えないっていうか。
――だけど、譲司の本意じゃない。
――牽制されてんだよ。わたしの大事な譲司を取らないでって。
由良部長は亜梨沙さんのことを、本当はどう思っているのか。どれが真実なのかを知りたい気持ちが芽生えてしまったのは、悪いことなのか。
この人の本心は、分厚い氷に閉ざされている。それがどんな色でどんなかたちをしているのか、想像すらできない。
「譲司ってね、ちょっと変わってるの。山の手の平屋にひとりで住んでるんだよ」
亜梨沙さんの頬がほんのり赤く染まっている。酔いが回ってきたみたいだ。
「ひとりで一軒家なんだよ。マンションとかじゃなくて」
「まさか建てちゃったんですか?」
「ううん、賃貸。どうしても平屋がいいっていう譲司のために、パパが探してきたの」
彼女が言うところのパパと我が社の社長が同一人物だと結びつくまでに、数秒間を要した。社長が一社員の住む部屋をわざわざ調達した、という事実に、瑞帆くんは驚きを隠さない。
「やっぱ、由良部長は特別なんですね。俺らとは違うな。超シゴデキですし」
ボロネーゼが運ばれてきて、ひき肉とトマト、香味野菜の匂いがテーブルを満たす。食欲など湧かないと思っていたけれど、本能は単純で正直だ。
「パパは、譲司にすごく期待してるの。娘のわたしなんかよりずーっと」
「いやいや、なにをおっしゃいますか。永野室長だって超シゴデキ、女性社員の憧れの的ですよ」
瑞帆くんの口調がどこまでも軽くて、うんざりしてしまう。この人の本心は、宙に浮遊している。掴むことができないどころか、どこに漂っているのかもわからない。
「白戸くん、口がうまいね。さすが、1部署にひとり彼女がいるって言われてるだけある」
「俺、そんなこと言われちゃってんすか。やめてくださいよ、本命の前で」
ちらちらと意味ありげに飛ばされる目配せをかわしながら、フォークにタリアテッレを絡ませる。この中でいちばん本心がわかりやすいのは、亜梨沙さんだ。
「ねえ都羽ちゃん、もう付き合っちゃえばいいじゃん。いいコンビだよ」
「亜梨沙さんまで、そんな」
「ふたりとも若いし可愛いし、ほんとお似合いだよ」
「俺、かっこいいんじゃなくて可愛いんですか」
「白戸くんは可愛い系でしょ。その顔で遊んでるんだから、たち悪いよなあ」
「だから、都羽の前でやめてくださいって」
由良部長は、どう思います? 目配せの標的が、ひと言も発さずパスタを口に運ぶその人に移る。「どうって?」「俺と都羽、お似合いだと思いますか?」「周りからどう見えるかよりも、本人の気持ちが重要なんじゃないのか」――おまえはどうなんだ、と投げかけられたようで萎縮する。由良部長よりも瑞帆くんよりも、わたしはわたしの本心がわからない。
「……瑞帆くん、やめなよ。由良部長が困ってるよ」
「困ってんのは都羽じゃないの?」
「絡まないでよ」
「ほらほら、痴話げんかしない」
「三日月さん、白戸の気持ちが迷惑ならはっきり言ったほうがいい」
ひときわ冷たく感情のない声に、場が一気に静まり返った。
「言えるなら、言ったほうがいい。そのほうが君のためにも、白戸のためにもなる」
「やだ譲司、なに言ってるの。空気読んで」
「空気を読むことと強要することは、まるで違う」
一秒にも満たないわずかな時間、由良部長と目が合った。それは、誰に向けての発言ですか? 心の中でそう問いかける。
今夜、もしふたりきりで食事をしていたら、と想像する。わたしは由良部長と、どんな会話をしていたのだろう。
*
「今日はありがとう。ふたりとも気をつけてね」
華奢なハイヒールのつま先が少しふらついている。よろけた亜梨沙さんを由良部長が無表情で抱きとめると、彼女は白いワイシャツの胸に両手をつき、「ありがと、譲司」と上目遣いで見上げた。
「うわ、露骨」
わたしの隣に立つ瑞帆くんが、笑顔のまま低い声で呟く。レストランの駐車場に停まったボルボのSUVが、白い外灯にぼんやりと浮かんでいる。
亜梨沙さんは当たり前のように助手席側に回ると、車の陰からひょこっと顔を出してこちらに手を振ってきた。機械的に振り返す。ワインを2杯しか飲んでいないのに、少しふらふらする。日がすっかり落ちていてよかった、と思う。
「いい車乗ってんなあ、由良部長」
左側のウィンカーがぱちぱちと点滅しているのを、ぼんやり見ていた。車が大通に合流したのを見送り、わたしと瑞帆くんも歩き出す。
「いい車なの? あ、ボルボって外車か」
「あれ、新車で買ったら800万とかする」
「うそ」
駅はすぐそこだ。瑞帆くんは東西線だもんね。そう訊くと、黙ってうなずいた。「都羽は大通で乗り換えか。まだ9時前だし、どっかで飲んでく?」軽い調子で誘われて、首を横に振る。だよなあ、と瑞帆くんがわかっていたように言った。
「さっき、ごめん。ちょっとやりすぎた」
瑞帆くんの足が止まる。カジュアルなブラウンのコインローファーが、動き回る機会の多い広報室の社員らしい。
「ぜんぜん動じない由良部長にイラついたんだよ。あんたこそ永野室長にちゃんと本当のこと言えばって、出そうになった」
嫌な気持ちにさせて、ごめん。らしくなくしおらしい姿に胸がざわめいて、思わず駆け寄った。くっきりした二重まぶたに縁どられた瞳は寂しそうで、なにかを訴えているようにも見える。
コンクリートの地面が蒸れた匂いが漂っている。夜半から雨が降る予報だったことを思い出す。
「鈍くていい子ちゃんの都羽も、さすがにわかったと思うけどさ」
二の腕を軽く掴まれて、その手のひらの熱さに驚いた。外灯と外灯のあいだ、盲点のように暗くなっているところに、わたしたちはちょうど立っている。
「永野室長なりの警告だよ。これ以上近づくなって」
すっかり過ぎ去ってしまった夏と、これから到来する秋の両方を含んだような風が、わたしと瑞帆くんを分つように吹いた。頬に冷たいものが当たる。夜の帷が落ちた空は、どんよりと曇っている。
「俺が都羽を好きだからとか、永野室長が女出してきてキモいとか、由良部長がムカつくとか、そんな理由じゃない。あの人たちに近づいてほしくない。都羽が傷つくのが嫌なんだ、俺は」
小さな雨粒が、シフォンブラウスの肩を濡らした。瑞帆くんがジャケットを脱いで、わたしに着せてくれる。さりげなく爽やかなシトラスの中に、ほんの少し、男の人の匂いを見つける。
「都羽や俺とあの人たちは、まったく違う人種だよ。由良部長がどんな目的で都羽に近づいてるか知らないけど、騙されて遊ばれて、挙句の果てに永野室長の目の敵にされるなんて、そんなバカなことないだろ?」
都羽がいったい、なにしたっていうんだよ。絞り出すような声にはっとした。ふいに、中華料理店の回転テーブルが頭に浮かぶ。きっとわたしはもう、そのテーブルの上に用意されたお皿のひとつに乗ってしまっている。そのテーブルを用意したのが誰なのかは、まだ知らない。
「心配してくれて、ありがとうね。瑞帆くんってなんだかんだ優しいよね」
だから女の子にモテるんだろうな。言いながら、ライトベージュのジャケットを肩からはずして瑞帆くんに差し出す。瑞帆くんは黙って受け取り、それを自分の腕に掛けた。
「瑞帆くんの気持ちが迷惑とか、そんなふうに思ってないよ。疑ってはいるけど」
「それは、俺の素行の問題だから」
「そういうんじゃ、ないんだ。由良部長のことが好きとかそういう対象で見てるとか、そういうんじゃ」
教えてほしい。わたしのこの感情が、あの人に関わるときにこみ上げる気持ちが、なんという名前なのか。
「……俺、いろんなこと深く考えないし、ていうかそういうの無駄だからやめたし、女の子にすぐ可愛いとか言っちゃうし、所有欲はないけど性欲はあるし」
「どうしたの急に、反応に困るよ」
「だけど、その人が誰をどう思ってるとか、どんな目で見てるとか、そういうのは人一倍わかる。わかってしまう。都羽にとってもう、あの人はただの上司じゃないだろ」
小雨だったのに、さあさあと、雨粒が地面を打ちはじめる。
秋は天気が変わりやすいから、対応が難しい。暑いと思ったら寒かったり、晴れていたのに雨が降ったりする。
「たぶんあの人にとっても、都羽はただの部下じゃない」
アーモンド型をした目にかかった前髪がしとしとと濡れていくのを、黙って見ていた。ただの上司と部下じゃないのなら、ふたりきりの食事の席で、どんな話を交わすべきなのだろう。