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Warning:警告、2024年秋雨前線ー①


「三日月さん、今日の役員会議で配布する資料だけど」

「印刷しておきました。常勤役員と由良部長の分、予備が3部です」

「株式会社ナガノ 2025年度 商品開発・販売戦略について(素案)」と明朝体で書かれた表紙からはじまる、200ページ超の厚い資料だ。社長と副社長を入れて10名の常勤役員が集まる定例会議で、商品開発部長が説明を担当する。

「まだ頼んでないのに」

「これで完成版だと確認が取れましたし、13時半からなのであまり時間がないと思いまして」

 最後の最後まで修正が入っていた販売戦略室担当ページがようやくまとまったと聞いたのは朝一のことだ。指示を待っていたが、朝から打合せや外勤で多忙を極めている由良部長に確認できず、商品開発部の各課――デザイン室、事業開発課、販売戦略室の3課だ――の室長及び課長の許可を得て資料を準備した。


「もしかして、まだ修正が残っていましたか?」

「いや、大丈夫。助かったよ、ありがとう」

 一瞬だけパソコンの画面から顔を上げた、その目の下にうっすら隈があらわれていることに気づく。昼休み、裏参道のカフェでコーヒーをテイクアウトしようと思い立ったけれど、栄養ドリンクのほうがいいだろうか。

「他に必要なことがあれば申しつけてください」

「じゃあ悪いけど、本店訪問の日程を調整しておいてくれるかな。店長じゃなくてマネージャーでいいから」

「承知しました」

 今日はダークグレーの2ボタンスーツにネイビーの無地のネクタイを合わせており、普段よりさらにフォーマルな雰囲気だ。ぴしっと撫でつけられた前髪に、しずかな気負いを感じる。

 商品開発部長はこれから数回にわたり、来年度の計画について役員会議で発表し、承認を得ることになる。年間を通して大きな仕事のひとつだ。


 9月中旬、連休の合間の週だ。厳しかった残暑は徐々に引き、半袖のブラウスに長袖のカーディガンを合わせる気候になった。

「都羽ちゃん、ちょっといい? 昨日提出してもらった案についてなんだけど」

「はい!」

 亜梨沙さんの、プラムレッドに染まった唇が快活に動く。由良部長と食事をした週明け、ぎこちなかった態度は少しずつ軟化していった。

 あれ以降は一度も誘われていないし、社外で会うことももちろんない。私用携帯に登録した番号を使うこともない。元通りだと安堵する反面、あの夜はなんだったのだろうと小さなしこりのような疑問が、心の中にぽつんと残っている。



 よくよく考えてみると、昼休みにコーヒーをテイクアウトしたところで13時過ぎには離席してしまう。冷めきったコーヒーでは労いにならないだろうと、デザイン室の案件で外出したついでにカフェに寄ることにした。戻ったのは16時前だった。

「由良部長、お疲れさまです。本店訪問は明日の14時になりました。部長のスケジュールもちょうど空いていたので」

 報告しながら、まだ熱々の紙カップをそっと差し出した。自分の分のカフェラテは、すでに自席に置いてある。

「……このコーヒーは」

「役員会議、お疲れさまでした。今日は苦味の強いブレンドだそうです」

 コーヒーは酸味より苦味でブラック派、愛煙しているタバコはJPSのボックス。仕事を任されてもうすぐ2ヶ月が経つので、それくらいのことはわかってきた。

 いまやスケジュール管理だけでなく、庶務も担うようになっている。これでは花緒や瑞帆くんの言うとおり、秘書、みたいなものだ。


「わざわざ買いに行ったの?」

「外に出たのでその帰りに。わたしも、カフェラテを買ってきましたから」

 決してあなたのためだけにカフェに寄ったわけでは、と暗に言い訳しているみたいだ。本人に? それとも、こちらに背を向けてモニターに向かっている亜梨沙さんに?

 由良部長はわたしの顔とコーヒーを交互に見てから、目を凝らさないと気づかないくらいの笑みを浮かべ、紙カップを掲げた。

「ちょうど飲みたいと思ってた。ありがとう」

 近くにいたデザイン室の社員が、こちらを見てぎょっとしている。微笑に気づいたのか、由良部長の口からお礼の言葉が出たことに驚いたのか。わたしに対して神妙に頷くと、複合機を操作し始めた。


「それでは、またなにかあれば」

「三日月さん、ちょっと」

 踵を返しかけたところで呼び止められた。先ほどまできっちり締めていたネクタイを緩めて外し、デスクの上に乱雑に置く。

「今週の、金曜なんだけど」

 やたら声をひそめているので、近づかないと聞こえない。金曜日――明後日の予定までは頭に入っていないが、突発的な会議かなにかだろうか。

「いや、やっぱりあとで連絡します」

「え?」

「メッセージを入れておくから」

 由良部長が手にしているのは、社用携帯ではなく私用のiPhoneだった。数秒後にその意味を悟り、頬がカッと熱くなる。


「あの、でも、その」

 亜梨沙さんの華奢な背中は、ぴくりとも動かない。

「もう戻ってもらって結構です」

 冷淡な声に促されては下がるしかない。心臓が早鐘を打ち、胃の痛みが復活したのを感じる。



「ねえ都羽ちゃん、今夜って空いてる?」

 金曜日の11時から1時間程度は、だいたい課内打合せが入る。その週の振り返りや進捗状況の報告、来週の予定などを共有するのだ。

 あと半日で今週が終わるということもあり、打合せスペースを出たみんなの足取りはどこか軽い。今日も社食でいいか花緒に確認しようとスマホを取り出したところで、亜梨沙さんに声をかけられた。

「今夜、ですか?」

「ご飯行かない? おいしいイタリアンのお店見つけて」

 呼吸が止まりそうなくらい大きく鼓動が跳ねる。スマホが滑り落ちそうになって、慌てて持ち直した。


「この近くなんだけど、前に仕事でお邪魔したお店なんだよね。プライベートで食べに行ってみたらすっごくおいしくて、オーナーさんもいい人で」

 亜梨沙さんはそこで言葉を区切ると、わたしの顔をじっと見つめてきた。目を逸らすわけにもいかない。何秒間も穴が空くほど見つめてくるので、つい一歩下がってしまう。

「あの、亜梨沙さん」

「今日の都羽ちゃん、なんかメイク違う。可愛い」

「そんなことは」

「ううん、可愛い。もしかしてデート? 彼氏できた?」

 えーうそー、どんな人だろ。なにも答えていないのに盛り上がりはじめた亜梨沙さんを、「できてないですよ。いつもとぜんぜん、変わらないですし」と早口で止めに入った。鼓動は収まらない。また知られているのかもしれない、と()ぎる。


 一度は、断ったのだ。それなのに、返信の代わりにお店のデータが送られてきてしまった。今回は和食です。18時半に予約しています。素っ気ないメッセージが強い断定口調に思えて、了解しました、と返信するしかなかった。

「あ、そうだ。譲司も誘っていい?」

「えっ」

「秘書の仕事もだいぶ慣れたでしょ。さらに親睦を深めるってことで、ね?」

 秘書ではありません、といまさら訂正する気にはなれなかった。亜梨沙さんの笑顔の裏になにかあるのか、なにがあるのかを読み取りたくて、今度はわたしが、その華やかに整った顔を穴が空くほど見つめる。

「……突然お誘いすると、由良部長のご迷惑では」

「いやいや、独身アラフォー男の花金なんて寂しいもんでしょ。かえって喜ぶよ」

 じゃあ、譲司に言っとくね。なにも答えていないはずなのに話が決着してしまった。どうしよう、由良部長になんて言えばいいのか。やっぱり亜梨沙さんは、今夜の約束を――。


「なーんか、楽しそうな話聞こえちゃったな。永野室長、俺も混ぜてもらっていいすか」


 その声の主に思い至ったのと同時に、ふわりと肩を抱かれた。全身がやわらかく爽やかな香りに包まれる。

「瑞帆くん……なんで」

「そんな顔すんなよ。たまたま販売戦略室に用があって」

 都羽さあ、俺がいつも遊んでると思ってる? 仕事だよ、し、ご、と。人差し指で頬をつつかれて呆然とする。あまりにピッチの早い急展開についていけない。

「まさか、都羽ちゃんの彼氏って白戸くん」

「わかります?」

「違います!」

 慌てて手を払って離れ、ゆっくりと深呼吸した。瑞帆くんはニヤニヤと真意の読めない笑みを浮かべている。


「まあ、いまは違いますけど、そのうちなりますから」

「すごい自信だね。さすが白戸くん」

「ラブラブなおふたりと3人でテーブル囲むなんて、都羽がかわいそうじゃないすか。だから俺、都羽の彼氏役ってことで」

 瑞帆くんが性懲りもなく肩を抱いてきたので、手の甲を思いきりつねってやった。いってえんだけど、と大げさに手を払ってまた回してくる。どうしようもない。

「いいねー。都羽ちゃんと白戸くん、すごくお似合い」

「あざっす」

「じゃあ4人で行こっか。18時半にロビー集合ね」

 ちょうど昼休み開始のチャイムが鳴って、ワインレッドのブラウスを纏った背中が遠ざかっていく。混乱が収まらない頭の中を整理しようと、ベージュのパンプスのつま先をじっと見つめた。とりあえず由良部長に連絡しなくては。


「都羽さあ、俺に感謝しろよ」

 スマホのロック画面を解除したところで、瑞帆くんの前でメッセージを打つわけにはいかない、と思い直す。

「なんで?」

「牽制されてんだよ。わたしの大事な譲司を取らないでって」

「あのね、ただの上司と部下だよ。だいたい、由良部長と亜梨沙さんは」

「塚本先生が言ってたこと、忘れた? あれ聞いてピンと来たよ。同じ男だからわかるけどさ、由良部長はたぶん、あの人のこと好きでもなんでもないよ」

 あまりにはっきりと、普段どおりのボリュームでそんなことを言い出すから、慌てて瑞帆くんの腕を引っ張った。昼休みになったので、続々と社員が事務室から出てきているのだ。


「それなのに、どうして関係を撤回しない? 噂について弁解しない? 決まってんだろ、この会社が欲しいんだよ」

 瑞帆くんがめずらしく苦々しい表情を浮かべ、わたしの顔を覗き込んで判を押すように言った。

「由良部長はやめとけ。都羽には合わない」

 いったんわたしに背を向け、一歩二歩進んだところで立ち止まる。

「なんか今日の都羽、やたら女って感じだけど、誰かと約束でもしてたわけ」

 吐き捨てるように言って、また歩き出す。足元から冷たいものが立ちのぼってくるのを感じ、しばらくそこから動けなかった。



「不思議なメンツだけど、今日は上下関係抜きで楽しもうね。かんぱーい!」

 亜梨沙さんの号令で全員がワイングラスを掲げたけれど、きちんと笑っているのは、隣にいる瑞帆くんだけだった。右斜め前に座る由良部長は仕事中のように無表情だし、わたしも、うまく笑えているか自信がない。

「すげーうまそう。俺、こういうオシャレご飯ってあまり縁ないんですよ」

 カラフルなアンティパストのプレートとスパークリングワインを前に、瑞帆くんが感嘆の声を上げた。肘で小突かれ、慌ててうなずく。ほんの少し含んだワインの炭酸が、口の中にまだ残っている。


「ほんとにおいしいよ。カジュアルイタリアンだけど味は本物だから」

「おふたりはこういうの、食べ慣れてそうですよね。なあ都羽、俺たち、初デートのときなに食ったっけ?」

 ふいに水を差し向けられて、パプリカを噛まないまま飲み込んでしまった。盛大に咽せているわたしを、由良部長がじっと見ている。

「あれ、ほんとに付き合ってる感じ?」

「一回フラれちゃいましたけどね。諦められなくて、こうして付きまとってます」

「ちょっと、瑞帆くん」

「おふたりは、いつからそういう関係なんですか?」

 瑞帆くんこそ、塚本先生の話を聞いていなかったのだろうか。亜梨沙さんと社長はその気でも、由良部長の本意ではない――。

 亜梨沙さんの顔が引きつったように見えたのは、気のせいだろうか。由良部長の表情は平坦なままだ。瑞帆くんは人なつっこい笑顔を張りつけて、目の前のふたりを交互に見遣る。


「やだ白戸くん、そういうんじゃないから。みんなが勝手にそう言ってるだけで」

 亜梨沙さんが早口で言って、ワイングラスに手を伸ばす。

「そうなんすか? じゃあ、由良部長的には?」

「瑞帆くん、失礼だよ」

 もし本当に、本意ではないとしたら。あの蒸し暑い夜の、車内での会話を思い出す。わたしが亜梨沙さんを褒め、お似合いだと言った直後に不機嫌になってしまった。なにが気に障ったのか、あのときはわからなかった。


「社員みんなが気になってるんですよ。ここだけの話にしときますから」

 瑞帆くんが上目遣いで由良部長を見つめる。しかし、由良部長は視線を合わせようとしない。

「想像に任せるよ。こういうのは、明らかにしないほうが盛り上がるだろうから」

 由良部長はそこではじめてフォークを手にし、トマトが乗ったブルスケッタを口に運んだ。落ち着いた口調に、この人はいままで何度この質問を受けてきたのだろうと、余計な想像をめぐらせてしまう。


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