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Disquiet:不穏、2024年残暑ー②


クリーミーなホワイトソースが口の中で溶け、次から次へとスプーンで掬ってしまう。おいしい。金曜日の夜、由良部長とふたりで食事している緊張など忘れてしまうほど。

「母は、誰かに殺されたのかもしれない」

 殺された、という、まったくもって現実的ではない響きを頭の中で反復した。昨夜観たばかりのサスペンスドラマを思い出す。

 訊き返すわけにもいかず、スプーンを運ぶ手を止めた。由良部長は手元のプレートでもペリエのグラスでもなく、まっすぐにわたしを見ている。


「俺の母は、誰かに殺された可能性があるんだ」

 まるで言い聞かせるようにはっきりと、ゆっくりと、一瞬も目を逸らさずに、由良部長が言った。テーブルの上が沈黙に満ちる。俺、という一人称をこの人が使ったことに、若干の違和感をおぼえる。ここは会社じゃないんだから、上下関係は忘れて。

「その……それは、どういう」

 ふわふわする。このテーブル席だけが、他の席、いや、このレストラン全体から浮き上がってしまっているように感じる。

 ワイングラスではなくお冷に手を伸ばした。冗談、にしてはたちが悪すぎる。そもそも、自分の親が殺された、などという趣味の悪い冗談を好む人間はいない。

 なぜ由良部長は、一介の部下であるわたしに、こんな重大かつ深刻な打ち明け話をしているのか。


「ある人から、そういう可能性を示唆されてね。父はそれを知っていて俺に隠していた。そして、そのまま亡くなった」

 湯気を立ててやわらかく照っていた黄色い卵が固まりかけている。プレートに残るわずかなケチャップの筋に、由良部長こそ、食べ方がものすごくきれいだ、と思う。

「亡くなるまでの3年は病気で入退院を繰り返していたから、動くに動けなかったんだろう。まさかこんな爆弾を遺して逝くとは」

 薄い唇から再び飛び出した、現実的ではない単語に身構える。目の前がぼんやりと霞がかかっているのは、ワインが徐々に効いてきたせいだろうか。


「時限爆弾もいいところだよ。本当にそうだったとして、現在の法律で時効がないのは殺人罪や強盗致死罪くらいだ。傷害致死なら20年、他はもっと短い」

 由良部長が脚の細いグラスを力強く掴み、ペリエを飲み干す。

「だから俺は、真実を探さなければいけないと思っている。母が亡くなった日に起きた事実を、事故の真実を、なんとかして知りたいと思っている」


 ドリアのホワイトソースも固まりかけているけれど、まさかこの雰囲気で食べ続けるわけにもいかない。返すべき言葉など一向に見つからず押し黙ってしまったわたしに、由良部長は微笑みともいえる表情を向けてきた。

「重たい話をして悪かったね」

「い、いえ……」

 大変ですね、なんて言えない。どのように探すつもりなんですか、なんて突っ込めない。つい今朝まで笑って話していたお母さんが突如事故で亡くなり、帰らぬ人となってしまった想像を、無理やり捻り出してみる。心臓に鉛の塊を入れられたようだ。うまく息ができない。


「ちなみにこの話は、オフレコでお願いします。誰も知らないことなので」

「誰も……ですか」

 懇意にしている社長や、婚約者である亜梨沙さんも?

「はい、誰も。私と三日月さん以外は知りません。知らせる予定もありません」

 先ほど垣間見えた、燃える鉄のような熱は影をひそめ、冷淡で平坦な由良部長に戻っていた。スプーンを手にし、固まった卵を優しくほぐしている。

「どうして、わたしに話してくださったんですか」

 この人にとって、おそらく特級ともいえる秘密を。壮絶な痛みと苦しみの記憶を。ふいに課せられた、あまりに重い責任に対する決心を。


「君には話しておきたいと思ったから」

 幾重の意味を含んだような微笑みが向けられて、その美しさと妖しさに胸が高鳴った。

 いけないことだ、と不安になる。こうしてふたりきりで食事をしているだけでも重罪なのに、そのうえ、秘密を共有してしまうことなど。



「本当に、近くまでで結構ですので」

「そういうわけにはいかないよ。飲ませたのは俺だし」

 なめらかに滑り出たその一人称に鼓動が跳ねた。車は、宮の森・北24条通をまっすぐ進んでいる。由良部長は慣れた手つきでカーナビを操作し、東豊線の環状通東駅を目的地に設定する。

「駅からのナビはお願いします」

「ありがとうございます。駅のすぐ近くなので」

 ご迷惑おかけします。そう言ったわたしの頭の上をなにかが掠めていったのは、気のせいだろうか。目の前の信号が青になる。カーステレオからは、ボリュームを絞った洋楽が流れている。


「由良部長、あの」

「ん?」

「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」

「それはよかった」

 こうしてきちんと横顔を見るのははじめてのことかもしれない。外灯の光にときどき照らされて、出張った喉仏のかたちが浮かび上がる。ほつれた前髪と目尻に走る皺が色っぽい。

「お忙しいのに、ありがとうございました。今後も、少しでもお役に立てるように」

「三日月さんは十分、しっかりやってくれています」

 車がゆっくりと減速して、タバコの残り香が揺れる。街中だから信号が多いのだ。

 レストランを出るや否や「申し訳ない、一本だけ」とタバコに火をつけ、車のロックを解除してくれた。真っ暗な助手席から覗き見た、物憂げにタバコを燻らせる姿が浮かぶ。きれいな人だ、と思った。そして、ひどく哀しそうな人だ、とも。


 暗く静まり返った北大の横を通り過ぎ、環状通を流れるように走っていく。うまく話題を繋げないうちに、どんどん知っている風景になっていく。

 なにか話さなくてはと思ったけれど、なにを話せばいいのかわからなかった。この人について知っていることが、あまりにも少なすぎる。それでも、わたしが持っているわずかな情報を不自然につぎはぎして話題を作るのは、間違っている気がした。


「三日月さんも、きょうだいがいないんだね」

「えっ」

「お互いひとりっ子だね。寂しいでしょうとよく言われるけど、ずっとそうだから、それが寂しいことなのかよくわからない」

 会社で聞く声よりも温度が宿っているように感じるのは、気のせいだろうか。いま同じ空間にいるこの人は、上司ではなく、ひとりの人間、そしてひとりの男性だ。

 冷めたはずの酔いが、戻ってくる。

「わたしも、きょうだいがいなくて寂しいと思ったことは、あまり」

「お母さんと仲がいいしね」

「……はい」

「どうして三日月さんが申し訳なさそうな顔するの。俺の話は、あまり気にしないで」

「それは、難しいかと」

「まあ、そうだよね」

 また車が減速する。由良部長がほんの少し笑う。厚く張っていた氷が溶けはじめたように。


「君は、ぜんぜん違うね」

「え?」

「亜梨沙と」

 ふいにこぼれ出たその名前に身体が固くなり、耳が熱くなった。戻ってきた酔いが引いていく。途端に、ここに座っていることが恥ずかしくなる。

「わたしと亜梨沙さんでは、比べるのも申し訳ないくらいの差があります」

「どんな?」

「デザイナーとしての経験も能力も、性格の良さも、華やかさも美しさも」

「俺は特に彼女を優れているとも、きれいだとも思ったことがない」

 低く冷たい声は、いつもの平坦さとはまた違う響きだった。由良部長のような人は、恋人について褒められると居心地が悪いのかもしれない。


「おふたりはすごくお似合いだなと、いつも思います」

「本当に、そう思う?」

 せっかく渡されたかけた橋があえなく落ちてしまったように、会話が途切れた。失礼なことは言っていないはずだ。それなのに由良部長は、おそらく不機嫌になってしまった。


 能面のように表情が変わらない由良部長の、機嫌の良し悪しを読み取れるようになっただけで大進歩だ。虚しく自分を励ましているうちに家に着いてしまう。もちろん、沈黙は続いたまま。

「素敵なおうちだね。昔は、家族3人で住んでいた?」

 由良部長はエンジンを停めると、シートにもたれかかりながらこちらを向いた。リビングの明かりが、遮光カーテン越しにほんのり漏れている。お母さんは休みで一日家にいたはずだ。


「はい。わたしが5歳のときに越してきました」

「お父さんがいなくなってからも、引っ越そうとは思わなかった?」

「もったいないから住み続けることにしたと、母が」

「住宅ローンもほぼ残っていただろうに。ずいぶんとがんばったんだね、お母さん」

 思わぬ方向から指摘されて違和感がよぎる。確かにそうだ。離婚後は、お母さんが負担していたんだろうか。

「まあ、立派な職に就いているからね。それくらいは余裕か」

 立ち入ったことを訊いて申し訳ない。頭を下げられ、慌てて首を横に振った。わずかに残っていたエアコンの冷気はあっという間に霧散してしまい、じっとりとした暑さが忍び寄ってくる。

 由良部長が、わたしの顔をじっと見つめている。


「今日は、本当にありがとうございました。ごちそうさまでした」

 残暑と夜の粒子に混じる大人の男性の匂いに飲み込まれてしまいそうで、これ以上は危険だとドアハンドルに手をかけた。

「こちらこそありがとうございました。また来週、会社で」

「はい、おやすみなさい」

 車を降りてしまえば目が醒めて、全部夢だったというオチなのかもしれない。

 ドアを開ける。環状通を走っていく車の音が聞こえる。コンクリートの地面にパンプスの足をつけようとしたところで、「三日月さん」と呼び止められる。


「君のことを、もっとよく知りたい。また食事に付き合ってください」

 ふいに、バッグに入れっぱなしだったスマホが鳴る。LINEではなく電話のようで、こんなときに、と苛立ちながら取り出す。知らない番号からの着信。

「私用携帯の番号なので、登録しておいてください」

 手の中の振動が途切れ、車が身震いするように動いた。今度こそ地面に足をつける。夢の時間はおしまいだ。湧き上がってきたひとひらの寂しさを、必死に押し込める。



「亜梨沙さん、おはようございます。先週提出していたキャニスターセットの修正案についてですが」

 週明け、亜梨沙さんに話しかけるまでに10分を要した。ただ食事をしただけで、後ろめたいことはない。知られて困ることもない。デザイン室長の席に辿りつくまで、自分にそう言い聞かせながら歩いた。たった数十歩の距離が、100メートルくらいに感じられた。

 迷いに迷って昨夜やっと登録した由良部長の番号を使うことは、きっとない。あってはならない。上司と部下のやりとりは、社内チャットで十分なはずだ。


「チャットで送っといて」

 亜梨沙さんはデスクの左側に立ったわたしをちらりと一瞥しただけで、モニターに視線を戻してしまった。

「金曜の打合せで指摘いただいたところを、重点的に直して」

「うん、だからチャットで送っといて」

 ピンクブラウンのアイシャドウとロングマスカラで彩られた大きな瞳は、やはりこちらを見ない。いつもの亜梨沙さんじゃない。そう確信した瞬間、背筋がすっと冷たくなり、指先が冷えていく。

「あの……案を3つ作ってみたので、できれば直接見ていただけると」

「いま忙しくてちょっと無理だから、あとで見とくね。なにかあったらこっちから言うから」

 わたしの存在を遮るようにデスク上の電話機に手を伸ばし、素早く番号をプッシュする。内線のようだった。早く戻れと圧をかけられているように感じ、しずかに後ずさる。


 ――いつもなら、ちゃんと目を見て話を聞いてくれるのに。なにかあるなら後回しにせず、その場で相談に乗ってくれるのに。

 胃がきりっと痛み、体温が下がっていく。エアコン対策でイスの背に掛けてある薄手のカーディガンを羽織り、言われたとおりチャットに案を添付した。

 午前中、会議や打合せの類は入っていなかったらしく、亜梨沙さんは終始在席していたが、チャットに既読がつくことはなかった。



「あー、絶対こうなると思った。都羽、お願いだから、次からは必ず断って。これ以上、いままでのがんばりを無駄にしないで」

 昼休み、ヘルシー定食が乗ったトレーをテーブルに置いた途端に目が潤みそうになった。花緒の姿を見て、緊張の糸が切れたらしい。

 えっ、どうしたの。なにがあった? 優しく背中をさすられながら、亜梨沙さんの態度がおかしいと打ち明けると、花緒の表情がみるみる歪んでいく。

「それが本性か。やっぱり、わたしの勘は間違ってなかった」

 花緒は大きくうなずくと、豪快にうどんをすすった。「ほら、都羽も食べな。しょんぼりしてたら永野室長の思うつぼでしょ」

「誘いに応じた自分がいちばん悪いっていうのは、わかってる。だけど、どうして亜梨沙さんは」

 由良部長とわたしが会社の外で会ったことを知っているのか。いや、そうと決まったわけではないけれど、そうだと考えなければ、態度が急変した説明がつかない。

「尾行でもしてたんじゃないの? 駅で待ち合わせたんでしょ」

「……うん」

「由良部長、意外と詰めが甘いね」

 うどんとセットになっているおにぎりを頬張りながら、花緒が言う。

「ねえ都羽、わかってると思うけど、由良部長に睨まれるより、永野室長に睨まれるほうが絶対にめんどくさいよ」

「都羽、永野室長に睨まれてんの?」

 やわらかく軽い声が頭上から降ってきて、一瞬、花緒と顔を見合わせた。嫌な予感がするのはお互いさまのようだ。


「え、無視? 都羽だけじゃなくて橋場まで?」

「都羽に無視されるのは想定済みなんかい」

「美人の鋭いツッコミ、あざーす」

 ここ座っていい? だめでも座るけど。黒いギンガムチェックのワイシャツ姿の瑞帆くんが、わたしの隣のイスを引いた。トレーには、大盛りのカツ丼。見た目に似合わずがっつりしたものが好きだというのは、付き合っている1ヶ月の間に知った数少ないことのひとつだ。

「ねえ、俺の調査結果聞いてよ。いろいろ探ってみたんだ」

「なにを?」

「永野家と由良部長のこと。いやーもう、ズブズブもいいとこだよ。なあ都羽、やっぱ由良部長はやめとけって」

 割り箸をきれいにまっぷたつにし、食べる前にはきちんと手を揃えて「いただきます」をする。これも、1ヶ月の間に知ったことのひとつ。


「婚約してるってのは間違いないかも。永野室長がいろんな人に匂わせ発言してる」

「うわー、めんどくさい女」

「橋場、永野室長アンチ? まあ俺も、ああいうタイプはあんまり好みじゃないけど」

「白戸くんにも好みとかあるんだ」

 ひでー、と笑いながらカツ丼を頬張る姿は屈託のない子どもみたいで、やっぱり悪い人ではないのだと思わされてしまう。術中にはまっているだけなのかもしれないけれど。

「でも、意外と多いわ。永野室長アンチ」

「そうなの?」

「そこ食いつく? 都羽、信者だっけ」

「信者というか」

 尊敬している、というか。切り干し大根の煮物を箸で摘んだまま口ごもった。これから亜梨沙さんにどう接していけばいいのか考えると、途方に暮れそうになる。


「え、なんかあった? 俺でよかったら話聞くけど」

「……大丈夫」

「白戸くーん、弱ってるところに付け入るのってダサいよ。チャラ男の名が泣くよ」

「俺、チャラい?」

「無意識にチャラいって一番罪なやつだよね」

 わたしを挟んで行われている軽快な言葉のキャッチボールが、海の底まで沈んでいたテンションをほんの少し浮上させてくれる。瑞帆くんくらい「チャラく」なれたら、亜梨沙さんを傷つけるような過ちを二度と犯さなければ、前みたいに楽しく仕事ができるかな。


「にしても、由良部長ってマジでいい噂聞かねえんだわ。社長――要するにパパ公認だから会社を継ぐのは決定事項だとか、そもそもそれを狙って永野室長に取り入ったんじゃないかとか。そういえば、あのふたりは幼なじみらしい」

「それ、秘書室にも流れてきてない情報だな。ほんと?」

「ふたりと同じ高校出身の人に聞いたから間違いないって。ほら、札幌の名門私立高。ちなみに永野室長は、幼稚舎からインターナショナルスクール」

 俺らみたいな庶民とはお育ちが違うわけよ。瑞帆くんがあっという間に空になったどんぶりを勢いよくトレーに置き、「ごちそうさまでした!」と手を合わせた。ずっと喋っていたのに、いったいいつ食べたのか。半分以上残っている自分のプレートを見て焦りを感じ、玄米ご飯を口に運ぶ。


「由良部長は高校からの入学組で、大学もエスカレーターかと思いきや東京の超難関私大。永野室長もそれを追って関東の大学に行ったとか」

「ねえ、白戸くんの情報網が怖い。そんな個人情報、どこで手に入れたわけ?」

「それはちょっと言えないな」

 ニヤニヤと人差し指を口に当てる瑞帆くんを睨み、花緒が「女だな」とため息をついた。わたしは黙って聞くにとどめる。学生時代の由良部長と亜梨沙さんを想像しようとしても、うまくできない。


「で、当たり前のように親の会社に入った永野室長は別として、由良部長も特別枠だったらしいんだよ。一次から三次は免除されて、最終面接だけなんじゃないかって噂」

「えー、それはさすがにないでしょ」

「一次ならまだしも、三次ってだいぶ人数絞られてくるじゃん? 由良部長の同期の誰に訊いても、試験会場で見かけたって話が出てこないんだよな」

 そこまで尋ね回る執念と、怖いもの知らずなところが瑞帆くんらしい。圧倒的な顔の広さとずば抜けた対人スキルを買われて広報室に異動したというのは本当なのだろう。


「ってことは、由良部長はもう、最初から俺たちとは違うわけじゃん。あの人の出世がやたら早いのも、やっぱそういうことなわけで」

「白戸、滅多なこと言うもんじゃないぞ」

 低く穏やかな、しかし厳しさを含んだ声が、社食で噂話に興じているわたしたちを戒めた。その人は花緒と瑞帆くんの間、ひとつだけ空いていた席に腰を下ろすと、紙カップ入りのホットコーヒーを啜りはじめる。


「塚本先生、お疲れさまです。社食で会うなんてめずらしいですね」

 花緒が慌てて塚本先生に向き直り、愛想笑いを浮かべる。さすがの瑞帆くんも、塚本先生の前では口をつぐむことにしたらしい。

「たまにはいいかと思ってな。そしたらおまえらが、譲司の悪口を言ってるもんだから」

「譲司?」

「由良譲司。俺、あいつと同い年なんだ。よく飲みに行くんだよ」

 平然と言ってのける塚本先生を、わたしたちは目を点にして見つめてしまう。由良部長の名前が、譲司さん、だということをはじめて知った、ような衝撃を受ける。

 由良部長に、社内で親しくしている人間がいたとは。おそらく3人とも同じ気持ちだ。


「白戸、譲司の悪口言ったら俺が許さねえぞ」

「塚本先生、目がマジ。すいません、もう言わないから許して」

「ったく、どいつもこいつも好き勝手なことばかり」

 言葉とは裏腹にその声は優しい。由良部長の行動予定に「法務部コンプライアンス担当」が頻繁に登場していることを思い出す。そうか、塚本先生のところに行っていたのか。

「譲司に関する噂は腐るほどあるけどな、ほとんど嘘だぞ」

「永野室長と婚約してるっていうのも?」

「社長と永野嬢の中ではそういうことになってる。だけど、譲司の本意じゃない」

 塚本先生が真剣な顔でわたしたちを見回した。じっくりと、言い聞かせるように。


「三日月は、譲司の秘書みたいな仕事を任されてるんだよな」

 花緒、瑞帆くん、最後にわたしに焦点を定める。優しい垂れ目の奥に深い沼のような闇を感じて、身体が竦んでしまう。

「はい」

「それなら少しは譲司のこと、わかっておいてやって。自分の気持ちを表に出せない不器用なやつなんだ」

 そろそろ昼休み終わるぞ。塚本先生が紙カップを手に立ち上がる。

「うわやっべ、午後イチで外勤だわ」「あ、そういや専務に呼ばれてた」――わたしは慌てるふたりの一歩後ろを歩きながら、瑞帆くんの情報と塚本先生の言葉を、頭の中で何度も反芻していた。


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