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Disquiet:不穏、2024年残暑ー①


 お盆休みが終わり、会社に賑わいと忙しさが戻ってきた。わたしはというと、月末締め切りの社内コンペの準備と通常業務に追われている。

 社内コンペは本社の社員のほか、支店や工場、物流センターに勤務するスタッフも対象になる。もっと言えば、正社員だけでなく契約社員やアルバイトも参加できるため、応募数は回を追うごとに増えている。

 今回のテーマは「カトラリー」。毎日繰り返し使うものだからこそ、機能性は外せない。その中でどう個性を出し、お客さまが手に取りたくなる商品に仕上げていくか。

 コンペのテーマは毎回バラバラで、日々商品に向き合っている商品開発部の人間が有利と思いきやそうでもない。わたしたちが到底思いつかないような、奇抜で、だけど洗練された案が、さまざまな部署から集まってくるのだ。

 コンペの案を作成することは、通常業務とは別物だと考えている。自分に不足している部分を知るいい機会。これまで最終選考に残ったことすらないが、デザイナーとして成長するための修行だと、入社2年目からは毎回応募している。


「1ヶ月経ちましたね」

「はい?」

「三日月さんにスケジュール管理をお願いするようになってから、先週で1ヶ月が経ちました。最近忙しそうだけど、大丈夫?」

 通常業務として大部分を占めているのが、来春発売するコレクションに関する仕事だ。

 現社長の就任後すぐに発表された「ラヴィ・パルフェ」シリーズが、来年で20周年を迎える。わたしと「ラヴィ・パルフェ」との出会いは高校時代に遡り、それ以来ずっと大ファンだ。いまやナガノの看板ともいえるこのシリーズの、記念すべき節目を祝う作品――まさかデザイナーという立場で関わることができるなど、あのころのわたしは想像もしていなかった。


「はい。毎年のことですが、お盆が過ぎると急にバタバタしますよね」

 由良部長は今日も、少しくせのある前髪をきっちり七三に分け、糊の効いたワイシャツと皺ひとつないスラックスを身につけている。言葉尻がほんの少しやわらかくなってきたと感じるのは、気のせいだろうか。

「そうだね。今週はずっと残業の予定?」

「おそらく、そうなると思います。やるべきこととやりたいことが詰まっていて」

「それでも、金曜日くらいは早く切り上げたらいいんじゃないかな」

 ああ、話を切り上げないときの顔をしている、と直感する。その鋭い双眼に見つめられると、息が止まりそうになる。

 こうして話すようになるまでは、漠然と「きれいだな」としか思っていなかったこの人の、表情の動きや声のトーンまで把握できるようになってきている。役員以上の人たちと話すときや部下に物申すときには張り詰めるけれど、重要な会議から戻ると少しだけゆるむ。美しく冷淡なこの人も人間なんだと、当たり前のことを知らされる。毎日、確実に。


「三日月さん、ちょっと打合せスペースに」

 由良部長の声はひそやかで、ざわめく事務室内の誰にも聞こえていなかったはずなのに、白いレーヨン素材のブラウスを纏った背中がぴくりと動いた。「都羽ちゃん、ちょっといい?」――まるでタイミングを見計らったように亜梨沙さんが振り向く。

 どちらに応じるべきか思案する間もなく、「時間がないので私の用件を先に」と由良部長が素っ気なく言った。あっという間に事務室を出ていってしまい、驚異的な脚の長さだ、いつもよりさらに早足だし、と焦りがせり上がってくる。


「あの、亜梨沙さん」

「うん、いいよいいよ。部長には逆らえないよねえ」

 戻ったら声かけてね。優しい声にほっとして、小走りで打合せスペースに向かった。由良部長はわたしの姿を見て確かめるようにうなずくと、さっさとドアを閉めてしまう。

「ええと、なにか」

 あの場では話せないことなんでしょうか、と心の中で問う。

「前は断られてしまったんだけど、今週の金曜日、どうかな」

 そう広くない打合せスペースに、しずかな声が響いた。鼓動がひとつ暴れるように跳ねて、どくどくと脈打ち始める。

「私は山の手に住んでいるんだけど、近くにおいしい洋食屋があるんだ。格式ばった店じゃなくて、オムライスやミートソースパスタがメニューにあるような」

 由良部長がオムライスを食べるシーンが頭の中に浮かんで、慌てて打ち消した。見た目によらず食通なのだろうか。それも庶民派の。いや、いま考えないといけないのは、そんなことじゃなくて。


「なんとなくだけど、君が気に入ってくれそうな感じの。軽めのワインも置いてあってね」

「あの、由良部長」

「上司命令と言ったらパワハラになるかな。だけど、上司命令です」

 仕事の一環だと思ってください、と冷たい声で言い放たれて戦慄する。この人と向かい合ってアットホームな洋食レストランにいるところなど、恐ろしくて想像できない。



「亜梨沙さん、先ほどはすみませんでした。昨日提出したデザイン案の件でしょうか」

 由良部長は事務室に戻らなかった。おそらく、3階にある喫煙室で一息ついているのだろう。

「あ、ごめんね。急かしちゃった?」

「いえ、すぐに終わる用件だったので」

 結局断れず、ふたりで食事することになってしまったなんて言えるわけがない。

「そうそう。どうだった? わたしの韓国土産」

「あっ、チョコレート、とパック」

「うん。わたしのイチオシで、レチノールとシカ配合。ちょっとぴりっとするんだけど、あれが効くんだよね」

 急に雑談を向けられて面食らいそうになりながら、「ありがとうございました。水分爆弾のほうだけ、おととい使ってみました」と頭を下げる。


「都羽ちゃんみたいな若い子にはぴったりかなって思ったの。もともとお肌きれいだから、水分補給するだけで効果抜群だよね」

「そんなことないです。亜梨沙さん、美容旅行から帰って、さらに輝いている気がします」

 事実だった。亜梨沙さんが振りまく艶と華やかさは、メイクやファッションに十分なお金と時間をかけている人にしか出せない。

「やだ、照れる。それより、最近ますます可愛くなった気がするけど、なんかいいことあった?」

 大きな目をさらに見開いて、探るような視線を向けてくる。まぶたの上のグラデーションとまつ毛のゆるやかなカールが、あまりにもきれいだ。

「ぜんぜん、なんにもないです。亜梨沙さんにあやかりたいです」

「なに言ってるの。あの腐れ縁に、いまさらときめきもなにもないでしょ」

 言葉とは裏腹に口元をゆるめる亜梨沙さんを見て、胸がちくりと痛んだ。ものすごく申し訳ないことをしようとしている、気がする。申し訳ないと思ってしまうことが、すでに、悪いことへの第一歩だという気がする。

 もちろん他意はない。それでも、勤務時間外に異性の上司とふたりきりで食事することは、きちんと仕事の範疇内なのだろうか。



「えっ、マジ? 大丈夫なの、それ」

 花緒が素っ頓狂な声を上げて、はっと手のひらで口元を覆った。昼休みがはじまったばかりの社食はほぼ満席で、内緒話をするには却って好都合だ。

「……だよね」

「由良部長なに考えてんの? まさか、都羽のこと好」

「ないない、ありえない。住む世界が違いすぎるよ、それに」

 由良部長には、亜梨沙さんがいるんだよ。ほとんど囁くようなボリュームで続けたが、花緒にはしっかり聞こえたらしかった。「ねえ、ほんとに面倒なことに巻き込まれようとしてない?」


 花緒があまりに真剣な顔で、ほとんど睨むように見つめてくるから、事の重大さを認識せざるを得ない。「わかんない、けど」「永野室長にバレたらやばくない? せっかく仕事がんばってるのに、こんなことで評価下げられたりしたら」「それはないよ。そんな公私混同する人じゃ」「まだそれ言う?」

 花緒は深いため息をつくと、本日のおすすめ定食についていたザンギをひと口で頬張った。

「詳しいことは知らないし完全に勘だけど、永野室長にとって由良部長は所有物に近いものがあるっていうか、恋人とか婚約者っていう対等な関係に見えないっていうか」

「そうかな。並ぶとハイブランドのポスターみたいで、お似合いだと思うけど」

「それはそうなんだけど……ごめん、うまく言えなくて」

 とにかく、わたしは都羽が無事であればそれでいいから。大げさな物言いに、思わず吹き出してしまう。そんな、ヒットマンに狙われているわけじゃあるまいし。


「正直、行きたいわけじゃないけど、何度も誘われてるから断りづらくて」

 ストレートな感情としては、行きたくない、に近い。二度ほどランチを共にしただけで、緊張で胃が縮こまりそうになったのに。

「ああもう、都羽の立場が絶妙すぎる。由良部長も、断れないのわかってんだよね。ずるいっていうかあの人らしいっていうか」

「打合せスペースであんな誘われ方したら、断れないよ」

 本人の言うとおり、お礼をしなければならない、と強く思っているのかもしれない。むしろ、それ以外になにかある? あるとしたら、どんな理由?


「あの人にふたりきりの空間でじりじり迫られるとか、いろんな意味で気絶しそう」

「迫られてはいないけど」

「秘書室でなにか噂聞いたら、すぐ伝えるね。つまんない職場だけど、情報だけは豊富に集まってくるから」

 お願いだから無事でいて、なにかあったらすぐ連絡して。花緒が眉尻を下げてわたしの肩をばしばし叩いてくるから、大げさだってばと笑う。その優しさが心強くて、やっと食欲が戻ってくる。



「失礼がないように、粗相もしないように。それなりにちゃんと食べられますように」


 トイレの鏡に向かって呟き、嫌味のないコーラルピンクのリップをひと塗りした。髪はいつものように後ろでゆるく束ねて、小粒ダイヤのピアスをつけている。今年の夏はほとんどワイドパンツで過ごしたから、ロングスカートを履くのは久しぶりだ。

 お盆を過ぎたら涼しい風が吹きはじめ、あっという間に秋が訪れていたのはもう昔の話。あと1週間で8月が終わるにもかかわらず、まだまだ半袖が手放せない気温が続いている。


「18時に、駅の3番出口あたりで待っていてください。車で拾います」

 昼休みにメッセージが届いて、「了解しました」とだけ返信した。楽しみにしています、と付け加えようとしたけれどやめた。社内チャットを私用で使っているみたいで気が引けたのだ。

 それに、嘘はよくない。いろいろな意味でドキドキしているけれど、決して楽しみなわけではない。朝、家を出るころに起きてきたお母さんに「もしかして今日、デート?」とからかわれたのはなぜなのか、まったく見当がつかない。


 17時45分きっかりに事務室を出たとき、由良部長も亜梨沙さんも不在にしていた。あのメッセージ以外は仕事に関する会話しかしていないので、由良部長が本当に、円山公園駅の3番出口に来るのかすら怪しい、と思っていた。

 黒いボルボのSUVが目の前に停まっても、それが由良部長の車だとは気がつかなかった。少しずつ日が暮れはじめ、空が茜色に染まって山の向こうに沈んでいくのを、ぼんやりと眺めていた。

「三日月さん、お待たせしました」

 北海道神宮や円山動物園がある方向に身体を向けていたので、背後から声をかけられて飛び上がりそうになった。

 振り向くと、ネイビースーツにサックスのシャツ、黒い小紋柄のネクタイを絞めた由良部長が立っている。今日一日、事務室内の窓際上席にいたその人だ。


「タバコを吸って戻ってきたらもういなかったから、慌てて出てきたよ」

 すみませんと頭を下げるわたしに、どうして謝るんですか、と平坦な調子で問うてくる。

「誘ったほうが遅れるのは、どう考えても失礼でしょう」

 由良部長は助手席側に立つと、当たり前のようにそのドアを開けた。目を白黒させているわたしを、「危ないので早く」と急かしてくる。夕暮れ時の大通は車通りが激しい。

「あ、あの、わたし、後ろの席で」

「いいから早く」

 半ば強制的に助手席に乗せられて、もはや頭の中が混乱してきた。「都羽ちゃん」とわたしを呼ぶ、亜梨沙さんの笑顔を思い出す。申し訳なさと後ろめたさで、胃がきりきりと痛む。


「そんなに遠くはないんだけど、この時間だから道が混んでるね」

 運転席のドアが閉まった瞬間、いつも微かに感じている匂いをとても近く、そして濃く感じて、わたしはいま由良部長とふたりきりの空間にいるんだと、意識してしまう。

「もう勤務時間は終わっているので、そんなに緊張しないでください」

 ほんのり残るタバコと、甘くてミステリアスな香水の匂い。それは無理だと答えるかわりに、スカートをぎゅっと掴んだ。手のひらがひどく汗ばんでいる。



「三日月さんって、少食なほうなの?」

 なるべく視界に入れないように努めていたのに、低くしずかな声が、わたしの虚しい努力を打ち砕いてしまう。

 この季節にこれは暑苦しいですね。そう言って車内でネクタイを外し、ワイシャツを第二ボタンまで開けていた。向かいに座るその人は、普段より少しだけラフだ。ただそれだけのことで、緊張のレベルが一段階上がってしまう。

「いえ、そんなことは」

 むしろ、食べるのは好きなほうだ。こうしてメニューブックを隅から隅まで舐めるように見ていると、すべておいしそうに思えて捨てがたい。

 オムライス、いや、シーフードドリアもいいな。オムカレーとミートソースは、口の周りに残ってしまいそうだから却下だ。


「ご飯を小にしていたし、唐揚げをいちばん少ないのにしていたし、キャベツのおかわりもしなかったから」

「え?」

「先週行った定食屋。せっかくおかわり自由なのに」

 いえ違うんです。とてもじゃないけど、いつものように食べるのは難しいと思ったからで、その証拠にあの日は、15時にはお腹がすいていました。心の中でそう返す。この人と向かい合っていると、どこからどこまでを口に出していいのか判断がつかない。

「まあ、私のような上司の前でがつがつ食べろっていうのも無理な話ですね」

 さらりと図星を突かれ、お冷を咽せそうになってしまった。クラシック音楽がしずかに流れる店内に、わたしの情けない咳払いが響く。


「どうしてこんなに何度も、わたしを食事に誘ってくるんだろう」

「え?」

「はっきり言って迷惑だし、面白くもないし、永野室長にどう思われるかわからないから、やめてほしいんだけど」

「あの、由良部長?」

「きっと、そう思ってますよね。わかっています」

 由良部長は顔色ひとつ変えずにうなずき、私はオムライスにします、と続ける。

 

「じゃあ、わたしはシーフードドリアを」

「お酒は?」

「遠慮します。由良部長、車ですし」

「もちろん私は飲まないよ。ペリエでいい」

「わたしも同じものを」

「帰りはちゃんと送り届けるから、一杯くらい飲んだらいい。すみません」

 由良部長がさっと手を挙げると、ベージュのエプロン姿の中年女性が近づいてきた。シーフードドリア、オムライス、ペリエ、それと、本日のワインの白を。淀みのない声で注文し、メニューブックを閉じる。

「少し緊張を解いてほしいんだ。ここは会社じゃないんだから、上下関係は忘れて」


 それは、さすがに無理なのでは。返事を濁していると飲み物が運ばれてきた。グラスの中で繊細な泡が弾けるペリエと、金色をした白ワインだ。

 促されるままそっとグラスを交わし、フルーティーな香りが立つワインをひと口だけ含んでみる。思ったよりも軽く、さっぱりと甘い。

「おいしい、です。このワイン」

「それはよかった」

 由良部長は微かに笑いながら、こちらをじっと見つめている。氷の美男。花緒の声が蘇り、なぜか恥ずかしくなって俯いてしまう。


「すみません。わたしだけいただいてしまって」

「勧めたのは私だから」

「あの、先ほどのお話の続きなんですが……お誘いいただけるのは、嬉しいんです。ですが、どうしてだろう、というのが正直なところでして」

 リネン生地のスカートだから、あまり強く掴むと皺になってしまう。それでも、こうせずにはいられない。

「もし、スケジュール管理の仕事を任せてくださったことを気にしていただいているなら、それは」

「食事の席では、その人の本性が垣間見えると考えているから」

 決して強くはないのに、有無を言わせない潔さがある声だった。なにも返せずにいるわたしを一瞥し、「私は、三日月さんがどんな人なのかを知りたい」なんて平然と言う。


「緊張のせいか喉を通っていないようで気の毒だったけど、ご飯粒ひとつ残さずきれいに食べていたよね。キャベツのドレッシングも、ヒレカツのソースも控えめ。箸の使い方が正しくて、使い終えたら、きちんと袋にしまっていた」

 あの短時間で、そんなところまで見ていたとは。いや、それを見るために誘ったのか。

「本当は、少食ではないだろうと思っていました。社食で楽しそうに食事をしているところを何度か見かけたから」

「あの、由良部長」

「ご両親からしっかりと教育を受けて育ったんでしょう。お母さんのことを大切にしているようだし」

 ご両親、という単語が喉の入り口に引っかかって、うまく飲み下せない。わたしの記憶の中のお父さんはずいぶんと若く、色褪せてしまっている。


「三日月さん?」

「……はじめて箸を持ったくらいの年頃は、両親に可愛がられていたと思うんですが」

 食欲をそそる匂いが鼻を掠めて、白いプレートがふたつ運ばれてきた。とろとろと半熟状の卵にケチャップがかかったオムライスと、チーズにきれいな焼き色がついたドリア。縮こまっていたはずの胃が、急に活動を始める。

「ああ。お父さんが、いらっしゃらないと」

 漆黒の瞳の奥に鋭い光が宿ったように見えた。細い針で刺されたような痛みを感じながら、そっとスプーンに手を伸ばす。


「わたしが小学生のころに離婚しました。それから父とは一度も会っていません」

 もう19年も前のことだ。人生のおよそ3分の2の期間を、母とふたりきりで生きてきた。

「あまり憶えていないはずなんですけどね。ふと、家族3人で出かけたことを思い出したりします」

 由良部長は黙ってうなずくと、「冷めてしまうので、食べましょうか」としずかに促してきた。湯気とともに広がる匂いは幸せそのもので、わたしはきっと、さほど緊張せずにドリアを食べ終えられるだろう、と思った。ワインの効果もあるのかもしれない。頭が少し、ふわふわする。


「お母さんとは、ふたり暮らし?」

 スプーンに乗った卵を口に運ぶ動作すら優雅で、つい見惚れそうになってしまう。

「はい。母は総合病院で看護師をしていて忙しいので、すれ違い生活ですが」

「お父さんに会いたいと思いますか」

 チーズを纏ったエビを噛み締めながら、はい、と小さく答える。家の中で父の話はタブーのようなものだ。離婚後すぐにそれを悟り、父の話題は避けるようにしてきた。

「優しくて大きな父だったんです。大きいっていうのは、子どものころの記憶だからなんでしょうけど。平日は帰りが遅かったですが、休日はたくさん遊んでくれました。父と母は、すごく仲が良くて」

 だからこそ、離婚は青天の霹靂だった。別々の人生を歩む選択をしなければならないほどふたりの仲が冷え切っていたとは、到底信じられなかった。


「母から離婚を知らされた朝に父が家を出ていって、それきりです。ショックより驚きが大きくて、父が帰ってきてくれないことが、寂しくて」

 当たり前を突然奪われた感覚だった。それでも母は、少なくともわたしの前では一度も涙を見せず、すぐに看護師として復帰した。都羽とふたりでやっていくんだから、バリバリ働かないと。そう言って笑い、張り切っているようにすら見えた。

「突然の別れほど辛くて、尾を引くものはない。せめて納得させてほしい。まあ、大切な人との別れに納得なんてないんだろうけど」

 由良部長がペリエを飲み、独りごとのように言う。

「すみません、わたしの話ばかり。あの、由良部長のご家族は」

「いないよ。母は19年前、父は昨年の暮れに亡くなった」

 軽い気持ちで問い返してしまったことを心底後悔したが、もう遅い。そして、きょうだいがいないという的外れな共通点を見つける。

「母はずっと事故で亡くなったと思っていた。だけど最近になって、違うかもしれないと判明したんだ」


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