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The intention:思惑、2024年炎暑

――Side J


「都羽ちゃんのこと、気に入っちゃった? あまり独り占めしないでね。うちの大切なメンバーなんだから」

「難しいことを頼んでいるつもりはない。デザイン室に迷惑はかけてないだろ」

「スケジュール管理くらい、わたしがやるのに」

 本来なら自分でできることだし、おまえに頼むと却って面倒なんだよ。その言葉をぐっと飲み込み、役員説明用の資料に没頭しようとする。だが亜梨沙はそれを許してくれない。


「譲司の仕事内容なら、他の誰よりも把握してるつもりよ」

「永野室長もいずれここに座る人間なんだから、いまのうちにしっかり見ておいてください」

「誰もいないんだから、亜梨沙って呼んで」

「会社では呼ばない」

「堅いんだから」

 シフォン素材の黒いノースリーブから伸びた細い腕を、反射的に跳ね除けた。香水の匂いがする。濃厚さはなくほんのりと甘い、女性社員から好評の匂いらしいが、そのわざとらしさにうんざりしてしまう。おまえはもっと、むんむんと蒸せ返るような匂いが好みだろう。


「俺たちが公私混同すると、社員の士気にかかわる」

「それを言うなら、もっと社員に歩み寄ったらどう?」

「そんな必要はない。商品開発部長としての仕事は全うしているつもりだ」

「完璧にね」

 どんどん機械みたいになっていく、と亜梨沙が笑う。こってりとした口紅で彩られた大きめの口の端が吊り上がる。男性社員は色っぽいと言うが、周りのものを喰いつくしやしないかとひやひやする。

「都羽ちゃんもその一環? あの子、すごく真面目でがんばり屋さんなのよ。それでいて明るくて気配り上手で、デザイン室のムードメーカー」

「興味ないな」

「じゃあどうして、スケジュール管理なんて頼んだの?」

 濃いめのブラウンアイシャドウとアイラインで縁どられた大きな目が、逃すものかという視線で俺を刺す。刺し殺される、ような感覚に陥る。しかし恐怖はない。とっくに麻痺してしまっている。


「頼んだことを、しっかりやってくれそうだから」

「それだけ?」

「それ以外になにがある?」

「若くて可愛い未婚女性」

「くだらない」

 一笑に付しておくしか選択肢はない。()()()()()()()()()()、亜梨沙に知られる由はない。この秘密は、彼女にしか明かさない。


「亜梨沙」

「なに? 譲司」

「会社では俺の部下だっていうことを忘れないように」

「社外では?」

「わかってるだろ」

 どう扱えば機嫌を直すのか、手に取るようにわかる。しかし、操っているようで操られている。ここから逃れることは、できない。



「亜梨沙から聞いたよ。デザイン室の若い女の子、秘書にしてるんだって? 譲司くんは気が早いな」

「というと」

「秘書をつけるのは、役員になってからで十分じゃないか」

 それとも予行演習かな。永野利一(としかず)社長が豪快に笑うと、本革張りのソファが耳障りな音を立てて軋んだ。俺は苦味の強いコーヒーをひと口啜り、曖昧にうなずいて社長の顔を見据える。


「今春部長になったばかりですよ。役員昇進なんてまだまだです」

「俺が君を、娘の恋人だという贔屓だけで評価していると思うか?」

 恋人ではない、と即座に否定する。ただし心の中で。

「社長はそのような公私混同をする方ではありません」

「自慢じゃないが、使えないやつは容赦なく切り捨てるぞ。うちの会社に、役立たずを飼っておく余力はない」

「社長のそのご決断の速さが、ナガノをここまで育ててきたのだと思っています」

 簡潔かつ豪傑かつ強欲。誰が言い出したのかは知らないが、社長という人間を言い表すのに最適な熟語が並んでいる。しかし社長は簡潔で豪傑で強欲なだけではなく、温情も持ち合わせているのだ。ごくごく限られた人間に向けて。


「口がうまくなったね。お父さんには似ていない」

「父は口数が多い人ではありませんでしたから」

「学生時代からそうだったよ。寡黙だけど、しずかな情熱を秘めている。そういうところは君とそっくりだ」

「私に情熱とやらが」

「なければ、その若さで部長など務まるはずがない。しかし君も、女は若いほうがいいと考えるたち(・・)だったとはね」

 意外だったよ。まあ男っていうのは、いくつになっても若い女には弱いからね。言葉こそ軽いが、こちらの反応を探るようにちらちらと目配せしている。そして、光沢のある黒いスラックスに包まれた脚を、ゆっくりと組んだ。君くらい見てくれが良かったら、女なんて選び放題だろうからな。

 どうやら疑われているらしい。この人は、亜梨沙に関することになると途端に父親になる。俺が早く決断(・・)をしないことが、もどかしくてたまらないのだろう。


「女性の価値を年齢で測ろうとは思いません。社長もそうなのでは?」

 きちんと打ち返して、会話を繋げたうえで、すり替える。俺がこの人の信頼を勝ち取り続けるためには、並以上の仕事をこなすだけでは足りない。大事なひとり娘が将来を約束した相手だと思わせておくことが付帯条件であり、必須条件だ。


真澄(ますみ)のことを出されると弱いんだ、俺は」

「年齢を重ねても、若々しくてお美しい。社長が愛妻家だというのもうなずけます」

「恐妻家でもある」

「また、ご冗談を」

「ああいう女は、怒ったら手をつけられないんだ」

 これまで数えきれないほど顔を合わせている社長夫人――真澄さんのほっそりとした姿が脳裏に浮かぶ。白い肌に品の良いメイクを施し、長い髪をひとつに結えて華奢なピアスを下げている。身体の線がくっきりと出るワンピースもお手のものだ。

 真澄さんは会社の経営には一切関わっていないが、永野家と個人的な付き合いが長い俺のことをなにかと気にかけてくれる。亜梨沙との関係を強要(・・)しない希少人物だ。


「真澄さんを怒らせるなんて、余程のことでないと」

「君も真澄に騙されている男のひとりだね」

 常に熱を絶やさない瞳にじっと見つめられて、思わず身体を縮こめた。社長にとって亜梨沙は宝物だが、真澄さんはパンドラの箱、はたまたブラックボックスなのかもしれない。そう思うことがたまにある。なにが隠されているのかは見当もつかないし、知る必要もないだろう。

「亜梨沙もだんだん真澄に似てきたよ。歳を重ねるごとに旨味が増していく」

 仕事も、脂が乗り切っていますしね。そう打ち返して、効きすぎているエアコンのせいですっかり冷めたコーヒーを飲み干した。社長の表情を見るにファウルだと後悔したが、次は少なくともヒットを狙わなければいけないと心に決めて、ソファに沈みかけていた腰を上げる。

 


(たすく)と飲む日は、車通勤ができないから困る」

「地下鉄沿線に引っ越せよ。山の手なんて不便で仕方がないだろ」

「いま住んでいる家が気に入ってるんだ」

「まあ、札幌中心部に近くて、賃貸で平屋の一軒家なんてそう見つかんないよな」


 金曜日の夜、すすきのの街角はいっそう騒がしい。先週から大通公園でビアガーデンが始まっているので、そのせいもあるのかもしれない。

 会社のある円山からすすきのまでは地下鉄一本で来ることができず、大通駅で東西線から南北線に乗り換えなければならない。

 円山にも酒が飲める店はあり、それはだいたい小洒落たイタリアンレストランだとかバルだとか、個人的な話をするのに向いてはいるのだけれど、俺たちは一旦の手間を踏む。なぜか。

 単純な話だ。社員に鉢合わせすると面倒だから。あとは、行きつけのワインバーがすすきののど真ん中にあるから。

 南北線すすきの駅の5番出口を出ると、右手に真新しいビルがそびえ立っている。もともと「ラフィラ」であったそのビルが「ココノススキノ」という商業施設に生まれ変わったのは昨年のことだ。らしくない清潔感と明るさを強調しているようでどうにも慣れない。


「なにも平屋じゃなくたって、マンションなら階段に世話になることなんかないけどな」

「階段は、会社のだけで懲りてるんだよ」

 輔は黙ってうなずくと、「それよりおまえ、暑くないの。まだ26℃あるらしいぜ」とスマートウォッチに目を遣った。ブラウンの薄手ジャケットを腕に掛け、黒い半袖ニットポロから太くて硬そうな二の腕を覗かせている輔にとって、俺のスーツ姿は暑苦しく映るらしい。

「店に着いたら脱ぐよ。袖を捲りたくて仕方がない」

 ある事故のせいで階段が苦手になったと打ち明けたときも、輔は笑ったりしなかった。もっとも、そういう男だから打ち明けた。輔以外でそれを知っているのは、利一社長だけだ。


 塚本輔は入社5年目だが俺と同い年の37歳で、ナガノに入る前は市内の法律事務所に勤めていた。現在は法務部のコンプライアンス担当マネージャーだ。

 入社当時、社長から「かなりやり手の即戦力が来てくれた」と聞かされ興味を持っていたところに、ちょうど法務部に相談したい案件ができた。当時の俺は事業開発課長で、部下から新規事業の提案を受けては捌く立場だった。新規事業、すなわち新商品を開発するにあたっては、競合他社が出す同様の商品を意識する必要がある。知的財産権などに関することで法務部を頼るのは日常茶飯事だ。

 

 法務部はだいたい法学部の出身者で構成されているが、全員が弁護士資格を有しているわけではない。つい最近まで現役の弁護士として活動していた輔の知識量と経験値は圧倒的だった。「今後なにかあれば君にお願いします」そう言って肩を叩いた俺に、「なんなりとお申しつけください」と輔は微笑んだ。

 何度か話をしていく中で同い年だと知り、「よければ一度飲みませんか」と誘われたのがきっかけだった。はじめて一緒に飲んだ日、俺はめずらしく酔っ払い、豊平川沿いのマンションに住む輔に介抱してもらった。


「そういやおまえ、三日月を秘書につけたんだって? 俺の同期、いじめるなよ」

「いじめてない。秘書でもないし」

「いったいどういう風の吹き回しだ? 一匹狼の譲司が若い女の子を取り込むなんて」

「なんだよ、急に。まだ飲みはじめてもいないのに」

 いつものカウンター席に通され、今日のおすすめとパテの盛り合わせを注文すると、顔見知りのバーテンはしずかにうなずいて背を向けた。輔がハイライトとジッポライターを尻ポケットから取り出したので、俺も倣って、ジョン・プレイヤー・スペシャルのボックスとライターをカウンターに置く。

「会ったら訊いてやろうと思ってたんだよ。ようやく永野家から逃れたくなったのかってな」

 ハイライトの蒸せるような煙が、トムフォードのタバコ・バニラと混じり合う。輔が纏っている香りは、どこか重苦しい。


「どういう意味だよ」

「永野嬢への反逆にしては、ちょっと遅かったんじゃないか?」

「そんなんじゃない」

 輔はヘビースモーカーと呼んでもいいくらいの愛煙家で、一本吸い終えたかと思えば、流れるように次のタバコへ手を伸ばす。俺が咥えたタバコに輔がジッポライターで火をつけたところで、深い色をした赤ワインが差し出された。北海道の老舗ワイナリーが造ったピノ・ノワール、2020年産。そこそこ希少で、常連にしか提供されないものだ。

「それなら単純に、ああいうのが好みか? 裏表がなさそうな、生粋のいい子ちゃんタイプ」

「彼女はそういうタイプか?」

「知ってて近づいたんじゃないのか」

 輔は微かに驚いてみせると、ワイングラスに鼻を近づけて愉しむように香りを吸い込んだ。

「知らないから近づいたんだよ」

 まだ半分ほど残っているタバコを口から離し、肺までゆっくりと煙をめぐらせる。深く呼吸をする。悪いものを身体に入れている感覚は確かにある。しかし、気持ちよさが勝る。まさに中毒だ。


「真面目で仕事熱心で、人当たりがいい。間違いなく“いい子”と評される部類だ」

「一週間仕事をしてみて、俺もまったく同じ感想を持っている」

「男女問わず好かれるタイプだな。同期として付き合っている感触だと、特に欠点が見当たらない」

 パテの盛り合わせが運ばれてくる。ほぼ同時にひとつずつ食べ、タバコの箱に手を伸ばした。ミラーリングのようだと思ったところで、輔が先に笑みをこぼした。「おまえといると、動作まで似てくるよ」

「真似するな」

「どっちが」

 ハイライトの渋い香りがまた漂ってくる。俺もJPSに火をつけた。輔は火をくれたりくれなかったり、気まぐれだ。

「そういえば、白戸が狙ってるな。三日月のこと」

「白戸?」

「最初は店舗運営部で、去年から広報室にいる。知らない?」

 本社にいる150名ほどの顔と名前はすべて頭に入っているはずだ。その中から広報室の白戸を探し当てる。白戸瑞帆、新卒で2020年入社。すれ違いざまに挨拶を交わしたことくらいはあるだろう。

「顔と名前は知っている」

「悪いやつじゃないんだけど、調子がいい感じだな。チャラチャラしてるっていうか」

「その白戸が、三日月さんを?」

「俺もよく知らないけど、ちょっと付き合ってたらしいんだよ。まあ、三日月には荷が重かったんじゃないか。ああいう掴みどころがない男は」

 そうか、と相槌を打ってワインを口に含む。三日月都羽の恋愛事情には興味がない。


「三日月さんの家族構成は、知ってるか?」

 俺が問うと、輔は顎に手を当てて視線を宙に彷徨わせた。少し考えて、「未婚だぞ」と答える。

「知ってる。そうじゃなくて」

「実家住まいかってことか? いや、そこまでは知らないな」

「そうか。ありがとう」

 俺が知っている以上のことを知らないのであれば、あまりこの話題を続けるのも不自然だろう。いつものように仕事の話題に移ろうと口を開いたところで、輔が俺の顔をじっと見据えてくる。

 

「三日月に気があるのか? それとも、永野嬢への反逆なのか?」

「どちらでもない」

「なら、どうして」

「確かめたいことがあるんだ。永野家は関係ない。俺が三日月都羽に直接、どうしても確かめたいことがある」

 脳裏に浮かんでは流れていくさまざまな記憶の数々が、俺の声に余分な力を込めさせた。知りたい、確かめたい、そんな生半可なものじゃない。知らなければならない、確かめなければならない。ひとり遺された俺には、その義務がある。


「いまは詳しく訊かないけど、俺にはちゃんと、全部話せよ」

 輔といると心地がいいのは、皆まで言わなくても伝わるからだ。そして、強要せず期待しない。俺という人間が俺のまま感情を持ち、発言し、そこにいることを許してくれる。

「譲司はいつも、全身ガチガチに凝り固まってんだよ。どうだ? ここでそろそろ、永野家からの離脱を考えてみるってのも」

「無理だよ。社長にも真澄さんにも、さんざん世話になってるんだ」

「その恩返しで永野嬢と一緒になるなんて、あまりに馬鹿げてるぞ。おまえの人生はおまえのものだ」

「俺にはもう家族がいないから、あの人たちが家族みたいなものなんだよ」

 大げさではなくそう思って生きてきた。俺は社長のために、会社に尽くしている。誰に非難されようと、それが事実なのだ。


「家族なんて、俺もいないようなものだぞ」

 微笑んではいるが、おそらく内心苛立っている。輔が社長派でないことは百も承知だ。

「だけど、この世にはいる」

「会わなければ、いないのと同じことだ」

 もう何本目かわからないハイライトに火をつけて、燻る感情を消化するように煙を吐く。立ちのぼっていく煙が、俺たちの頭の上でもやもやと渦を巻く。


「俺はただ、譲司が幸せならそれでいい」

 幸せという言葉について考えたことなどない。もしあるとすれば、18歳の夏より以前だ。

 しかしそのころの俺は守られている側の存在で、もう二度と手に入らないものを当たり前のように享受していた。それが幸せだと知らない、幼い子どもだった。



「由良部長、おはようございます。13時からの会議ですが、場所が変更になりました」 

 おそらく胸くらいまであるだろう焦茶色の髪をひとつに束ね、涼しそうな麻のブラウスを着た三日月都羽が、朝から生真面目な顔で報告してくる。

「どこ?」

「役員会議室が急遽使用できなくなったようで、会議室Bに変更と連絡がありました」

「ありがとう」

 礼を言っただけで意外そうにし、ばつが悪そうな顔で下がっていく。彼女に仕事を頼んで三週間ほど経つが、この反応は初めと変わらない。

 俺はいったい、どんな鬼だと思われてるんだろうな。その印象をつくり出したのは自分に他ならないはずなのに、ちょっとした虚しさが襲ってくる。


 8月になった。今週の土曜日から15日までは盆休みだ。しかし今年の暦では16日が金曜日のため、そこで有給休暇を取り、夢の9連休にしている社員も多い。

 俺はというと、昨年の暮れに亡くなった父の初盆だが、親戚とはほぼ縁が切れているのでひとりで墓参りに行くだけだ。ようやく母の元へ行くことができて安堵しているだろう。寡黙な父と陽気な母は、あの世で無事に再会できただろうか。


「三日月さん、16日は出勤するんですか」

 ふと思いついて、小さく華奢な背中に問いかけてみた。三日月は跳ねるように振り返り、「はい。10日からの6連休で十分ですから」と夏の花のような笑顔で答える。

「せっかくだから休んだらいいのに。外部からの連絡もそんなに来ないと思いますよ」

「ですが、由良部長は出勤されますよね?」

 出し抜けに訊かれ、まあ、と間抜けな返事をしてしまった。

「それならわたしも出勤します。急な会議や打合せが入るかもしれませんし」

 当たり前のように言って席に戻ろうとした三日月を、もう一度呼び止めた。俺はいったいなにをやっているんだと、内なる自分が舌打ちする。

「休んでもいいよ。一日くらいなんとでもなる」

 というより、本来は必要ないんだ。君にくだらない仕事を頼んでいるのは、他に理由がある。

 

「いえ、いただいた仕事は全うします。それに」

 三日月は言葉を切ると、内緒話をするように声をひそめた。そして俺のデスクに近づくと、仕掛けたいたずらがバレた子どものような表情を浮かべる。

「予定が、母と温泉旅行に行くだけなんです」

 この歳になるとみんな、旦那さんや子どもと過ごしたり、付き合っている人と過ごしたりしているんですが、わたしは、母と過ごすんです。小さな声で恥ずかしそうに打ち明けてきた三日月の顔を、ついまじまじと見つめてしまった。頬がほんのりと赤くなっているのは、化粧のせいではないだろう。


「そういうことなので、気になさらないでください。中途半端になっていた仕事も片づけたいですし」

「お母さんと、仲がいいんだね」

 真面目で仕事熱心で、人当たりがいい。間違いなく“いい子”と評される部類。輔の言葉を思い出す。職場でも家でも“いい子”か。つい悪態をつきたくなるが、三週間接してきた印象と仕事ぶりから察するに、確かにそうなのだろう。

 

 特別美人というわけではないが、比較的整ったくせのない顔だ。こういうのを世間では、愛嬌がある、とかいう。可愛いとよく言われていそうな。

 新卒といっても通用しそうな雰囲気を持ちながら、仕事は想像以上にこなす。デザイン室から聞こえてくる明るい声はだいたい彼女のもので、小さく控えめに笑うかと思いきや、わりと豪快に、心から楽しそうに笑う。

 きっと、きれいな温室で育ってきたんだろう。それを想像すると、心の奥底にぐつぐつと黒いものが湧き上がる。(けが)れも哀しみも知らないことが、恨めしく憎らしく、うらやましい。


「はい。うちには父がいないので」

 普段と変わらぬ声で明言した三日月に、「16日は、また打合せに付き合ってください」と持ちかけて立ち上がった。いまのところ特に予定は入っていませんが、と戸惑う彼女の隣に並ぶ。

「由良部長、あの」

「昼の話です。私がいつも行く定食屋に、ぜひ」

 いつも俺の席の前に座る厄介な存在は見当たらなかったが、周りに聞かれたい誘いでもない。面倒な噂でも立てられたら、たまったものではない。



 甘く艶のある香りが、由良部長がすごく近くにいることを意識させる。

 いつもいい匂いがするけど、なんの香水をつけているんだろう。その中に潜むタバコの残り香も、由良部長にかかると魅力的に思えてくるから不思議だ。


「三日月さん?」

「あっ、えっと、16日のお昼、いや打合せ、ですよね」

「そんなに怖がらないでください」

「いえ、怖がるなんて、滅相もない」

 ちょっと上を向くと、すぐそこに端整な面貌が迫っている。わたしより10歳も上なんて嘘でしょう、と疑いたくなるほどきめ細かい肌に、少しだけ残る髭の跡。目線を下げると、薄いストライプ柄の入った水色のワイシャツから透けそうな、逞しい胸板。いままでの人生で出会ったことがないような、完璧な美しさと色気を持った男性。


「行動予定表に入れておいてください。あれは、私と君しか見ることができないので」

「は、はい。あっ、でも」

 今日、亜梨沙さんは地方出張で終日不在だ。ほっと胸を撫で下ろし、なぜ安心しているのだと自問する。

「16日、永野室長は休暇を取っています」

「えっ」

「海外旅行に行くそうなので、間違っても出社することはありません」

 そういえば、韓国に美容の旅に行くって言ってたな。昨日の残業中、デザイン室メンバーで雑談を交わしたことを思い出す。エステと美容医療クリニックとコスメ爆買いで、日頃の憂さ晴らしをするの。わあ亜梨沙さんらしい、お土産楽しみにしてます、ってみんなで盛り上がったっけ。


「断る理由はないと思うけど」

 香りがさらに近づいてきて、わたしをまるごと覆ってしまう、ような錯覚を見た。

 この、ふいに敬語が解ける瞬間に胸が高鳴ってしまうのは、きっと悪いことだ。わかっているのに、無意識だからどうしようもない。人生で出会ったことがないようなタイプの人だから、免疫がないんだ。ただそれだけ。他に理由なんてない。

「はい。あの、次は、自分の分は自分で」

「君にお礼をしそびれているよ」

「とんでもありません。本当に、お気になさらないでください!」

 髪に息がかかるほど近づかれて、慌てて飛び退いた。頭の中は沸騰寸前で、目の前がくらくらする。

 必死に呼吸を整えているわたしを、由良部長が苦笑を噛み殺したような顔で眺めている。からかわれているのかもしれない、とようやく思い至る。


「あの、由良部長」

 からかわないでください、なんて絶対に言えない。相手は氷の美男だ。

「16日の次の打合せは、終業後にお願いします」

 由良部長は平坦な口調で続けると、何事もなかったかのように着席した。キーボードを規則正しく打つ音が聞こえはじめてからその意味に気づき、また頭の中が煮立ちそうになる。


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