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The beginning:始動、2024年初夏ー①


 その人に名前を呼ばれた瞬間、なにか悪いことをしてしまったのだろうかと身が竦んだ。


 三日月(みかづき)さん、とわたしを呼んだその声に、ただならぬ冷徹さと軽蔑が含まれているような気がしたのだ。一瞬動きを止めてしまってから返事をし、席を立つまでのわずか数秒の間すら、その人はわたしから目を逸らさなかった。

 おそろしく仕事ができること、常に冷静で判断を誤らないこと、創業以来最速ともいわれるスピード出世を成し遂げていること、そして、はっと目が覚めるような美しい顔立ちをしていること――それが、わたしが知っているその人についてのすべてだ。


 由良(ゆら)部長は事務室を出ると、廊下を颯爽と歩いていく。ずいぶん大股だと早足で追いかけながら気づいたのは、ただ単に脚が長いのだということだった。

 夏が始まったばかりだというのにダークグレースーツをきっちり着込んだその人は、躊躇なく事務室横の打合せスペースに入っていく。5、6人で軽い打合せをするのに適した小部屋だ。わたしが所属するデザイン室の社員は、ほぼ毎日ここを使っている。


「商品開発部デザイン室所属、三日月都羽(とわ)さん」

 部屋に入るや否や低く硬い声で名前を呼ばれ、背筋に冷水が伝っていくような心地がした。はい、と答えた声は上擦ってしまい、上司に対して失礼だと慌てて顔を上げる。

「道内公立大学のデザイン学部卒業、インテリアデザイナーの資格を所持。2020年新卒入社。“ラヴィ・パルフェ”のシリーズを手掛けたいと最終面接で答え、現在、同シリーズの生活雑貨を担当している」

 履歴書でも見ながら話しているのかと思ったが、由良部長が見ているのは、よく磨かれた自身の革靴のつま先だった。書類の類はなにも持っておらず、ただ腕を組んで難しい顔をしている。

「既存商品に関する業務だけでなく新商品に関する企画書も頻繁に提出し、3ヶ月に一度の社内コンペにも必ず参加している」

「は、はい」

 いったいわたしは、なんのために呼ばれたのだろうか。部署のトップである商品開発部長と一対一で話す必要があるほど、なにかをやらかしてしまったのだろうか。まったく身に覚えがない。


「三日月さんにとって、デザイン室の仕事は面白いですか?」

 漆黒の瞳がわたしを捉える。きりっとした平行二重は作りもののようにきれいだ。

「入社して5年目、そろそろ新しい仕事に挑戦してみませんか」

「新しい仕事、ですか」

 それならすでに、かなりの頻度で降って湧いてきている。

 株式会社ナガノで手掛ける家具やファブリック等のインテリア用品はすべてオリジナルであり、そのデザインのすべてをわたしたちデザイン室が担っている。日々新しいものを提案していく必要があり、常に進化と革新が求められる。言ってしまえば、毎日が「新しい仕事」だ。


「今年の春から商品開発部長になったけど、思ったよりも渉外用務や会食が多くてね」

 イケメンっていうかハンサムっていうか美男? 同期であり親友でもある橋場(はしば)花緒(かお)の一言だ。あのときは「美男って褒めかたはじめて聞いた」なんて笑い飛ばしたけど、いま、ひしひしと感じている。この人は間違いなく美男だ。圧すら感じる美しさのせいで顔を直視できない。直属のトップなのに。

「スケジュール管理が大変なんだ。昨日なんて、大事な会議がダブルブッキングしてしまってね。片方を15分で切り上げて、慌ててもう片方の会議に向かった」

「それは、大変でしたね」

「そう、大変なんだ」

 降りたブラインドの隙間から射し込む光が、おそらくワックスかジェルでセットしているであろう黒髪をつやつやと照らす。若干鷲鼻気味の高い鼻はこちらを向いておらず、繊細そうなまつ毛も伏せられている。


「だから君に、私のスケジュール管理を頼みたい」

 その視線がもう一度わたしを捉えたとき、底のない沼に突き落とされるイメージが浮かんだ。

 なぜかはわからない。由良部長の瞳が、あまりに黒く澄んでいるせいか。

「わたしに、ですか?」

「三日月さんの時間外勤務の状況、現在の業務内容はだいたい把握している。スケジュール管理といっても、私の行動予定をシステムに入力して各業務が重ならないようにしてくれたらいい。難しいことじゃない」

「ですが」

 どうして、わたし? 今年の春まで同じ部署になったこともなければ、話した記憶もほとんどない。スケジュール管理なら、由良部長が昨年度まで課長を務めていた事業開発課のメンバーに頼んだほうがスムーズじゃない。


「私は役員ではないから秘書はつかない。だけどおそらく、並の役員より忙しい」

「それは、存じております。あっ……役員の方々が忙しくないとか、そう思っているわけではなくて」

「うちの役員の半分は暇してる。秘書室の社員を半減して、他の部署に回すべきだ」

「あの、それではまず、亜梨沙(ありさ)さ……永野(ながの)室長に」

「永野室長の許可はいらない。なぜなら君も永野室長も商品開発部の社員であり、私の部下だから」


 淀みのない口調で返されてしまっては打つ手がない。それに、あまり口答えをすると「やりたくないということですか」と睨まれかねない。

 由良部長はおそろしく仕事ができるしおそろしく美しい容姿を持っているけれど、おそろしく冷淡なのだ。喋りかたや表情に温度を感じない。笑ったところなど見たこともない。この人に気軽に話しかけられるのは、亜梨沙さん――我がデザイン室長くらいだろう。


「これは、部長である私からスタッフの君に下す業務命令です。本来の業務に支障を来たすようなものではありません」

「……はい」

「戻ったら、私の行動予定を共有しておきます。業務管理システム上で見られるので、向こう一ヶ月の予定を大まかに把握しておいてください。会議やイベント、会食などの予定が入ったら都度社内チャットで共有します」

「はい」

「永野室長に決裁権限を与えるつもりはないので、基本的には私と君が直接やりとりすることになります。それではよろしく」

 口答えをする間もなく、話がまとまってしまった。

 さすがだと呆気に取られている間に、由良部長が部屋を出て行こうとしている。商品開発部のスタッフは総勢30名近くいるはずだ。その中でどうして、なんの接点もないわたしに。その疑問をぶつけることは、もちろんできない。


「あの、由良部長」

 思わず呼び止めてしまった。わたしから言えることなど、なにもないのに。

「なにか質問でも」

「いえ、あの……よろしくお願いします。由良部長の忙しさを少しでも軽減できるように、精一杯がんばります」

「特にがんばらなくてもできる仕事です。それに、君は優秀だと聞いているので」

 ドアノブを回す音がやたら大きく響いて、肩がびくりと震えてしまった。廊下からいつもの空気がなだれ込んでくる。この人と密室でふたりきりという状況に、全身がすっかり縮こまっていたらしい。

 由良部長よりワンテンポ遅れて部屋を出る。早く業務管理システムを確認しなくてはと顔を上げたところで、あやうくダークグレーの背中に激突するところだった。なんでこんなところで止まってるの、という文句は、もちろん飲み込んでおく。


譲司(じょうじ)、どうしたの。うちの都羽ちゃんに、なにか用?」


「……頼みたい仕事があったんだ。そこをどいてくれ」

「都羽ちゃんに、譲司が? わたし、なにも聞いてないけど」

「室長を通すほどの件じゃない」

「都羽ちゃんの直属の上司はわたしよ。それでなくても都羽ちゃん、最近忙しいんだから」

「そんなに気になるなら本人から聞いてくれ。これから会議なんだ」

 由良部長は立ちはだかる亜梨沙さんを追い払うような手つきをすると、颯爽と廊下を歩いていってしまう。心なしか、さっきよりも大股で。

 皺ひとつないスーツを纏った広くしなやかな背中を睨みつけ、亜梨沙さんが「感じ悪」と低く呟く。それから両手を腰に当ててわたしに向き直り、「なんかごめんね? あんなんで」と苦笑いを浮かべた。


「とんでもないです。というより、由良部長を“あんなん”なんて言えるのは、亜梨沙さんくらいだと思います」

「高校時代からの腐れ縁だからね。昔はもっと明るかったんだけど」

「明るい由良部長って、想像できないです」

「だよねー。あんなに怖い顔ばっかりしてるから、みんなに遠巻きに見られんのよ」

 亜梨沙さんはプラムレッドの唇を少し尖らせてため息をつくと、「で、譲司になにを頼まれたの?」と小声で訊ねてきた。

「渉外用務や会食が多くてスケジュール管理が大変だから、それを頼みたいと」

「都羽ちゃんに?」

「はい。正直言って、どうしてわたしなのかさっぱり」

「だよね。そういうのって普通は事務職の仕事だし、都羽ちゃん、譲司と同じ部署になったことないでしょ? 接点あったっけ」

「いえ、まともに話したのもさっきがはじめてです」

「ふうん……急にどうしたのかな」

 亜梨沙さんは顎に親指を当てて考え込んでいる。ボリュームのあるまつ毛を揺らして何度かまばたきをし、無理しなくていいからね、なんならわたしがやってもいいし、と大きな目をさらにぱっちり見開いて提案してきた。


「そんな。亜梨沙さん、わたしよりずっとお忙しいですし」

「譲司のスケジュール管理くらい余裕よ。会議の内容とかも解ってるし」

「いえ、でも」

 部署のトップに、わざわざ別室に呼ばれて、依頼されたのだ。頼まれたそばから室長に押しつけるなど、できるはずがない。

「頼まれたのはわたしなので、責任を持ってやります。もちろん、通常業務に支障は来たさないようにします」

 お気遣いありがとうございます。そう言って軽く頭を下げた瞬間、どこか不満そうな亜梨沙さんの表情がよぎった。

 なにかまずいことを言ったかな。ひやりと、鼓動が速くなる。

 数秒してからおそるおそる直ると、亜梨沙さんはいつものように口角をきゅっと上げて、「そう。でも、キャパオーバーしそうならいつでも相談してね」と微笑んでいた。



 席に戻って業務管理システムにアクセスすると、さっそく由良部長の行動予定表が共有されていた。

 会議だと言っていたのに、いったいいつ操作したんだろう。三秒考えたところで、社用携帯からだと思い至る。仕事ができる人こそ雑事を後回しにしない。


「わ、ほんとに忙しい」

 7月16日火曜日、今日。11時、販売戦略室会議――これは現在。12時、社長室――一緒にランチを摂るのだろうか。13時、外勤(本店マネージャーと面談)――札幌駅直結のビル3階に、家具やインテリア雑貨を展開するライフスタイルショップ「nagano」本店を構えている。市内にあと2店舗、仙台、東京、大阪、名古屋にも支店がある。14時半、法務部コンプライアンス担当――塚本(つかもと)先生のところだ。15時にまた外勤、16時に事業開発課会議、17時にデザイン室長打合せ。やっと自由になれるのは18時以降といったところか。


「これは、ダブルブッキングするよねえ……」

 頬杖をつきながら呟いて、事務室内の給湯スペースに向かった。亜梨沙さんが自腹で設置したデロンギのコーヒーマシンで、熱々の挽きたてコーヒーを淹れる。

 株式会社ナガノは8つの部署で構成されている。商品開発部長は総務系部署5つを統括する組織管理本部長の次に忙しく、出世を約束されたポジションともいわれる。昨年度までの部長も順当に出世し、今年度から役員の仲間入りを果たした。

 由良部長が「異例のスピード出世」だと騒がれたのは、今年で37歳という若さで部長になったからだ。これまでは若くても40代後半、50歳前後で部長職に昇進するのが平均的だった。

 なぜ由良部長は、若くして部長の座に就けたのか――。


 ――おかしいよな、永野室長より出世が早いって。

 ――それはほら、社長と社長の側近役員に取り入って手を回してるから。

 ――社長のお気に入り、永野室長の婚約者。俺たちと違って将来が約束されてんだよ。おまけにあの見た目だし。

 ――いやいや、最後のはただの僻みだろ。


 残業中に隣の課――事業開発課からたまたま聞こえてきた雑談の一部始終が、その答えらしい。わたしのような下っ端社員でも知っているのだから、社内では周知の事実といっても過言ではない。

 それにしても、ついこの間まで一緒に仕事をしていた人たちからこんなふうに言われているなんて、由良部長本人が知ったらどんなに切ないだろう。雑談を耳にしたとき、わたしはその社員たちを心底軽蔑したのだった。


 ――でもさ、永野室長のほうが由良部長にぞっこんじゃん。

 ――永野室長ってすげえ美人だけど、もういい歳だしな。早く結婚してやればいいのに。

 ――婚期引き伸ばしてんのも戦略だったりして。

 ――あの人ならありえるわ。策士も策士だもんな。


 残業してるんだから、さっさと仕事終わらせて帰ればいいのに。もう聞いていられない、とわたしは事務室を出た。数日前の話だ。

 永野室長――入社当時からお世話になっている亜梨沙さんは、社員としてもデザイナーとしても大先輩なのに決して気取ったり驕ったりせず、問題が起きたときには「自分ごと」として親身になってくれる人だ。

 そのうえ美人でおしゃれで頭も良く、あの由良部長と婚約しているときたら、当たり前のように全女性社員の憧れの的である。亜梨沙さんが社長令嬢であることを普段から気に留めている人は少なく、それはひとえに、彼女の人柄のおかげだ。


 作成途中の図面――新作として出す予定のランドリーシェルフだ。シンプルかつコンパクトに、しかし機能性と美しさも忘れずに、というオーダーがなかなか悩ましい――を呼び出そうとしたが、思い直し、由良部長の行動予定表を表示する。今週はどの日も今日のようにびっちりだ。ここに新たな予定を追加する余地などあるのだろうか。

 今年度から役員秘書室に異動した花緒に、お偉いさんのスケジュール管理のコツでも伝授してもらおう。そう思って社内チャットを開いた瞬間、誰かからメッセージが飛んできた。


「7/18 12時〜13時 商工会議所打合せ」

 素っ気ないメッセージの送り主はもちろん由良部長だ。「了解しました」と打ち終えてから、もう一文添えられていることに気づく。

「昼休み時間の打合せですが、三日月さんも同行してください。昼食は打合せ後に」

 あくまでスケジュール管理のみで、本来業務には差し支えないようにしてくれるのではなかったのか。打合せに同行するということは、記録簿作成もセットということで――。

「7/18の件、了解しました。よろしくお願いいたします」

 どんなに不服でも、文句など言えるはずがない。わたしはどうやら、あの由良部長の秘書のようなもの、になってしまったらしかった。


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