⑫祖国への帰還
東京で暮らし始めてちょうど一年。
春の風がまた桜を咲かせ始めた頃、ケンジは大学の教授室に呼ばれた。
「君の祖国の状況がだいぶ落ち着いてきたそうだね」
教授は優しく言った。
その言葉はケンジには鋭い刃のように胸に刺さる。
「君の籍の問題もあるし……このまま正式に滞在を延長するのは難しいだろう。君も分かっているね」
ケンジは小さく頷いた。
頭では分かっていた。
この国に永遠にいられる保証など、最初からなかったのだ。
モニカは静かに受け入れた。
けれど、ユウコだけは違った。
「……もっと日本にいたかったのに」
夜、こたつに入ったユウコは泣いていた。
「こっちでならケンジとずっと穏やかに暮らせるって思ってた。
要塞なんて作らなくても、銃声も爆撃もない。ずっと……ここにいたかったよ」
ケンジはユウコをそっと抱き寄せた。
細い肩が震えている。
「……ごめんな」
「ケンジのせいじゃないよ。分かってる……でもやだよ」
ユウコは涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「もっともっと、いろんなとこ行きたかった。京都も、札幌も……水族館だって、ケンジと一緒に……」
「また来ればいい。いつか、今度はもっと長く」
「……ほんと?」
「ああ。必ずだ」
モニカが隣でそっと手を伸ばし、ユウコの髪を撫でた。
「また来ようよ。三人で。ケンジなら、どんな場所だって連れてきてくれるよ」
ユウコは小さく頷いて、二人にしがみついた。
帰国の日が決まった。
残された時間はあとわずか。
ケンジはユウコとモニカを連れて、東京を歩いた。
浅草の賑やかな通り、渋谷の雑踏、桜の舞う上野公園。
どこへ行ってもユウコは目を輝かせ、時折泣きそうに笑った。
「ねぇ見てケンジ、あれ桜の花びらが川に流れてく……」
「花筏っていうんだ」
「きれい……来年もまた見たいな」
「来ればいいさ。いつでも」
そう言って頭を撫でると、ユウコは子どものように甘えて肩に頬を寄せた。
モニカは少し離れて桜の写真を撮っていたが、振り向くと柔らかく微笑んだ。
「ケンジ、私も撮って」
三人で桜をバックに写真を撮った。
その一枚が、何よりの宝物になる気がした。
成田空港。
ゲートへ向かう道は思いのほか短くて、ユウコは何度も立ち止まった。
「……ほんとに帰っちゃうんだね」
「一度な。だがまた来るさ。約束だ」
ケンジはユウコの両頬を包むようにして顔を近づけた。
「ここはお前が好きだった国だ。ならまた一緒に来よう。必ず」
ユウコは真剣にケンジの目を見つめ、それから堪えきれず涙をこぼした。
「うん……約束だよ」
モニカはそっとユウコの肩を抱き寄せた。
「泣き虫。ほら、ケンジが困ってる」
「……困ってない」
ケンジは苦笑し、二人の頭を撫でた。
そのまま手をつないでゲートへ向かう。
東京での一年間はあまりにも短かった。
けれど、確かに三人で過ごした時間だった。
再び踏んだ祖国の大地は、以前よりも穏やかだった。
銃声も爆撃音も減り、人々は小さな畑を耕し、家を建て直していた。
ケンジは再び棟梁のように材木を運び、壁を積み、屋根を張った。
モニカとユウコは近所の子どもたちに簡単な日本語を教えたり、畑を手伝ったりして暮らした。
それでも時折、ユウコは夜の焚き火の前で小さく呟く。
「……また日本行きたいな」
「必ず行く。お前が望むなら何度でも」
「ほんと?」
「ほんとだ。今度はもっと長く滞在する。
俺が要塞を完成させて……ここを完全に安全にしてから、絶対に連れていく」
ユウコは嬉しそうに目を輝かせた。新しい家は、あの厳つい棟梁が建てた要塞の家に代わるもの。
モニカがにっこり笑って言った。
「お風呂はね、絶対に露天風呂風がいいの!星を見ながら入るの憧れなのよ!」
ケンジは眉間にシワを寄せた。
「ちょ、ちょっと待て。それじゃ外から丸見えだろ。狙撃されたらどうする!」
「大丈夫よ、誰もあなたの裸に興味ないから!」
「む…それはそれで傷つくぞ!」
そんなやり取りをしながらも、ケンジは結局モニカの願いを叶える図面を描きはじめるのだった。
丘の中腹を削ったその土地に、今、分厚いコンクリートの基礎が築かれようとしていた。
資材はふんだんにあった。
鉄筋も高張力鋼板も、どこかの軍需備蓄から流れてきたもの。
それを買い集めた資金は、かつてケンジが暗殺請負人として手にした大金――とりわけ、かの大統領を射殺した報酬だった。
その血塗られた金で、ケンジは家を作る。
「要塞っていうけど……ほんとにこれ、家なの?」
ユウコは半ば呆れたように、巨大な地下シェルターの図面を見て言った。
「家だ。誰にも壊されない、お前たちを守るための家だ」
ケンジは迷いなく答えた。
「でも……プールに映画館まで? 娯楽も要るの?」
モニカが苦笑しながらユウコに視線を送る。
「要るんだよ。ケンジがそう言うなら」
ケンジは少しだけ照れたように口元を緩めた。
「ここに閉じこもることになっても、退屈だけはさせたくない。……贖罪みたいなものだ」
ユウコは小さく首をかしげて笑った。
「じゃあ……いっぱい映画見よ。ずっと一緒に」
工事は驚くほど順調に進んだ。
資材の調達ルートを持つ仲介業者、ケンジに恩義を感じている元傭兵たち。
誰もが金払いのいいこの仕事を優先した。
地下五層、地上二層の鉄筋コンクリート要塞。
防弾シャッター、耐衝撃ドア、弾薬庫にウォーターリザーブ。
そして小さなプールに、映画を投影できるシアタールームまで備えた。
その光景を見ながら、ユウコはそっと呟いた。
「……戦争が終わったら、ただの家になるんだよね」
「そうだ。お前たちの笑い声だけが響く家にする」
モニカはケンジの腕に寄りかかり、目を細めた。
「なら早く完成して。私、ここでずっと暮らしたい」
工事が8割を超えた頃。
夜は仮住まいのロッジで三人、暖炉を囲んだ。
モニカはケンジの膝に頭を乗せ、ユウコはその肩に寄り添っている。
「こういうのが、ずっと続けばいいのに」
ユウコがぽつりと言った。
「続けるさ。そのための要塞だ」
ケンジは穏やかに微笑む。
だが、その背中には常にSIGが置いてあった。
そして――不穏な空気は、静かに忍び寄っていた。
夜半。
犬が激しく吠え立てる声が響いた。
「……!」
ケンジは即座に跳ね起き、銃を取り上げる。
「どうしたの?」
「静かにしろ。灯りを消せ」
ユウコは怯え、モニカは無言で拳銃を構えた。
外で犬が一声悲鳴のように吠え、そして沈黙する。
直後、林の向こうからスコープの赤外線光が一瞬走った。
(――やはり来たか)
ケンジは低く息を吐く。
大統領を殺した男を、世界がいつまでも放っておくはずがなかった。
「ユウコ、奥のパニックルームへ。モニカ、お前はここで俺を援護しろ」
「任せて」
ユウコは泣きそうな顔でケンジにしがみつく。
「ケンジ……絶対、戻ってきて……」
「必ずだ」
キスを一つ落とし、ユウコを押しやる。
モニカが窓の影からドラグノフを構える。
「三人はいる。全員サプレッサー付きの突入装備」
「……玄関から入る気か」
「裏手も注意して」
ケンジは頷き、SIG550を肩に抱え込むと薄く笑った。
「要塞が未完成でも、俺が要塞だ」
最初の敵は静かにドアを開けようとした。
――甘い。
ケンジはスイッチを押し、爆発的に照明を点灯。
敵が目を細めた瞬間、二発の銃声が轟いた。
一人はケンジが胸を撃ち抜き、もう一人はモニカの弾丸が頭蓋を砕いた。
三人目は咄嗟に物陰へ転がり、返す銃撃がケンジの足元を抉る。
だがケンジは動じず、数発を壁越しに撃ち込んだ。
乾いた呻きが聞こえ、壁の向こうに赤い飛沫が散る。
静寂が戻る。
モニカはゆっくり息を吐いて銃を置いた。
「……終わった?」
「まだ分からん。索敵する」
ケンジは慎重に部屋を進み、倒れた男たちの装備を確認した。
最新式の通信装置に、国家単位でしか供給されない特殊なナイフ。
その冷たさに、僅かに吐き気を覚える。
戻ってくると、ユウコは泣きじゃくりながらケンジに飛びついた。
「よかった……ほんとに……」
モニカも無言でケンジの背に額を押しつける。
「これが現実だ。要塞は必要だ。まだ……俺たちは狙われる」
「……うん、いいよ。ならもっと分厚い壁にして、もっと深い地下を作ろう」
ユウコは涙を拭いながら無理に笑った。
「映画館は絶対残してね」
「もちろんだ。次は防音室にしてやる」
ケンジは二人の肩を抱く。
胸の奥に再び刻み込む。
――要塞が必要な理由は、ここにいる二人の命のためだ。
例え血塗られた金で築くとしても、この場所だけは守り通す。
そしていつかまた、日本へ行く。
平和な桜の下で、三人で並んで笑う日を取り戻すために。
夜明け前。
冷たい空気が張り詰める中、要塞ハウスの地面は微かに振動していた。
――ゴォォォォォン。
地鳴りのようなその音は、確実にこちらへ近づいてくる。
まるで大地そのものが呻くように。
ケンジは地下監視室で息を殺し、赤外線カメラの映像を見つめていた。
「来たか……」
丘の向こう、暗い森の中にゆっくりと進む巨大な塊。
主砲がこちらに向けられる度、装甲が僅かに月光を弾いた。
その後方には、歩兵輸送車や小隊規模の歩兵部隊もいる。
まさに正規軍の一部隊だった。
(……数にしても装備にしても圧倒的だな)
それでもケンジの口元は微かに歪んだ。
「ようやく要塞の意味が試される」
地下パニックルーム。
分厚い鋼鉄の扉が閉じ、ユウコとモニカは震える体を寄せ合っていた。
目の前の小さなモニターには、監視カメラ越しの地上の様子が映し出されている。
「……ケンジ、どこにいるの……?」
ユウコが怯えた声で言う。
「外。地雷のトリガーを直接管理するって言ってた」
「外にいるの!? 戦車なのに……」
「大丈夫。あの人は……何度もこんな地獄を超えてきた」
モニカは自分に言い聞かせるように呟いたが、その手は強く震えていた。
モニターには、要塞前に身を潜めるケンジの小さな影が映っていた。
戦車が丘を越えて、ゆっくりと要塞ハウスに砲塔を向ける。
(もう少し……)
ケンジは地下シェルターの外壁脇に身を隠しながら、リモコンのトリガーを強く握った。
耳をつんざくような履帯の音と、甲高い金属の軋み。
照準が完全に要塞の中心を捉えた瞬間――
ケンジは迷わずスイッチを押した。
ドォォォォォン!!!
轟音と共に、丘の地面が盛り上がり、火柱が天へと突き抜けた。
埋設された高性能対戦車地雷が、一発で戦車の底部を貫き、車体を宙へ跳ね上げる。
装甲は一瞬空を飛び、次の瞬間には凄まじい重量で地面に叩きつけられた。
そこから赤い炎が一気に吹き上がり、弾薬が次々と誘爆する。
ケンジは飛んできた破片を間一髪で避けながら、銃を構え直した。
「――一台!」
残存の歩兵たちが混乱し、銃声と悲鳴が入り交じる。
彼らは後方に逃げる者と、パニックで周囲を撃ちまくる者とに分かれていた。
「……ケンジ! ケンジ……!」
ユウコは泣きながらモニターに手を伸ばした。
そこには土煙の中でSIGを撃ち込み、次々と敵兵を薙ぎ倒すケンジの姿。
「大丈夫、あいつなら大丈夫……!」
モニカは必死でユウコの肩を抱き、震えを抑えた。
モニター越しに見えるケンジの背中は、いつもよりずっと遠い。
それでも、そこにいるのは確かに二人のケンジだった。
「ケンジ……戻ってきて……早く、お願いだから……」
やがて銃声は遠ざかり、残骸と血の匂いが残っただけの荒野がモニターに映る。
モニカとユウコは固唾を呑んで見つめていた。
しばらくの沈黙の後――
画面の端にケンジがゆっくりと歩いてくる。
服は砂と血で汚れ、腕には小さな裂傷があった。
それでも彼は、静かにこちらへ歩み寄ってくる。
ユウコは思わずパニックルームのドアに駆け寄り、固い鋼鉄を必死で叩いた。
「ケンジ! ケンジ!!」
モニカも黙って目頭を押さえる。
やがてインターホン越しに低い声が響いた。
「――開けてくれ。終わった」
戦車が爆発し、歩兵が散り散りになったその直後。
ケンジは次の突入に備えて銃を整えていた。
だが、思わぬ声が無線に飛び込んできた。
「ケンジ! 私も外へ行く」
――モニカだった。
「何を言ってる、下がっていろ!」
「無理よ。もう……黙って待ってるだけなんてできない。あんたがどれだけ危険な場所にいるのか、ずっと見てたの」
カメラ越しに映るモニカの目は、見たことのない鋭い光を帯びていた。
「お願い……私は戦える。ここにいるより外で一緒に撃たせて」
ケンジは短く息を詰まらせた。
モニカはかつて狙撃兵兼突撃兵だった。
だが、この一年、銃はほとんど趣味の範囲にとどめ、彼女自身もなるべく血から遠ざかろうとしていた。
だが今――
「……来い。ただし俺の側を離れるな」
「分かってる」
外に出たモニカは、夜の冷気の中でわずかに震えた。
だがその手は確かにドラグノフを抱き、目は夜目に慣れると同時に鋭く狙撃手の視線に変わっていく。
(……この感覚、久しぶり)
目の前にいるケンジが静かに頷く。
「後退する奴らが集まってる。高台に陣を作るつもりだ。狙えるか?」
モニカはスコープを覗き込み、呼吸を整えた。
「任せて」
一発。
空気を裂く乾いた音がして、遥か向こうで敵の頭部が弾けた。
動揺した兵士が隠れようと身を翻したその瞬間、モニカの第二射が肩を砕く。
ケンジは微かに目を細め、口元に笑みを浮かべた。
「……やはり、お前は戦士だ」
「今はそうでもいい。……あんたと、ユウコを守るためなら」
モニカは再び引き金に指を掛けた。
冷気の中で、その横顔は獣のように研ぎ澄まされていた。
敵はついに森へと退却を始めた。
ケンジがライフルを構えて詰める間、モニカはわずかな動きも見逃さずに狙い撃った。
狙撃の一発一発が的確に急所を抉り、敵の隊列は秩序を完全に失った。
「やった……!」
「まだだ、奴らはまた来る。だが――」
モニカは息を弾ませ、興奮した瞳をケンジに向けた。
「次は絶対にもっと撃つ。あんたの隣で戦うって決めたんだから」
ケンジは少しだけ目を細め、彼女の肩を力強く掴んだ。
「頼もしい。……だが無理はするな。お前は俺の、大切な――」
モニカはその言葉を途中で止めるように、ケンジの口に指を置き、そしてにっと笑った。
「分かってる。だからこうして隣にいるんじゃない」
やがて戦場が静まると、二人は要塞の入り口で小さく息を吐いた。
そこへ駆け寄ったのはユウコだった。
泣き腫らした目で二人に飛びつく。
「もう……二人とも無茶しないでよ……!」
「悪い。けど、俺たちにとってはこれが普通だ」
「……うん。でも私だって守りたい。だから次は私も――」
「ダメだ」
ケンジは静かに言った。
「お前はここにいろ。俺とモニカで十分だ」
モニカはユウコをそっと抱き寄せた。
「そういうこと。私はあんたを守るのが役目だから。……ユウコ、私がここにいる理由はそれだけなんだから」
ユウコは堪え切れず涙をこぼし、二人の胸に顔を埋めた。
要塞の上空を見上げると、爆発の煙の向こうに月が滲んでいた。
ケンジは二人の肩を抱きながら、戦士の顔をしたモニカにだけ小さく囁く。
「……お前が隣にいてくれて助かった」
モニカは頬を少しだけ赤らめ、目を逸らした。
「今さら何よ……あんた、死なないでよね」
「分かってる」
月の光が三人を照らし、静かに夜は更けていった。
その胸に去来するのは安堵か、それともいつか終わる日常への恐怖か。
それでも――
この二人の笑顔を見るためなら、ケンジは何度でも立ち上がる。