⑪日本
誰も信用できず、腹を満たすことさえままならなかった少年は、ふとした縁でこの老人に拾われた。
村は戦火に怯えていた。
それでも棟梁は柱を立て、梁を渡し、屋根を葺いた。
少年兵のケンジにも釘を持たせ、板を押さえさせた。
「壁を厚くするのは贅沢じゃねぇんだ。
外で何があっても、この中だけは安全にする。そのためだ」
棟梁は鋸を置き、額の汗を拭いながら笑った。
ケンジはその笑顔が何よりも不思議で、暖かいものに見えた。
しかし、その村も結局、砲撃に呑まれた。
――次こそは、自分が作る。
誰にも壊されない、誰かを守れる家を。
年月は流れ、ケンジは日本にいた。
東京の郊外、古びた木造アパート。
畳の上にちゃぶ台を置き、戦場から共に逃れてきたモニカとユウコと三人で暮らしている。
モニカはロシア系の血を引いた白い肌の少女で、戦地では狙撃銃を手にしていた。
ユウコは華奢で幼さの残る顔立ち。爆薬の取り扱いを覚えてしまった16歳。
戦争を生き延びた彼女たちが、今はこたつに潜り込んでテレビを見て笑っている。
ケンジはそんな二人を見つめ、静かに胸の奥で安堵する。
「ケンジ、また家の絵描いてるの?」
モニカが首をかしげてのぞき込む。
「……ああ。設計課題だ」
そう言って見せたスケッチには、分厚い鉄筋コンクリートの外壁、地下の備蓄庫、複数の退避経路。
まるで軍事施設のような要塞のプランが並んでいた。
ユウコが少し怯えた顔をした。
「これ……すごく固そう。私たち、今の家みたいね?」
ケンジは彼女の頭を優しく撫でた。
「違う。戦うためじゃない。守るための家だ。
何があっても、お前たちを絶対に守る場所にする」
ユウコは小さく息をつき、頬を染めてケンジに寄り添った。
大学の製図室は、鉛筆の削れる音と蛍光灯の唸りだけが支配していた。
他の学生は大きな窓を持つ開放的な家、光の差し込むデッキ、リゾート風の浴室などを設計している。
ケンジだけが異質だった。
彼の図面は、窓は小さく厚いシャッター。
廊下は防火扉で分断され、地下には水タンクと食料備蓄庫。
それは明らかに戦場を生き抜いた者の家だった。
教授が近寄り、図面を覗き込み、少し眉を上げた。
「……まるで要塞だな。何をそんなに守りたいんだ?」
ケンジは一瞬、棟梁の顔を思い出す。
「……大切な人をです。家は、最後に人を守る場所ですから」
教授は目を細め、少しの沈黙の後に笑った。
「いいじゃないか。その考え、貫け。今の日本でこういう設計は珍しい。
君がなぜそう思うのか――そこにこそ、設計者の本質がある」
ケンジは小さく頭を下げ、再び鉛筆を走らせた。
大学の教授から呼び出され、一通の封筒を渡された。
「DNAの追加調査だ。お前が自分で依頼してただろう。……覚悟して読めよ」
ケンジは研究棟の隅で封を切り、薄い紙を震える手でめくった。
そこには彼のルーツが記されていた。
母は極東の日本人だった可能性が極めて高い。だが父は不明。出生地も不詳。
名前すら孤児院で便宜的に付けられた仮名――ケンジ。
ケンジはその場に膝をついた。
「……俺は、誰なんだ……」
手が震え、資料に涙が一粒落ちた。
夜、家に帰るとユウコが嬉しそうに小さな苺のパックを見せた。
「ケンジ、おかえり! 今日安売りだったんだよ!」
モニカも笑って手を振る。
ケンジは泣き顔を見せたくなくて、少し俯いた。
「……ありがとう。嬉しいよ」
食後、布団を三つ並べ、二人が眠る中、ケンジは泣き声を殺して嗚咽した。
するとユウコがそっと目を開け、ケンジの背に腕を回す。
「ケンジ、大丈夫……? 泣かないで……」
モニカも眠そうな目を擦りながら抱き寄せてくれた。
「誰の子でもいいよ。私たちはケンジがケンジだから、好きなの」
二人の体温がケンジの胸に沁みていった。
その夜、ケンジは夢を見た。
「ケンジ。家は要塞でいいんだ。
外の世界がどんなに狂っても、家だけは人間を守る。忘れるな」
ケンジは涙を浮かべ、夢の中で頭を下げた。
「……次は俺が作る。あなたが建てた家のようなものを。棟梁……」
春の風が桜を散らす午後。
ケンジはスケッチブックに描いた未来の家の図面を、モニカとユウコに見せた。
分厚い壁、地下の備蓄庫、非常口、太陽光と井戸水を備えた自給自足のシステム。
「これが……ケンジが作る家?」
ユウコが目を輝かせる。
「うん。家は要塞でいい。
絶対に壊れない場所を作る。そこに俺たち三人で住むんだ」
モニカは少し泣きそうな笑顔を浮かべてケンジにキスをした。
「……それが私たちの国だね。もうどこへ逃げなくてもいい国」
ケンジは二人を抱きしめた。
「そうだ。名前も国籍も関係ない。ここが俺たちの国だ」
夜、いつものように布団を並べて眠る。
ユウコはケンジの腕に顔を押し付け、モニカは背中から抱きついた。
「ねぇケンジ。いつかその家ができたら……犬を飼おうよ。絶対に賢くて、私たちを守ってくれる犬」
ユウコが甘えるように言う。
「そうだね。広い地下室にたくさん食料置いて……お前たちが死ぬまで困らない家にする」
モニカがくすっと笑った。
「死ぬまでって言わないでよ。ずっと一緒に生きるんだから」
ケンジは静かに笑い、二人の額に交互にキスを落とした。
外の世界がどう変わってもいい。
家は要塞でいい。
ここだけは――絶対に壊れない。
胸の奥でそう強く願いながら、ケンジは二人の体温を感じて目を閉じた。
東京で暮らし始めてもう半年が過ぎた。
古びた木造アパートは少しずつ慣れ親しんだ匂いがして、
どこに何を置けば誰が使いやすいのか、もう自然と決まっていた。
モニカは日本語の勉強に夢中だ。
自分のノートにカタカナや漢字を書き込んでは、嬉しそうにユウコに見せる。
「見てユウコ、『桜』って字、覚えたの。きれいでしょ?」
「ほんとだ! かわいいね。……でもさ、この字、木が三つあるのなんで?」
「えっと……それは……ケンジ、なんで?」
不意に振られてケンジは小さく笑った。
「『桜』は木へんに、音をあらわす『貝』や『女』の形が昔はついててな……。
春に咲いて、人を集める木だからかもしれないな。……適当だけど」
「ふーん、難しいね。日本語って」
モニカは不満げに唇を尖らせたが、すぐにまた笑顔になった。
週末には近所の商店街へ三人で出かける。
八百屋のおじさんが「お、今日は彼女さんと一緒かい」とからかってくると、
ユウコは顔を真っ赤にしてケンジの背中に隠れた。
モニカは逆に「ケンジは私のですから」と冗談を言ってみせ、周囲を笑わせる。
夜はその買い物で手に入れた野菜や肉を、三人で小さな台所に立って調理する。
モニカは包丁さばきが器用だ。
ユウコは味見が得意で、必ず何度もスプーンを口に入れては「まだ!」と言う。
「ケンジ、ちょっと醤油取って。あとで一緒に味見して」
「俺は調理助手か?」
「そうだよ。要塞の棟梁さんは、まず食料の確保からでしょ?」
「……まあ、否定はできん」
こたつで並んで食べるご飯の味は、どんな戦場の戦闘糧食よりもずっと優しかった。
そんなある日、ユウコがパンフレットを大事そうに持ってきた。
「ケンジ、見て! これ、箱根温泉。すごくきれいなんだって」
「温泉か……」
「ねぇねぇ行こうよ。旅行なんて生まれてから一度もしたことないんだよ?」
ユウコがモニカに同意を求めると、モニカも笑顔で頷いた。
「いいじゃない、私も行きたい。ケンジ、ダメ?」
「……ダメなわけない。行こう」
二人は歓声を上げて抱きついてきた。
ケンジは少し戸惑いながらも、その頭を優しく撫でた。
桜がまだ残る四月のある週末、三人は電車に揺られて箱根へ向かった。
最初は観光客の多さにモニカもユウコも少し緊張していたが、
徐々に周囲の楽しげな雰囲気に押されて表情が緩んでいった。
「ねぇ見てあれ、ロープウェイだって!」
ユウコが指差す先には空中を渡る大きなゴンドラ。
高所恐怖症のモニカは一歩下がり、ケンジの袖を掴む。
「ちょっと……落ちないんでしょうね?」
「落ちるわけないだろ」
そう言ってモニカの肩を軽く抱くと、彼女は赤くなって視線をそらした。
芦ノ湖を船で渡り、湯本の商店で饅頭を頬張る。
ユウコは目を輝かせ、モニカは浴衣姿で少し照れていた。
夜は宿の小さな露天風呂に三人で入った。
「星が……きれいだね……」
湯気の中でユウコがうっとりと空を見上げる。
モニカもそっとケンジの手を握った。
「ねぇ、こういうのがずっと続くといいのにね」
「……ああ。続けるさ。俺が守る」
ケンジは小さく呟いた。
部屋に戻ると、モニカが小さなテーブルに腰かけて浴衣の袖を直していた。
「ケンジ、今日は楽しかった?」
「ああ……お前たちが楽しそうで良かった」
ユウコは布団に寝転びながら、浴衣の裾をバタバタさせて笑った。
「日本っていいね! ケンジの生まれた国かもしれないんでしょ?」
「……ああ。DNA調査ではそう言ってたな。だけど、まだ俺には実感がない」
モニカがそっとケンジの背に寄りかかる。
「でも、こうやって私たちが日本にいて、ケンジと一緒に温泉来てるのって……ちょっと不思議」
ケンジは静かに笑った。
「そうだな。戦争ばっかりだった頃には考えられなかった」
ユウコは布団から顔を出して言った。
「考えられなかったけど、今はこうしてる。だから……これからも、こういう楽しいことたくさんしようね」
「……ああ、約束だ」
夜更け、ユウコとモニカが寝息を立てたあとも、ケンジは一人で窓の外を見ていた。
黒い森の向こうに、月が静かに浮かんでいる。
いつでも戦いに戻れるように。
だから家は要塞でいい。
絶対に壊れない場所を作る。
……けれど。
今夜だけは――その要塞は要らない。
こんなふうにただ穏やかに、月の光を浴びて眠れるなら、それだけでいい。
そっと二人の間に戻り、髪を撫でる。
「……おやすみ」
モニカが寝ぼけてケンジの腕を抱き、ユウコがその上から覆いかぶさった。
ケンジは目を閉じた。
今は何も考えない。
この時間をただ大切に刻む。
東京へ戻る帰りの電車で、ユウコはぐっすり眠ってケンジの肩に頭を預けていた。
モニカはぼんやり窓の外を見て、急に小さく笑った。
「ねぇケンジ。あの要塞の家の図面さ……」
「うん?」
「温泉つけようよ。そしたら私、ずっと入り浸ってるから」
ケンジは思わず吹き出した。
「温泉付きの要塞か……面白いな。それもいいかもしれない」
「ほんと? やった」
モニカは楽しそうに笑った。
東京に戻ると、またいつもの狭いアパート。
でも玄関を開けた瞬間、どこか懐かしくホッとする。
ユウコは荷物を置くとすぐこたつに潜り込み、「やっぱりここが一番だね!」と顔を出した。
モニカも「私もそう思う」と笑いながら、ケンジの袖を引いた。
家は要塞でいい。
だけど――笑って暮らせる日が、少しでも長く続けばそれでいい。
ケンジは二人の髪にそっとキスをした。
「ただいま。……帰ってきたな」
ユウコもモニカも、嬉しそうに「おかえり!」と声を揃えた。
外の世界がどう変わろうと、この家だけは守る。
いつか要塞を建てるその日まで、この小さな部屋が俺たちの城だ。
ケンジは心の奥で、そっとそう誓った。