おやつどき
朝っぱらからじっくりと日に焼かれて、ムクムクと湯気こそ立たないものの、休みなしに夥しく熱を放つ、もとの鉛色をすてた灰色に埃っぽいアスファルトと、快晴とも日本晴れとも言えない程には雲が薄く棚引き、あるいはフワフワと煙っているその間にでんと敵なしに構えて赤々と丸々に、燦然と橙に、我が代わりなき権勢を厳然とあるいは傲然と振るいながら、誰しも手の届かない遥かな天空から酷暑の炎熱を地へと降り注ぎみなぎらせているのは誰あろう真夏の太陽である。
そんな炎暑凄まじき大地を極めて足取り軽く、すっすっと飛ぶように涼しげに、手には昨日のうちにたまたま心づいて帰り道に寄った駅ビルで仕入れた菓子を携え、胸にしっとり広がる恋情をおさえきれぬほど恋しくてやまない恋人を想ってすこぶる浮き立ちながら、しかし一歩一歩確実に堂々と迷いなく突き進むのは恭輔である。
恭輔は暖簾のでた拉麺屋の店内をちらと横目にのぞくと、さっぱりとした髪のおでこはぴんと張って一本の皺も走っていない自分と同年位らしい、日に焼けたばかりか食事に火照ったばかりかほの赤い顔と見る間に、青年は舌で食べ残しを掃除するらしき所作をみせたかと思うと、爪楊枝をとって黄色い歯に差し込み片手に口元をおおった姿に、恭輔はぷいと顔をそむけた。
次の信号をわたって横道に入りさらに右へ折れた先の二階の奥から二番目だと思うと、一層胸がはずんでたちまち空想に花を咲かせる。
部屋へついて呼び鈴をおすと、きっと白くて丸い机に寄ってすわっていた円香はびくりとして、音のした方へ小顔をむけたはずみに、華奢な卵型の輪郭をすっぽり覆う、肩へわずかにかかるつややかな黒髪がはらりとゆれる。
あるいは三時には行くといったけれど、約束の時間は少しばかり過ぎているので、待ちかねた円香は怠惰にも掛け布団を敷いたままのベッドへしなだれかかり、そろそろ着く頃だろうかと浮き浮きしつつぐっと起き上がると共に力が抜けて、仰向けにたおれるままに枕へ頬を押しつけたまま、パタパタと短パンから伸びるなめらかな脚をばたつかせていた折から、待ちわびた呼び鈴が静謐な小さな部屋にけたたましく響く。
すると円香はぴたりとバタ足をやめるなり両足をたおして、ほんの束の間布団のやわらかさを味わうかと思うと、ゆっくりと身を表にして片足を天井へのばして勢いをつけ、両手を支えにすっくと立ち上がり歩き出すや否や、ふいと床にみつけた小さな鏡を拾うため片足を重心に片足をすっと後ろへあげてバランスを取りながら、目一杯手をのばして指先にそれを拾うと、枕に突っ伏したせいでちょっとあばれた前髪を手早くなおしながらも、どうにも気に入らず踏ん切りがつかぬうち、呼び鈴がもう一度、今度は優しくしめやかに鳴る。
ふっと空想から我に返るとちょうど信号が青に変わったところで、恭輔はくっきりとしてまだ色褪せない白と灰のコントラストの横断歩道の縞模様を見るともなく見つめるうち、あざやかな黄色い靴に白靴下の足元がぱあっと目に映じたかと思うと、今度は薄汚れた白に黒がいくつも点じられているような丸々としたものがふわふわ舞ったり回ったり落ちたりするので、何かと思うより先にピタリと答えを導きだしながら念のため答え合わせに視線を上げると、予想どおり小学生らしき黒々と日に焼けた男児が手にした紐の先の網にはいったサッカーボールを両足の甲で軽く蹴り上げながらこちらへ横断してくるところであった。
そのまますれ違って信号をわたると共にふと不安になり見返ると、男児は無事何事もなく信号を渡り切ったところで、恭輔はほっと安堵の胸をなでおろすや否や、たちまちこれまで不思議と避けえた炎天の猛威を覚えて、ふらふらと陰をもとめた矢先、ゆらゆらと揺らめく涼しき樹影に引き寄せられるままに、その憩いへと足を早めた。
壁へ寄ってぼんやり涼を取りながら、ふいと横をむくと真っすぐにつづく道の先にぼうっと陽炎がたゆたって、波間がきらきらゆれると見る間に、自動車が一台、天然の絵画をさえぎるように鼻先を突きだし横切るや否や、それに急かされたかのごとく恭輔は片足で壁を押して歩みだすと今度は勇を鼓してとまることなく恋人の部屋へむかった。
横道へ折れると一気に陰になり、すうっと涼気が身に染みるかと思いのほか、きつい湿気は相も変わらず蒸し蒸しと侘しげなこの界隈にも公平無私にゆきわたっているとみえて、直射のないぶんかえってしっとりじわじわ汗ばむのを覚えながら右へ折れて、間もなく円香のアパートに着き、そのまま入口へ曲がろうとした折から、ハッと人の気配がして思わずのけぞった恭輔の肩へ、「すみません」とつぶやきながら少し年上らしいが未だ十分若い爽やかな男がそっと手を置きながら謝ったのに、こちらは「いえ」と返答したまま、ぴったり目が合ったと思うと、すっと二人の視線はずれて、一人は外へ、一人は中へと歩を進めた。
静かに階段を上がりながら耳をすますと、鳥の声こそ高くけたたましいものの足音はきこえず、二階へ立ってそのまま奥から二番目の部屋へ行き、此度は空想をもてあそぶこともなしに呼び鈴をおすと、間髪を入れず一歩下がってこちらへ開くはずのドアを見守るうち、生成色のドアが恭輔の脳裏でふっと透きとおって、すっと一直線に部屋へとつづく奥行きが見通され、カーペットへほっそりした手がのびたかと思うと小さな糸くずを拾って指でまるめながら円香は立ち上がり、そのまま冷房のきいた床をぺたぺたこちらへ歩みしなに屑籠にすてて、玄関の前で立ち止まり白い腕をのばして鍵をあけ、そっとドアノブをまわす。
それと期待したものの一向に音沙汰はなく、今一度呼び鈴をおしてもしんとしているので、恭輔は仕方なく財布から合鍵を取りだして静かに鍵をあけ、そっと中にはいると後ろ手にドアを閉じ、スニーカーをぬいで真っすぐ部屋へむかった。
打ち開いたカーテンから明かりがやわらかに入り込むなか、円香はベッドに仰向けになったままかすかに寝息を立てているかと思うと、ふいに恭輔の方へ寝返りをうちながら両膝を折りまげ、下になった方の手を内へまげて手のひらを軽く握りしめながら頬杖をつくようなかたちになった。
恭輔は物音を立てないよう菓子とクロスボディバッグをそっと床に置き、カーペットを秘めやかに歩んで壁へ背をもたせると、今更ながら寒いほど涼しく、にわかに汗がひいてゆくのを覚えて、ズボンのポケットへ手をつっこみながら軸足に重心をうつして円香を見守るうち、体をちぢこめたのは冷えて鳥肌が立ったのでもあろうかと心づいて、そのまま近づいて枕元へ座ると、そっと腕へふれて顔をみつめた。
しばらくしてぼんやり瞼がひらいたかと思うと、眼球が細かくゆれ動き、恭輔はその瞳に小さく映る自分の姿をのぞき込む間もなく、円香はすっくと頭を起こして、「あれ」と言いざま両手を支えにがばと起き直り、「今来たの?」とすでに状況を理解したものらしくしめやかに尋ねながら、しかしまだ寝足りないとみえて今度はその上に寝ていた掛け布団をかぶると首元までひきあげた。
「ねむたい」つぶやきながらもぱっちりと恭輔をみつめる。
「いいよ、寝てても。適当に何かしとく。あ、そうだ」
「ん」
「ベランダの花に水あげた?」
「えっと、今日はまだかな」
「じゃあ俺があげとくね」
「ありがとう」
ぽっと微笑んで素直に目をつむった円香を愛らしく思いながら、如雨露をとりに恭輔は枕元を立とうとしたところで、いきなり手をひかれ、そちらを見つめると、
「でももう起きる」といいながら円香がすっと両腕をのばすのに、恭輔はふっとほほえみながら半ば体をしずめて、やさしく抱き起こした。
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