奇跡の艦隊
架空戦記戦記創作大会2023夏参加作品です。よろしくお願いいたします。
「敵機来襲!」
「対空戦闘!」
赤道に近い厳しい太陽の光が差すソロモン海。その海上を驀進する艦隊上空に、多数の機影が来襲する。
その接近を事前に電探で探知した各艦では、主砲である12,7cm連装高角砲や高角機銃である25mm三連装機銃に、次々と仰角が掛けられて行く。
艦隊にはブインから飛んできた零戦も護衛に付いているが、数は敵の方が多い。程なくして零戦を突破した敵機が突っ込んでくる。
「撃ち方はじめ!」
護衛の駆逐艦は各3門、そして輸送艦自身も各2門の高角砲を発砲する。
10隻の輸送艦と8隻の駆逐艦、合計すると44門の12,7cm高角砲による射撃である。もちろん、高角砲であるから発射速度も各砲10秒に1発程度の間隔で撃ちあげる。
その結果、空中には高角砲弾の炸裂による黒い花が次々と咲き誇る。
その断片に捉えられ不運な敵機がポツポツと墜落する。また墜落する程ではなくとも、損傷して爆弾を投棄して離脱する敵機もあった。
その高角砲の弾幕を抜けると、次には25mm機銃が浴びせられる。有効射程、威力、発射速度とも不十分と評されることもある銃だが、それでも三連装や連装、単装が入り乱れて100挺以上の一斉射撃となれば、それなりに脅威となる。
さらに数機が、撃墜破された。その度に艦艇上では歓声が挙がるが、全てを撃墜するのは不可能であった。
終に弾幕を突破した敵機が投弾した。
「面舵一杯!」
狙われた駆逐艦や輸送艦が、次々と転舵する。
海上に数本の水柱が立ったが、幸いなことに直撃弾はなかったようだ。
「撃ち方やめ!」
「全艦に信号。陣形を回復し、原針路に復帰せよ!」
「駆逐艦「蝦夷松」より信号。至近弾により、速力低下。航行に支障なきものの、続航は不可能とのことです」
どうやら至近弾で損傷した1隻が、付いてこられなくなったらしい。
「「蝦夷松」に信号。艦の保全に努めつつ、ブインに帰投せよ!」
「は!」
船団指揮官の命令が飛び、損傷した「松」型駆逐艦の「蝦夷松」が離脱に入る。
「あれが特型だったら、航行不能の自沈処分やむなしだったかもしれん。雑木林様々だな」
指揮官の言葉に、傍らの艦長も答える。
「全くです。水雷戦隊の連中は、いまだに我々のことをバカにしていますが、戦船と言う意味では、特型よりこっちの方が遥かに上等ですよ」
その艦長の自信の裏には、ガ島を巡る戦いで未だに「松」型に沈没艦が出てないという事実がある。これまでに重大な損傷艦こそ出たが、沈没艦はないのだ。
対して特型や甲型と言った在来の駆逐艦は、既に数隻が沈没しており、その中には沈没に繋がる損傷で無いにもかかわらず、機関部に致命的な打撃を受けたゆえに自沈に追い込まれたものや、或いは対空火器が貧弱なために、わずか数機の敵機の空襲で沈没した艦もある。
それを考えれば、この「松」型は主砲を含む強力な対空火器や機関のシフト配置などのおかげで、現代の戦争に向いた艦と言えた。
しかも、その艦を圧倒的な国力差を持つ米国をはじめとする連合国との戦争に、緒戦から投入できたことも、僥倖であった。
開戦以来、その活躍は枚挙に暇がない。もちろん、その活躍とは華々しく新聞やニュース映画の画面を飾る類のものではないが、この戦争における貢献という意味では間違いない。
「まさに、天佑神助!この天からの授かりものを得た以上、我々はこの戦いにもきっと勝つ!」
指揮官は、今次逆上陸作戦の成功を確信していた。
それが起きたのは、昭和16年6月のことであった。その日早朝、突如として海軍の各鎮守府や飛行場、通信基地や砲台など、とにかく民間人がその存在を知っているありとあらゆる海軍の施設に電話や、或いは直接の通報と言う形で問い合わせが殺到した。
その問い合わせ内容は様々であったが、要約すると全て同じであった。「見たことのない艦(船)が停泊しているが、海軍さんのものか?」というものであった。
最初は何かの見間違いではと考えられたが、同じような通報が日本中、鎮守府に近い瀬戸内海や五島列島周辺でも相次いだため、海軍は直ちに調査のために人を派遣した。
そして、派遣された将兵が見たのは、通報どおりに係留された見たこともない駆逐艦や、海防艦に潜水艦、さらには艦種不明艦と商船であった。
しかも、それは1カ所に留まらず、日本全国各地で発見され、最終的に全て合わせると500隻もの大集団となった。
その内訳は1200トン級の駆逐艦(艦内に残されていた書類から後に「松」型と呼称)に800トン級の海防艦(同「鵜来」型)、1000トン級の2タイプの輸送艦(同一等・二等輸送艦)に「呂35」型相当の中型潜水艦(後に「呂35」型の連番を付与)、そして8000トン級の中型高速貨物船であった。
もちろん、これらの艦船が建造された記録はどこの海軍工廠にも造船所にもなく、文字通り忽然と出現したのであった。
ただし、艦内の各種表示や説明図などは日本語で表記されており、また搭載されている武装や各種装備も現用の日本のものとほぼ一緒であった。
さて、持ち主不明のこれらの艦船であったが、放置するわけにもいかず、とりあえず海軍は鎮守府に近い位置のものから、曳船を使って曳航し、早速調査に入った。
その調査の結果は、驚くべきものであった。回収された艦はいずれも造船所を出たばかりのようにピカピカで、しかも燃料や弾薬も満載(ちなみに貨物船は船内にアルミのインゴットや鋼材、砂糖や米を満載)状態であり、乗員さえ手配できればすぐにでも出動可能な状態にあった。
しかもそれだけでなく、艦内には各艦の取り扱いに関する説明書に加えて、同型艦を今後建造するのに必要な設計図一式も揃っており、さらに帝国海軍では開発途上の電探や、最新式のソナーまで装備されていた。
とは言え、これらの艦船の調査の結果を知った海軍内の評価は二つに分かれた。というより、肯定的評価よりも否定的評価をする者の方が多かった。
「こんな特型の半分しかないような駆逐艦なんかじゃ、戦えないよ。名前も植物て、植物図鑑かよ」
「輸送艦や海防艦を100隻ずつて言っても、こんなもん帝国海軍にはいらないて。神様もくれるなら戦艦や空母を10隻ずつくれればいいのにさ」
「潜水艦も小さい呂号ばっか。やっぱ伊号だよ、伊号」
と、こんな感じであった。
一方肯定的評価を下した者の評価は。
「確かにこの「松」型単艦で見れば特型には及ばんが、100隻あるということは実質的に特型が50隻あるに等しい。しかも、こいつには実用的な電探が搭載されているし、機関も被弾に強いシフト配置だ。おまけに設計図とおりなら、起工から竣工まで1年もあればできるぞ」
「これ(輸送艦や海防艦)があれば、老朽化した哨戒艇や二等駆逐艦を退役させられるぞ」
「呂号は伊号ほどの攻撃力はないが、今後想定されている通商破壊にはもってこいだ」
もっとも、こうした評価云々を抜きにしても、米国との関係が日増しに悪化し、いつ米国やその同盟国である各国(つまりは連合国)と開戦するかしないかの情勢である。その中で、新造艦船500隻を遊ばせておく余裕など、大日本帝国にはない。
まず100隻の商船は、陸軍と海軍がそれぞれ直接の籍に編入した6隻を除く94隻が、それらと同クラスの商船を運用中の商船会社に分配された。
もちろん、これらを手にした商船会社関係者が泣いて喜んだのは言うまでもない。彼らが手に入れたのは、いずれもこれまでの最高水準の商船と言える「畿内丸」や「長良丸」などと同等の高性能優秀商船であったのだから。
例え数隻であっても、石炭炊きで船体・設備が老朽化している旧型船を取り替える意義は大きい。そもそも、日中戦争後船舶不足に悩み、資材不足で新造船建造にも影響が出ていた時期に、これだけ贅沢な新造船を大量入手できたのだから。
続いて100隻あまりの「松」型駆逐艦に関しては、旧式化している二等駆逐艦から乗員を回す形で、まず6隻が帝国海軍に編入されて運用を開始し、さらに残る艦も乗員の手配が完了次第、順繰りに帝国海軍での運用を開始することとなった。
2タイプ(一等輸送艦と二等輸送艦)存在する輸送艦については、一等輸送艦は全て海軍編入となったが、揚陸艦タイプの二等輸送艦6隻が陸軍に譲渡され、さらに陸軍は艦内に残されていた設計図を基に、陸軍独自で建造中の輸送艦であるSS艇の後継として建造を開始した。
陸軍としては、主力戦車のチハ車を搭載可能で、海岸に直接のし上げられ、しかも量産性の高い二等輸送艦は、魅力的な存在であったのだ。
続いて呂号潜水艦も、老朽化が進んでいたL型の代替として、急速整備が進められた。乗員の手配が付いた艦から順次海軍に編入し、運用が開始された。
こうした動きの中で、唯一海防艦の戦力化だけが、あまり進まなかった。というのも、海軍としてこの手の艦の活用方法が、決まらなかったからだ。
後の視点から見れば、この海防艦は船団護衛に有用な艦であった。しかしながら、艦が発見された時点ではまだ対米開戦(厳密には対連合国開戦)が決定的な状況ではなく、海軍自身が航路防衛に積極的ではないから、この用途に充当する発想が浮かばない。
かといって同程度の掃海艦や駆潜艇、敷設艇などを今すぐ代替する切迫性もなく、加えて戦力化に関しては「松」型駆逐艦や輸送艦の方が、旧式艦の代替艦として求められたゆえに、限られた工廠のリソース配分の上で優先されたという諸事情もあった。
ところが、10月になって対米開戦が現実味を帯び始めると、占領下南方占領地帯と日本を結ぶ航路の防衛が課題となってくる。
戦前の日本が想定していた防衛するべき航路は、せいぜい台湾やトラックなどの南洋諸島程度までと想定されていた。しかし、対米開戦をした場合、そんな想定が生ぬるい蘭印やニューギニア近くまでの航路を守る必要が見込まれた。
ここでようやく、帝国海軍は100隻の海防艦の存在意義に気づいた。この延伸するであろう航路を守るために必要なのだと。
なので慌てて稼働のための準備に入るが、対米戦直前のこの時期に急に人を手配しようにも、出来るはずもなかった。そのため、一部の艦から25mm機銃を取り外して、それを特設艦船や駆逐艦に転用するような始末であった。
こうしたドタバタした状況下で1941年12月8日の対米開戦(対連合国開戦)の日を迎えた。
戦いはまず英領のマレー半島への上陸から始まったが、ここで早速活躍したのが「松」型駆逐艦と輸送艦、そして商船会社に配分後、そのまま陸海軍に徴庸されていた商船であった。
これらは敵前上陸や、上陸後の兵站戦の確保、そしてその護衛に大活躍した。特に「松」型駆逐艦は主砲が高角砲で機銃搭載数も多く、1隻存在するだけでその他の護衛艦や輸送船搭載の対空火器を合わせた対空砲火を空に向けられた。
また同じく自衛火力に優れた輸送艦も、敵の攻撃を跳ねのけながらの強襲上陸に活躍した。
この結果、損傷艦船こそ出たが、マレー半島上陸作戦では艦船の損失無しという、史上例を見ない快挙を成し遂げた。
また旧型艦を代替した呂号潜水艦は、早速太平洋での哨戒や攻撃任務に投入され、このうちウェーク島沖合を哨戒中の「呂203」潜水艦が、開戦前に同島への航空機輸送中の空母「エンタープライズ」を発見し、その位置情報を通報、ハワイより帰投中の南雲機動部隊が同艦を撃沈するのに一役買っていた。
そして南方資源地帯制圧が終了し、日本本土への資源還送が始めると、100隻の輸送船と輸送艦の存在が活き始める。何せ開戦時日本が所有していた商船の15%近い数の優秀商船と、多数の高速輸送艦が突如として増えたのだから。
これら輸送船や輸送艦を守る護衛艦に関しても、海防艦の稼動数を増やすべく、海軍は急いだ。
昭和17年2月には護衛専門部署として海上護衛総司令部が設立され、乗員の養成も急がれた。輸送艦と合わせて、その乗員として予備役復帰者や海軍予備員、さらには徴兵者が促成訓練を受けた。
このため開戦時にはわずか2隻しか実戦投入可能な艦がなかった海防艦は6月には12隻、8月には24隻、10月には48隻と急ピッチで増えて行った。
昭和17年4月18日米空母「ホーネット」から発艦したB25爆撃機が日本本土を奇襲、この際に横須賀に飛来した機に対して、出港間際の海防艦2隻が対空戦闘を行い、これを撃墜したのが来襲機唯一の撃墜戦果となった。
これに刺激されて行われた6月のミッドウェー海戦において、帝国海軍は南雲機動部隊の4隻の空母を全て喪うも、潜水艦によるものも含めて米側の空母も3隻全てを撃沈し、実質的に痛み分けとなった。
一方そうしている間にも、日本が開戦前に手にした艦船群は、せっせとその任に就いていた。特に「松」型駆逐艦は開戦後跳梁を始めていた米潜水艦が出現する航路帯での哨戒や船団護衛任務で活躍し「大洋丸」や「ぶらじる丸」といった大型商船への米潜水艦接近を阻止している。
また開戦と同時に、新規に「松」型駆逐艦と海防艦、輸送艦の建造も開始されている。いずれも艦内に設計図が残されていたため、昭和17年中に1番艦が竣工するという、これまでの日本ではあり得ないスピードでの完成、実戦配備となった。
ただし、そもそもがそれぞれ100隻ずつが棚から牡丹餅的に手に入っているので、当初の建造計画は戦没艦の補充程度の数であった。
しかし、ミッドウェー海戦時点で既に日本が手を広げた戦線と、それを支える補給路は膨大なものとなっており、また米軍の反攻に備える意味からも1942年4月には、輸送艦と「松」型駆逐艦の建造数が大幅に増やされている。
ミッドウェーで空母4隻を喪ったとは言え、ここまでの戦没空母数は軽空母を除けば、日本が4隻の米側が5隻であり、まだ互角と言えた。
後に歴史家から戦争の趨勢を決定するとされた戦い、すなわちソロモン戦役が始まったのは1942年9月7日のことであった。
ミッドウェー海戦後、主力空母を喪った日本海軍は機動部隊による積極的な攻勢は当面不可能となった。
そのため、ソロモン諸島に飛行場を設置しての布哇~豪州間輸送路の遮断、すなわち米豪遮断作戦に重点を置いた。
このソロモン諸島の飛行場設置に関して、帝国海軍は戦略拠点となっているラバウルから、適地となる島々に順々に飛行場を設置していく策を取った。
帝国海軍がこの堅実な戦術を採用した理由としては、間もなく実戦配備予定の二号零戦や99式艦上爆撃機、97式艦上攻撃機の航続力が短く、陸上からの運用をする上で、拠点のラバウルからその航続力に応じた進出可能範囲に基地を推進させるようにしたため。
そして開戦前に手に入れた輸送艦によって、設営部隊が送り込み易くなっていたことも大きかった。
帝国海軍はラバウルからショートランド、ブイン、コロンバンガラと言った具合にソロモンの島々に飛行場を次々に建設した。
もちろん、連合国側もこれに手を拱いているわけではなかった。ポート・モレスビーやエスピリット・サントを拠点とした航空戦力や水雷戦隊、潜水艦戦隊による妨害を行いつつ、日本側への反攻の機会を伺っていた。
大西洋から新たに「ワスプ」「レンジャー」を回航し、さらに本来は船団護衛が主任務の護衛空母までを動員して航空戦力を確保したところで、日本海軍が飛行場建設中のガダルカナル島へと襲い掛かった。
この時、ガダルカナルのルンガ泊地には揚陸を終えて、ラバウルに戻ろうとしている輸送艦隊がいた。
この艦隊は特型駆逐艦2隻と一等ならびに二等輸送艦各2隻ずつの小規模なものであり、空襲とその後来襲した米豪連合艦隊との戦闘で、辛うじて離脱に成功した1等輸送艦1隻を除いて全滅してしまった。しかし、全滅するまでに関係各所へ打電した通報から、日本側は米軍が大規模な上陸部隊を引き連れていることを認識することができた。
ただちに、まずラバウルに展開する第8艦隊と、ブインに展開する陸上航空隊が反撃に出た。
これら部隊の働きにより、上陸した海兵隊を運んできた輸送船団と護衛艦隊を撃破することができた。しかし上陸した米海兵隊により、建設中の飛行場は陥落してしまった。
そのため、軍令部は連合艦隊をはじめとする各部隊に、ガダルカナル周辺に展開する米機動部隊の殲滅、ならびに陸軍より提供された1個旅団、ならびに海軍特別陸戦隊(1個大隊)による逆上陸作戦による奪還を命じた。
これに対して連合艦隊は、ミッドウェー海戦後に再編した大小7隻の空母からなる機動部隊を派遣するとともに、輸送艦ならびに「松」型護衛駆逐艦からなる強行輸送艦隊による橋頭堡確保の作戦を発動した。
機動部隊がその航空戦力で敵機動部隊ならびに、ガダルカナル周辺の敵艦隊を撃破し、制海権を確保したところで輸送艦隊が突入し、橋頭堡を構築。続いて、高速輸送船団により陸軍部隊を投入するというものであった。
これに伴い、ラバウルには10隻の輸送艦と8隻の「松」型が集結した、輸送艦隊を組んでガダルカナルへと急行した。
この日本の動きに対して、連合軍側はなけなしの空母機動艦隊に加えて、占領下ガダルカナル島の飛行場に航空戦力を送り込んだ。
ガダルカナルの米軍は輸送船団を撃破されたために物資が不足していたが、それでも飛行場の復旧を優先し、制空権確保を優先した。制空権を確保することで、ガダルカナルへの輸送路の安全も確保しようという魂胆であった。
しかし、これに対して日本海軍は呂号潜水艦を中心とした潜水艦部隊による輸送路への攻撃を展開して、3割の物資を海没せしめ、そうして時間を稼いだ後はガダルカナル周辺に巡洋艦部隊を派遣して海上補給路を締め上げた。
対する米軍は四発重爆撃機までもを空輸任務に投入し、ガダルカナルに燃料、弾薬、食料、医薬品を送り込み、対抗した。
ここに、ガダルカナルの戦いは日本軍側が橋頭堡を確保し補給線を確立するか、それとも米軍側がガダルカナルの飛行場を維持することでガダルカナルの占領を恒久化するかの戦いとなった。
日米機動部隊同士の戦いは、その序盤戦と言えるもので日本側が「龍驤」を喪失したのに対して、米軍側は「ワスプ」「レンジャー」と護衛空母2隻を喪い空母全滅となった。
これに対して日本側は無傷で稼働航空機を有する「瑞鶴」「隼鷹」を残して、ラバウル・ブインの基地航空隊と合わせてガダルカナルへの空襲を行う。
そうすると、今度は米軍側が後方のエスピリット・サント経由で航空機や補給物資を空輸し、航空戦力と基地機能を維持するというチキンレースとなった。
結果から言えば、最終的に競り勝ったのは日本側であった。米軍側はガダルカナルの飛行場を必死に維持して空襲を仕掛けたが、連日の空襲に対処しつつ空輸のみでの補給はやはり限界があった。
日本側は揚陸作業中に駆逐艦2隻と輸送艦3隻を喪ったが、陸戦隊と物資の揚陸には成功し、橋頭堡を築くことに成功したのである。
これに対してガダルカナルの海兵隊は、物資の不足から積極的な攻勢に出られなかった。
戦艦3隻を投じて行われた制海権奪取の作戦も、逆に日本側が「大和」以下の戦艦部隊を動員したことで、投入した戦艦と巡洋艦が全滅するという憂き目に遭った。
こうして橋頭堡と制海権を確保したことで、ガダルカナルに展開する海兵隊と航空隊は空輸以外の補給を断たれ、日本軍の反撃どころか維持すら覚束ない状況となった。
そのため、やむなく米国はガダルカナルの放棄を決定した。これは実質的な敗北であるが、この時点で米国はその強大な国力で来年には倍の戦力で侵攻可能な見込みがあり、加えて2カ月間の戦闘で日本側にも相当な打撃を与えたという情報もあった。
航空機と駆逐艦や旧式駆逐艦改装の輸送艦が総動員され、ガダルカナルに展開する米軍が撤退を完了したのは11月10日のことであった。
そして日本側が大規模な輸送船団で追加戦力を投じて飛行場を占領し、奪還の完了を宣言したのはその2日後であった。
この輸送船団の中核を担っていたのは、開戦直前に日本が手にしたあの優秀貨物船群であり、そして護衛艦のほとんどは「松」型であった。その中には橋頭堡を築いた時の第一次輸送艦隊に参加した古強者もいた。
その艦長はプカプカとタバコの煙をくねらせながら、輸送船から大発経由でガダルカナル島に物資を揚陸する光景を見ていた。
「思えば、遠くにまで来たもんだ」
「ええ、それもこの艦でここまで来ることになろうとは・・・」
傍らにやって来た先任士官が答える。
「逆だ先任。この艦だから・・・いや、この艦があったからこそ、今こうしてガダルカナルに来れたんだ。開戦前にこいつや輸送艦を手に入れてなかったら、帝国海軍はミッドウェーで終わっていたかもしれん」
「確かにそうかもしれませんね」
対空・対潜に比重を置いた小型駆逐艦に、強行輸送可能な輸送艦、そして通商破壊に最適な中型潜水艦。開戦前に突如として手に入ったこれら戦力が無ければ、ガダルカナル奪還は覚束なかったであろうし、帝国海軍がミッドウェー以降に攻勢を取るのは不可能であっただろう。
加えて、彼らは知らなかったが同時に手に入った100隻の中型貨物船の存在と、それによる南方資源地帯からの資源還送の順調な推移は、戦時下日本の経済を下支えし、戦争遂行に大いに貢献していた。
海軍もその恩恵に預かっており、おかげで「大和」型3番艦「信濃」の建造や4番艦の空母「大鶴」への改装、戦艦「扶桑」「山城」の空母化改装、そして「島風」型や「秋月」型駆逐艦の建造が進捗している。
もちろん「松」型や輸送艦もだ。こちらは艦内に残されていた設計図や技術指導書によって建造が促進されており、今年度中にも最初の艦が竣工する予定になっていた。
「だが今回の戦いで、帝国海軍も大分消耗した。もうこれからは、積極的な攻勢は無理だろうな。そうなると、如何に占領地を確保し続けるかだ・・・当分俺たちは忙しいぞ」
「それがお国のためになるなら、精一杯勤め上げるまでです」
「そういうことだ」
艦長は小さく笑うと、たばこを海へと捨てた。
ガダルカナルの戦いにおいて、連合軍の反攻を挫いた日本軍であったが、それも一時のことに過ぎない。巨人米国はその国力をフルに活用し、壊滅した太平洋艦隊を短期間で再建し、倍増させて襲い掛かって来るだろう。
それに対して日本は、これまでに手に入れた占領地を如何に保持し、帝国本土とのシーレーンを確保する必要があった。
そのためにも、開戦前にも奇跡とも言うべき事象で手に入れた「松」型や輸送艦、海防艦を如何に運用するかが重要であった。
本当の戦いは、むしろこれからであった。
御意見、御感想お待ちしています。
今回の作品は、作者の「もし帝国海軍が補助艦艇を開戦までに大量に手に入れていたら?」というこれまで頭の中で何度となくしてきた仮想と、田中光二先生の作品へのオマージュとして書きました。