「運命」というものに対する素朴な疑問
最初にその疑問を感じたのは、一体いつのことだったのか今ではもう定かではない。しかし、記憶に残る限り、小学校入学以前にはそれを不思議に思っていたのは確かである。
その出来事が彼の運命を変えた
彼女は、運命を変えるために立ちあがった
私は、運命を変えてみせる!
こんな台詞が物語やテレビのドキュメンタリー番組などから聞こえてくるたびに、私は疑問を抱くのだ。
ある出来事を転機に物事が好転したとするならば、好転することが「運命だった」のでは?
運命を変えるために立ちあがったというが、そのように行動を起こすこと自体が「運命だった」のでは?
運命を変えてみせると決意すること自体が「運命だった」のでは?
「運命」というものが「人知を超えて定まっている未来の形のこと」であると定義するならば、人間がそれをどうこうしようと思うこと、ましてやそれを変えようとすることは不可能なはずではないか。
全て「運命」の掌の上で、我々人間は踊らされているに過ぎないのだ。
だから「私」が今こんな風になっているのは、私のせいではない。
私の「運命」が悪いのだ。
と、心の中で言い訳のように呟きながら、私は今日も惰眠を満喫するのである。
こんなこと考えていたこまっしゃくれた餓鬼は、とりあえず大人になりました。