十年目の怨嗟
――ずっと一緒だよ。
忘却の彼方にある幻影が笑う。
追憶の少女。
「それで幽霊も怖くないってわけですか」
若い僧の身の上話を聞いて、屋敷の主がガハハと笑う。
商人として一代で財を成したこの旦那、さぞやいい生活をしているのであろう。
初老に差し掛かろうとする年齢であるらしいが、恰幅も肌ツヤもよい。
禿げきってしまった頭さえなければ、若くも見えただろう。
別段笑うような話ではなかったはずだが、この旦那、供養のために来た若い僧の仏門に入るに至った話がえらく気に入ったらしい。
隣に座る奥方はといえば、曖昧な表情で微笑んでいる。
この奥方も佇まいから奥ゆかしい美人で、切れ長の目が少し尖った印象を与える。
「供養さんところのお坊様に念仏を上げてもらえるなら、あの子も成仏できるでしょう」
旦那がまたもやガハハと大声で笑う。
奥方の方も今度は、どことなく柔らかい笑みを浮かべている。
正式には四十九万供養寺というのだが、人々は親しみを込めて「供養さん」と呼ぶ。
その名の通り、死者を供養するのに秀でた経を唱えるお寺である。
この旦那、ひとしきり夕食を平らげると、「よろしくお願いしますね」と言って、席を立つ。
あまりにいそいそと出て行ってしまうものだから、「こんな夜中にどちらまで?」と聞くこともできなかった。
背後で奥方が「気にしないでください。別宅へ向かったのでしょう」と言う。
「仏間に出てくるのも、もともとあの人の妾だったんです。
もう十年ほども経つかしら……。
私が子どもを産めないから、旦那がどこかから連れてきたんだけど、うちに住むようになって早々に病死してしまってね。
大人しくていい子だったんだけどねぇ……」
奥方は若い僧にお茶を継ぎ足して、少し困ったような顔で視線をさ迷わせる。
「法事もしっかり行いましたし、あの子だって自分の意志でうちに来たんです。
私も旦那も決して不義理なことはしていません。だというのに、何が不満なんだか……」
一通り話を終えると、奥方は提灯を手に持って、果てしなく続くように思える廊下を先導する。
真暗い闇の突き当り、襖を開けるとそこは仏間であった。
奥方は燐寸を擦り、仏壇の蝋燭に火を付ける。
ぼんやりと揺れる炎が部屋を照らし出す。
畳敷きの簡素な部屋だ。
十二畳ほどの広さではあるが、壁にはめ込まれた仏壇の他には座布団が一つ敷かれているだけだ。
「あの子のこと、どうか頼みましたよ」
奥方が頭を下げて部屋を出ていく。
提灯は奥方が持っていってしまったので、部屋の中は蝋燭の明かりだけになってしまった。
今はもう空気の流れもなく、炎の揺らぎも見られない。
ひとり残された僧は座布団に膝を乗せて、経を唱えるために使う仏具を並べ立てる。
仏壇に並べられた二つの大きな蝋燭は、継ぎ火をしなくても、今晩を乗り切ってくれるだろう。
部屋は霊が出るというだけあって、うすら寒い。
けれど夏特有の湿度を伴っているので、まるで霧の中にいるような錯覚に陥る。
――すぅぅぅ
ひとつ、大きな深呼吸をしてから、若い僧は経を上げ始める。
十年に渡るの修行の末に、この若い僧は今では頭の中を無にしてでも念仏を唱えることができる。
低く朗々とした僧の声が、まるで歌のように部屋中に満たされる。
しばらくそうした頃であろうか。
僧は部屋の中に違和感を覚えた。
空気が泣くような耳鳴りがして、次にゾワリとこめかみの下に鳥肌が立つ。
――いよいよか。
第六感が、若い僧にその到来を告げる。
死んで十年も経とうというのに、未だ成仏には到らぬ可哀そうな霊魂。
初め、それは青白い靄のような形をしていたが、すぐに女の姿となって浮かび上がる。
まだ若い……少女と言ってもいいようなその姿。
僧ははっと息を飲む。
どうしたことか。自分は化かされているのだろうか。
その姿を、男はよく知っていた。僧よりも頭一つは小さな体。
少し力を込めてしまえば折れてしまいそうな華奢な体。
長い髪は腰のあたりで束ねられ、その髪留めは昔自分が贈った……。
念仏を唱えていた僧の口の動きが止まる。
驚嘆と喜びと、少し遅れて怒りが込み上げてきた。
愛を誓い合ったものの、自分を裏切った娘がそこにいた。
カーッと頭に血が上るのを感じる。
「己を捨て、獣にも劣る卑劣な真似をするから……。だから病死などするのだ」
喉元まで口に上がってきた罵声を寸でのところで押しとどめる。
いけない。自分は僧職の身。
十年に及ぶ修行の果てに、この少女のことも吹っ切ったではないか。
人の不幸を喜ぶなど、決してしてはならぬこと。
仏の教えをゆめゆめ忘れてはならぬ。
黒い感情を必死に彼方へと追いやって、再び経を唱え始める。
この経は全ての罪びとを救済するもの。
心を無にして、ただ死者のために祈りを捧げる。
だというのに、まるで我関せずといった表情のまま少女は、己のことなど既に忘却しているのだろう。
十年もの間化けて出るだなんて、どれだけの未練を抱えているのだろう。
どれだけの深い愛情を……あの男に……。
僧の心が恐ろしいほどに冷めていく。
(いっそこのまま成仏させず、現世に迷わせ続けてしまおうか)
自分でもびっくりするほど冷淡で残酷な考えが頭をよぎる。
乾いた笑いが口から漏れる。
同時に何もかもが、心底どうでもよくなってしまった。
かつて愛した少女を供養することもできないのだ。きっと己はもう供養寺にいる資格はない。
……もうどこにも居場所はない。
このままここから去って、誰もいないところで命を絶とう。
そう心に決めて、彼女から顔を背ける。
腰を上げようとしたところで、胸の内に違う感情が湧き上がっているのを感じる。
衝動とも情動とも違う。憐憫などでは決してない。
それはもうずっと長いこと果たされず燻っていたものであった。
芽生えた欲望に対する焦りと恐怖。
それは背徳背信の思考であった。
視線が少女から離れてくれない。
触れたくて触れたくて、ただ己の気持ちを伝えたくて仕方がない。
感情がまるでぐちゃぐちゃになってしまったようだ。
愛情と欲情の入り乱れたそれを、人は愛欲と言うのかもしれない。
死んだ少女に、もう一度触れたい。
それは死をも覚悟した若い僧の、最期の願いであった。
すぅと手を伸ばす。
掴めぬと思っていたが、手を伸ばしてみるとその手に触ることができた。
ぞっとするほどに冷たい。しかし、柔らかい。あの頃のままに。
ゆっくりと引き寄せ、少女を抱きしめてみる。
氷のように冷たい体に、夏だというのに体温が奪われて歯がカタカタと鳴る。
いや、震えているのは奪われた体温だけのせいではない。
歳の頃十四、十五のまだ年端もいかなかった恋愛だったせいか、彼はまだ女を知らなかった。
霊とは言え、見知った少女を抱くのだ。緊張しないわけがない。
じっとりとした夏の空気に汗は滴るが、喉はすでにカラカラである。
それがどれだけ人の道に背くことかを知ってなお、僧は少女の唇を吸う。
少女は無表情ながらも、僧の欲望を受け入れる。
歪な恍惚が僧を襲う。
満たされた欲望と、もどかしさ。そして悲しさであった。
その身体を強く抱き、再び唇を重ねようとしたとき、少女の睫毛を一粒の涙が濡らして、そして落ちた。
彼女の唇が小さく動く。
「……」
その唇の動きを読み取った時、ズシンと音が鳴る。まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃が僧の精神に走る。
少女は確かに自分の名前を呼んだのだ。
僧はあっけにとられて、少女の名を呼ぶ。
けれど少女はただ表情もなく己の名をつぶやくばかりで、こちらに焦点すら合わせてはくれない。
憐憫を誘う悲しい声だけが繰り返し少女の口から洩れる。
そういえば、と思い返す。
少女が嫁いだ後の、彼女の両親の態度と羽振り。
目が飛び出してしまうのではないかと思うほどに、怒りが再び込み上げてくる。
……彼女は……実の親に売られたのか。
どこまでも薄幸であった少女の人生に、怒りと悲しみが同時に湧き上がる。
両親に売られ、意に添わぬ男に抱かれ、幾夜己を想って泣いたのだろう。
どれだけの夜を重ねても、いや霊魂になろうとも、彼女の心だけは変わっていなかったのだ。
自分を裏切ったのだと思い込み、彼女を一切信じようとしなかった己の浅はかさが憎い。
少女を抱きしめる。
その口は未だ譫言を繰り返している。
優しく着物を脱がせてやる。それは二人にとって、初めての行為であった。
その虚しさを嘆きながら、せめてこの霊魂となってまで己を求める少女を愛してやりたいと、優しく抱きしめる。
――このまま成仏など、させてやるものか。
霊となった恋人の、恐ろしく冷たい体を抱きしめる。
死してようやっと繋がったことに皮肉めいたものを感じながらも、少女に自らを突き立てる。
そうすることに果たしてなんの意味があるのだろう。
彼女を慰めているのか、自らを慰めているのか、もはや理解などできようはずもなく……。
男の熱が移ったのであろう。少女の肌にほのかな赤みが差す。
それは彼女の首筋に、大きな黒い痣を浮き上がらせた。
首を絞めればこんな形の痣にもなろう。病死などではない。殺されたのだ。
一体どうして彼女がそんな運命をたどらなければならない。
愛しい少女の名を呼ぶ。
涙が僧の目からしとど零れ落ち、少女へと降り注ぐ。
悲鳴とも嘔吐きとも取れる声を上げて、やがて男は少女の中に果てる。
霊を抱きしめ、自らの命の幕引きを心に決める。
するとどうしたことか。少女の霊が僧を抱き返したのである。
「やっと来てくれた。ずっと待ってたのよ、私」
力なく少女が笑う。
僧の情愛が、涙が、彼女の心を溶かしたのであろうか。
お互いままならない人生ではあったが、これから先は……。
「もう離れない」
御仏もきっと二人の旅立ちを許してくれよう。
夜が明け、奥方が声をかけたが、仏間からは一切の返事が返ってこない。
不思議に思い襖を開くと、そこはもぬけの殻であった。
以来、この屋敷では幽霊の姿を見る者はいなくなったという。