馬車
「あ?こんなお上品な馬車がここで止まってるなんて珍しいな」
魚の入ったバケツを二人でつかんで、へとへとになりながら帰ってくると、うちとマックスの家の診療所につながる路地をちょうど塞ぐように四輪馬車が停まっている。紺色にしっかりと塗装を施された箱型馬車で、金メッキで縁取りされている。二頭の馬がくつろいでつながれており、手綱を握っている御者も煙草をふかせている。
中には誰もいない。
夕暮れはもう暗がりに飲み込まれそうで、日没まであと数分もない藍色の街に、ランタンの灯がともりつつある。
まわりのお店のおばさん達も落ち着きがない。「どこのご貴族さまかしら」「領主様の馬車じゃないだろ」「なんだってこんなところへわざわざ」と屋台の商品とテントを片付けた商人らが樽にもたれてざわめき立っている。そのおしゃべりの合間に「お帰り!晩御飯はとれたかい?」と声をかけてくれる。もちろん!と答えて進むけれど、マックスの足取りは早くならない。
「どうしたの?」
「んー・・・」
「マックス?」
「ユリア、あのさ、ちょっとここで待ってて。俺先にこのバケツもってウチに行ってくる。もしかしたらウチの客かもしれねぇし」
そういわれてみると、マックスの家はこの街の町医者なんだからこういう馬車に乗った患者もいるかもしれない。
でも、変じゃないかな。
「患者さんなら、マックスのお父さんがお屋敷に呼ばれるんじゃない?町におりてくるんじゃなくて」
「そうなんだよな・・・よっぽどの急患だったらお付きの従者が殺気だってるかもしれないし、とにかくちょっと待ってろ。そこのソニアばーちゃんちの喫茶店に行っとけ」
「え、でもおこづかいもってきてないよ」
「もって迎えにいくからさ。頼む」
なんだろう。そんなに変なお客さんがついてるの?マックスのところ。いつも陽気でどちらかというとがさつなマックスの、ブルーグレーの眼がいつになく真剣で、私はその提案に従うことにする。
「うん。わかった。すぐに来てね?」
「うん」
マックスは重そうに魚を一人両手で持ち抱えて、路地に入っていった。
私は向かい側の喫茶店に入る。木造一階建てのこじんまりした喫茶店で、ドアを引くとカランカランとベルが鳴り、ふわっと浅煎りの珈琲が香る。
「おやまぁ仕立て屋さんちのユリアちゃんじゃないか。どうしたんだい、もう閉店しようと思ってたとこだけど」
「あのね、マックスとここで待ちあわせしてもいい? 五分か十分か、ちょっとだけお邪魔してもいい?」
ソニアおばあちゃんは頷いてカウンターから一番近いテーブル席を、丸い顎で指してくれる。カウンターは十歳の私ではまだ上がるのがちょっと大変だからだと思う。ちなみに彼女の顎やほっぺたが丸くなっているのはお店のケーキを毎日おいしく味見しているからで、この街の経済状況からすると裕福な方だと思う。要はソニアおばあちゃんはぽっちゃりほんわりしている。ここアルエは決して貧しい街ではないけれど、ぽっちゃりした人を見かけることはとても少ない。
そしてこの年齢まで無事に生きている人に街で出会うことだって、極めて珍しい。
「珈琲飲んでみるかい?ミルクにする?」
「あ、大丈夫。ごめんなさい、おこづかいもって外に出なかったから。マックスに頼ることになっちゃう」
「はは。ブラウン診療所は領主さまのご贔屓もあるし、大丈夫大丈夫。ま、でもたまにはいいさね。あんたが一人でくるなんて珍しいしミルクを出してあげるよ」
お礼をいっておとなしく待つ。コーヒーカップに入ったホットミルクをいただいて、ふーふー冷ましながら飲む。窓ガラスの黒に今の自分が映っている。白に近い細い金髪はゆるく畝っていて、それを二つに高い位置で結んでいる。毎朝ママが残り布でつくったシュシュを使って結んでくれるやつだ。前世よりも余程白い肌に、緑の瞳。前世は一重に黒目だった自分からするとこの二重瞼はものすごく、ものすっっっっごく、実は尊い。転生係の人いい仕事したじゃん。このままモブには絶対させないんだからね。
おや?
そっか、そういえば。あの馬車はもしかしたら伯爵家のものかもしれない。そのお迎えかもしれない?
「ちょっと早くない?十代のうちにって確かにいったけど私今日十歳になったばっかりじゃん」
やっぱり違うかも?
ひとりで悶々としていると、カランとベルが響いた。「はーい」とおばあちゃんが返事をする。洗い物をしていた手をとめて麻布で手をぬぐいながら。